倉敷市
岡山県の市 ウィキペディアから
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倉敷市(くらしきし)は、岡山県の南部に位置する市。白壁の町並みが残る倉敷美観地区、本州と四国を結ぶ瀬戸大橋などで知られる。中核市・保健所政令市に指定されている。
くらしきし 倉敷市 | |||||
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国 | 日本 | ||||
地方 | 中国地方(山陽地方) | ||||
都道府県 | 岡山県 | ||||
市町村コード | 33202-0 | ||||
法人番号 | 6000020332020 | ||||
面積 |
356.07km2 | ||||
総人口 |
466,741人 [編集] (推計人口、2024年10月1日) | ||||
人口密度 | 1,311人/km2 | ||||
隣接自治体 |
岡山市、玉野市、総社市、浅口市、小田郡矢掛町、都窪郡早島町 (海上で隣接) 香川県:坂出市、丸亀市 | ||||
市の木 | クスノキ | ||||
市の花 | フジ | ||||
市の鳥 | カワセミ | ||||
倉敷市役所 | |||||
市長 | 伊東香織 | ||||
所在地 |
〒710-0833 岡山県倉敷市西中新田640番地 北緯34度35分06秒 東経133度46分20秒 | ||||
外部リンク | 公式ウェブサイト | ||||
ウィキプロジェクト |
岡山県下では県庁所在地で東に隣接する岡山市に次いで第2位(中国地方では第3位)となる約47万人の人口を擁し、岡山市や周辺自治体と共に岡山都市圏を形成している[注 1]。また、備中県民局の本庁が置かれ、県西部(高梁川流域圏)の中枢都市としての機能も有する[1]。
市中心部の倉敷川沿いの一帯は江戸時代に幕府直轄領(天領[2])になったのを機に繁栄し、和洋織りなす白壁の町並みが今も美観地区として保存され、県内有数の観光の街としての顔をもつ。一方、瀬戸内工業地域の中核都市として、水島地区を中心に、臨海部には石油コンビナートなど重化学工業地帯(水島臨海工業地帯)が形成されており、市内の製造品出荷額(2023年)は4兆5000億円超に上るなど[3]、西日本を代表する工業都市の一つでもある。製造品出荷額では、倉敷市だけで岡山県内の約45パーセントを占め、全国の市町村で第2位である(1位は愛知県豊田市の14兆円)[4]。
倉敷市の発足は昭和初期の1928年で、その後1967年に旧倉敷市・児島市・玉島市が新設合併したことにより2代目となる現在の市が成立した。さらに旧3市や現在の市が周辺町村の編入合併を繰り返し市域を拡げてきたため、現在の市は地理や歴史、文化の異なる多様な地域で構成され、核となる市街地も各地に分布する。主要な地域としては行政と観光の倉敷、重化学工業地帯のお膝元・水島、学生服とジーンズのメッカ・児島、貿易港と新幹線駅を有する玉島などがある。
市域は岡山県の南中央部に位置し、市の中西部を高梁川が北から南に流れ瀬戸内海に注いでいる。平野の多くは干拓地や沖積平野で占められ、児島地域を除き比較的平坦である。市内には児島、亀島山、玉島、連島など「島」の付く地名が多いが、それらの地域は元来文字通り「島」であり、干拓により陸続きになって今の市域が形成されている。
山陽新幹線・山陽本線・山陽自動車道・国道2号が東西に横断し、山陰地方を結ぶ伯備線、四国を結ぶ瀬戸大橋(瀬戸大橋線・瀬戸中央自動車道)も市内を経由しており、交通・物流の結節点としての重要な地位を占めるに至っている。
温暖で晴れの日が多く雨が少ない瀬戸内海式気候に属する反面、高梁川による豊富な水資源の恩恵で水不足になることは稀である。冬から春にかけては、中国大陸から流入する黄砂に見舞われることもある。また冬には積雪の観測される日も年に1~2回程度はあるが、大雪は極めて少ない。
太平洋高気圧に覆われる夏季には瀬戸内海沿岸特有の「凪」が発生し、気温が35度以上の猛暑や熱帯夜になる日もある。また、瀬戸内海を隔てて南方に位置する千数百メートル級の急峻な山々が連なる四国山地により台風が直撃することが滅多に無く、直上を通過しても四国山地で勢力が弱められて甚大な被害とはならない場合が多いのも特徴。
大部分が沖積平野と干拓地である平野部は河川や海の水面との差があまりない低地が多く、明治時代まで東西に分かれていた高梁川が度々氾濫を起こす水害の多い地域であった。しかし、大正時代に用水路の整備とともに改修工事が行われ現在の形に一本化された後は大規模な水害が減少した。
近年発生した顕著な気象災害として、2004年の台風集中上陸による高潮などの被害、2018年の平成30年7月豪雨(西日本豪雨)による真備地区での大規模水害が挙げられる[6][7]。
倉敷[8]の気候 | |||||||||||||
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月 | 1月 | 2月 | 3月 | 4月 | 5月 | 6月 | 7月 | 8月 | 9月 | 10月 | 11月 | 12月 | 年 |
最高気温記録 °C (°F) | 16.1 (61) |
22.5 (72.5) |
23.8 (74.8) |
30.5 (86.9) |
32.6 (90.7) |
35.2 (95.4) |
36.8 (98.2) |
37.1 (98.8) |
36.0 (96.8) |
32.4 (90.3) |
26.1 (79) |
20.6 (69.1) |
37.1 (98.8) |
平均最高気温 °C (°F) | 9.2 (48.6) |
10.0 (50) |
13.6 (56.5) |
19.3 (66.7) |
24.4 (75.9) |
27.3 (81.1) |
30.9 (87.6) |
32.2 (90) |
28.4 (83.1) |
23.1 (73.6) |
17.1 (62.8) |
11.5 (52.7) |
20.6 (69.1) |
日平均気温 °C (°F) | 4.6 (40.3) |
5.2 (41.4) |
8.5 (47.3) |
13.9 (57) |
19.1 (66.4) |
22.9 (73.2) |
26.9 (80.4) |
27.9 (82.2) |
23.9 (75) |
18.0 (64.4) |
12.0 (53.6) |
6.7 (44.1) |
15.8 (60.4) |
平均最低気温 °C (°F) | 0.3 (32.5) |
0.6 (33.1) |
3.5 (38.3) |
8.6 (47.5) |
14.0 (57.2) |
19.1 (66.4) |
23.6 (74.5) |
24.4 (75.9) |
20.1 (68.2) |
13.5 (56.3) |
7.3 (45.1) |
2.4 (36.3) |
11.5 (52.7) |
最低気温記録 °C (°F) | −5.4 (22.3) |
−8.0 (17.6) |
−3.5 (25.7) |
−0.8 (30.6) |
3.1 (37.6) |
9.8 (49.6) |
16.0 (60.8) |
17.1 (62.8) |
8.9 (48) |
2.7 (36.9) |
−0.9 (30.4) |
−4.1 (24.6) |
−8.0 (17.6) |
降水量 mm (inch) | 34.4 (1.354) |
42.4 (1.669) |
78.2 (3.079) |
82.5 (3.248) |
101.9 (4.012) |
149.8 (5.898) |
154.1 (6.067) |
81.3 (3.201) |
133.0 (5.236) |
93.6 (3.685) |
51.2 (2.016) |
40.4 (1.591) |
1,042.2 (41.031) |
平均月間日照時間 | 152.5 | 144.5 | 175.7 | 189.8 | 199.2 | 143.1 | 173.0 | 206.5 | 155.2 | 166.7 | 149.7 | 145.8 | 2,001.3 |
出典1:気象庁[9](平年値の統計期間:1991-2020年) | |||||||||||||
出典2:気象庁[10] |
(令和3年11月末日の登録人口による)
倉敷市と全国の年齢別人口分布(2005年) | 倉敷市の年齢・男女別人口分布(2005年) | |||||||||||||||||||||||||||||||||
■紫色 ― 倉敷市
■緑色 ― 日本全国 | ■青色 ― 男性 ■赤色 ― 女性 | |||||||||||||||||||||||||||||||||
倉敷市(に相当する地域)の人口の推移
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総務省統計局 国勢調査より |
当市は岡山都市圏に含まれ岡山市とは人的交流に加え行政面でも密接な関係をもち、全体的に岡山への通勤・通学者が圧倒的に多い。しかし、両市は過去に県主導で行われた合併構想を破談にしており、かつて倉敷市は代官所が置かれた天領、岡山市は外様大名の城下町であったという中心地域成立の歴史的違いによる対抗心も根強いものがある。なお、児島地域は岡山市と同じ旧備前国、江戸時代は岡山藩の支配下におかれ、交通の便も岡山市の方が良いなど繋がりが強く、本社の移転や最初の出店は岡山市内に構えることが多い。
また、県境を越えて西にある福山都市圏や、瀬戸大橋(瀬戸内海)を越えた対岸の高松都市圏との交流も少なくない。市内の地域によって事情は異なるが、地理的な位置関係からJR山陽本線沿線の玉島地域・倉敷地域は福山、南の児島地域は高松への通勤・通学者もいる。
香川県(海上で隣接)
各地域の沿革の詳細は、倉敷・水島・玉島・児島・庄村・茶屋町・船穂町・真備町の各ページを参考のこと。
市内の最も古いとされる遺跡は紀元前2万年ごろ先土器時代の鷲羽山遺跡で、この当時瀬戸内海は陸地であったと推測されている。1万年前に氷期が終わり海水面が上昇、6000年前までに海になった。なお、中津貝塚、福田貝塚、船元貝塚などといった、学史的に著名な遺跡が多く存在している。
もっとも早く村として形成されたとされるのが吉備路の南に位置する現在の庄地区北部で、この周辺はかつて「吉備の津」と呼ばれ吉備国の海の玄関であったことから、紀元前100年ごろの上東遺跡(じょうとういせき)に楯築遺跡(たてつきいせき)や王墓山古墳群、6世紀ごろに土器を生産した二子窯跡に加え650年ごろに作られた日畑廃寺跡など多くの遺跡が集中している。
現在の倉敷市一帯は3世紀から律令国になるまでは吉備国、飛鳥時代7世紀後半の壬申の乱をきっかけに行われた吉備分割後は旧児島郡に含まれる地区が備前、それ以外は備中になった。備中国の中枢および国府は共に倉敷市の北に隣接し備中国分寺のある総社市に置かれていたと推測され、高梁川を隔てた西に位置する真備地区一帯を拠点としていた吉備国の有力氏族・下道氏(しもつみち)出身の吉備真備が活躍したのは奈良時代8世紀後半ごろである。
倉敷地域の倉敷美観地区周辺は吉備の穴海(児島湖と児島湾の原型)と呼ばれた内海に浮かぶ鶴形山と向山によって形成された鶴形島(円亀島、阿智島)を起源とする。8世紀末・平安時代初めごろには既に陸続きになり、周辺は阿智潟と呼ばれる干潟であった。10世紀中ごろ、藤原純友の乱の後、小野好古が鶴形山に南に城を築き中世まで小野氏が支配したと云われる。倉敷の名前が登場するのは近世になってからであるが、以前より水夫(かこ)の港が現在の船倉町辺りにあったとされる。水夫達は周辺で行われた数々の戦いにかり出され、水軍として活躍したといわれている。なお、中世の高梁川河口は現在の水江・船穂町柳井原・船穂町水江付近である。
児島地域は吉備児島(または備前児島)と呼ばれた離島の西側にあたり、『古事記』や『万葉集』などに書かれた古くから海上交通の要衝であったためヤマト王権の時代に屯倉が置かれた。奈良時代に建立された熊野十二社権現の寺社地や通生荘(かよおのしょう)の荘園などが存在し、本州と四国を結ぶ中継地として機能していた。藤原純友の乱・源平合戦藤戸の戦い・南北朝の戦いなどに関わり戦国時代には政治軍事上の要地として豪族の争奪戦が行われるなど、度々戦乱の舞台にもなった。『太平記』に登場する児島高徳は当地の出身であるとする説がある。
玉島地域の平野は江戸時代初めごろまで七島・柏島・乙島(おとしま)などの島々に囲まれた甕ノ海(もたいのうみ)という内海であった。八島から道口一帯は甕ノ泊(もたいのとまり)といわれた天然の良港で中世から備中国の海の玄関になり、古墳時代 - 室町時代に陶(すえ)から亀山周辺で生産された須恵器(亀山焼)という甕(かめ)などの土器を出荷していた。また、玉島旧市街地周辺の海は『万葉集』で"玉の浦”と読まれ、場所は源平合戦・水島の戦いで舞台になった乙島と柏島から北に位置する七島に囲まれた一帯と推測される。
『和名類聚抄』(平安時代の辞書)によると7世紀の律令制によって定められた現在の倉敷市内にあたる行政区域は大まかに次の通りとされる。
※括弧内は近辺と推定される現在の地名
倉敷一帯の島々は豊臣政権の五大老であった宇喜多秀家が始めた干拓が江戸時代以降も続き、やがてそれらの島々が陸続きになり現在の平野が形成された。なかでも小豆島に匹敵する大きさの吉備児島は児島半島となった。江戸時代に入り幕藩体制下ではかなり複雑な統治がされており、場所によって様々な領地が入り乱れている。天領である倉敷代官所領の他、備中松山藩・岡山藩(鴨方藩・生坂藩などの支藩を含む)・浅尾藩・丹波亀山藩・岡田藩他の大名領に加え、知行処(旗本領)や寺社領などがあった。
天領になった倉敷旧市街は高梁川と児島湾を結ぶ運河として倉敷川が作られ内陸の港町になり、1614年備中松山城の城番で備中代官であった小堀政一が陣屋を構えた後、代官所(支配所)がおかれた。その後、倉敷が商人の町として発展したのは港の機能より年貢米の集積地としてであった。倉敷代官所は商人たちの自治を認め優遇したことで人口も増加し、領地は名目上5万石であったが、実質は10万石以上の領地を支配した。なお、倉敷代官所は現在の倉敷アイビースクエアのある場所に置かれ、美観地区の蔵屋敷はこれによって富を得た商人の蔵である。
児島地区は岡山藩の支藩である天城池田家支配の下、古くからの産業である塩田に加え、周辺の新田で栽培された綿花を使った機織りが盛んになり、藩はそれらに専売制を取り入れ財政の柱にすえる。やがて機織りによって作られた製品が地場産業となり、真田紐や足袋などといった名産品を生み出し“繊維の町・児島”の素地を形成していく。沿岸の港のうち下津井は北前船の寄港地、田の口と下村(現下の町)は瑜伽大権現と四国金刀比羅宮を結ぶ港として繁栄した。
玉島地区の甕ノ泊は備中松山藩藩主の水谷勝隆・勝宗親子と岡山藩による干拓で瀬戸内海側に面していた乙島や柏島と陸続きになった。その後、水谷氏により高瀬通しと呼ばれる水路が作られ、下流の玉島新田と阿賀崎新田は高梁川上流から高瀬舟によって運ばれてくる物資を北前船に載せる積出港として発展した。やがて“玉島湊”として全国に知られるようになるが、1693年水谷氏断絶後は幕府に領地の多くが接収され、備中松山藩領として残った羽黒神社周辺を除き倉敷代官所、岡山藩、丹波亀山藩などによって細分統治された。
現倉敷市の名称は、全国的にも観光地として知られる倉敷美観地区の周辺一帯の旧地名「倉敷村」に由来する。倉敷という地名は、中世に支配地の年貢米や貢納物を領主へ送るために、周辺の支配地からそれらを集めておく場所であった「倉敷地」に由来しているとする説が地元の歴史家の間では有力とされる。倉敷村はかつて倉敷地であったといわれている。倉敷地は「蔵屋敷が立ち並んだので、『蔵屋敷』地が転訛して『倉敷』地となった」といわれ、また「倉とは船蔵屋敷あるいは水夫屋敷のことを指す」ともいわれる。倉敷村が誕生したのは戦国時代 - 安土桃山時代の間(1565年 - 1585年)であるといわれ、「蔵敷」「倉輔」などとも書かれることもあった。江戸時代に幕府代官所が置かれ陣屋町となり、また物資の集散地になり、川港として栄えて豪商の蔵が建ち並び商家町として繁栄。現在の美観地区周辺の基礎が生まれた。
なお、倉敷地は全国各地にあったが、倉敷市同様に現代まで倉敷地に由来する地名が残っている例がある。たとえば同じ岡山県内の美作市林野も戦国時代ごろから倉敷村と呼ばれた。なお、こちらも江戸時代に天領となり代官所があった。1918年(大正7年)美作の英田郡倉敷町は旧郷名の林野郷(はいのごう)に由来する林野(はやしの)町に改名し備中の都窪郡倉敷町に倉敷の名を譲った形となった。現在も林野から吉野川(吉井川支流)下流の美作市巨勢(こせ)に下倉敷という字が残っており、宇野バスが運行する路線に下倉敷のバス停があるなど、倉敷地の名残は現在も残っている。
明治時代に郡役所が置かれた倉敷、味野、玉島の各村が周辺の村々を吸収し、大規模河川や山地によって隔てられたこれらの地域がそれぞれ市制を布き市域を拡大してきた。
1961年(昭和36年)、三木行治岡山県知事により岡山市・西大寺市・旧倉敷市・児島市・玉島市・玉野市・旧総社市を含む33市町村が合併する岡山県南百万都市建設計画が提唱され、協議会によりすべての市町村議会において合併合意にまで至った。
しかし、倉敷・岡山・児島の3市の首長は合併申請を行わず、高橋勇雄倉敷市長の失踪(これは三木県知事や森清企画室長の圧力に加え、合併推進派が用意したと思われる男女の議会傍聴席占拠行為、「中国新報」という赤新聞の発行などによる倉敷市長他関係者の誹謗中傷を新聞記事にして無料配布するなど、調印式前後に高橋市長自身が身の危険を感じたことによる失踪)、そして3市の脱退と三木知事の急逝により結局実現には至らなかった。
百万都市合併構想が頓挫した後、自治省事務次官の救済案の提示により岡山市を中心とする備前ブロックと旧倉敷市を中心とする備中ブロックの二つに分けてブロック毎に段階的な合併する方向に方針転換した。その後、合併協議会に加わっていた旧倉敷市・児島市・玉島市の旧3市が合併することとなったが、そのきっかけとなった理由は、それら旧3市で臨海工業地帯の工場用地にまつわる領有権争いを互いに回避したいとの思惑があったためと言われている。つまり、岡山県南百万都市建設計画問題の発端ともなった水島臨海工業地帯が旧3市の区域内にあり、倉敷市水島・児島市・玉島市各地区の海や川など当時の3市の境界線がぼんやりと定まらないなか、領有権争いの勃発を合併により未然に防いだとされる。
結果的に、現在の倉敷市は都窪郡・浅口郡・吉備郡(旧下道郡)・児島郡と広範囲の地域に及んでいる。
現在の岡山県倉敷市の中心市街地に概ね該当する区域に加え、現在の同市向山や新田を含む範囲を管轄していた。
前身となる倉敷村は、古くは吉備の穴海の西部にあたる阿知の海と呼ばれる海域にあった現在加須山から続く丘陵となっている島嶼にあった港町であった。早い時期より海洋交通の拠点となり、加子浦に指定されている。文禄・慶長の役には加子役銀を上納、近世初頭の島原の乱では浦手御用をつとめたという記録もある[18]。
中世末期、宇喜多秀家が家臣の岡利勝に命じ、阿知の海を干拓したことにより陸続きとなり、倉敷村は運河における河港となる。近世に干拓が引き続き行われ、周囲一帯は平野となり、運河は汐入川となり、倉敷村はその最上流となる(現在の倉敷川)[18][要ページ番号]。
近世初頭には備中松山の外港として、物資の集散拠点として繁栄。また出張陣屋も建てられ、陣屋町としても発展する。その後、幾度の領地変遷を経て天領(幕府直轄地)となった。寛永19年(1642年)には「倉敷代官」が派遣され(倉敷支配所)[19][20]、延享3年(1746年)には代官所建物が完成した[21]。
明治になると、倉敷県の管轄となり、県庁所在地となる。その後、小田県(深津県)を経て岡山県に管轄が変遷。1876年(明治9年)には、村南部にある向山や新田などの枝村や周辺村の飛地を併合。翌年には窪屋郡役所が村内に設置される。1887年(明治20年)に町制施行し、倉敷町へ改称。1900年(明治33年)には郡統合により都窪郡に所属が移った[18]。
1927年(昭和2年)に都窪郡倉敷町・万寿村・大高村の3自治体が対等合併し、新しい倉敷町を新設。翌1928年(昭和3年)に市制施行して倉敷市(旧)になり、のち周囲の町村を次第に編入合併していき、1967年(昭和42年)に倉敷・玉島・児島の3市が合併し、新しい倉敷市を新設し現在に至っている[18]。
代 | 氏名 | 就任年月日 | 退任年月日 | 備考 |
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1 | 植田年 | 1889年(明治22年)7月19日 | 1891年(明治24年)6月30日 | 倉敷村長
1891年6月16日町制施行 |
2 | 小山慎平 | 1891年(明治24年)7月24日 | 1893年(明治26年)7月14日 | |
3 | 植田年 | 1893年(明治26年)8月1日 | 1910年(明治43年)12月7日 | |
4 | 木村和吉 | 1910年(明治43年)12月13日 | 1918年(大正7年)12月12日 | |
5 | 原澄治 | 1918年(大正7年)12月18日 | 1924年(大正13年)5月21日 | |
6 | 関藤碩衛 | 1925年(大正14年)4月21日 | 1927年(昭和2年)3月31日 | 1927年4月1日倉敷町廃止
新倉敷町発足後も町長に就任 |
参考文献 - 倉敷市史 第11冊(永山卯三郎編著 名著出版 1974 1207頁) |
くらしきし 倉敷市 | |||
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倉敷市役所(1934年) | |||
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廃止日 | 1967年2月1日 | ||
廃止理由 |
新設合併 倉敷市、玉島市、児島市 → 倉敷市(2代) | ||
現在の自治体 | 倉敷市 | ||
廃止時点のデータ | |||
国 | 日本 | ||
地方 | 中国地方(山陽地方) | ||
都道府県 | 岡山県 | ||
面積 | 132.55km2. | ||
総人口 |
172,435人 ([22]、1967年) | ||
隣接自治体 |
東:庄村、茶屋町、早島町、興除村、灘崎町 西:船穂町、玉島市 南:児島市、丸亀市(海を挟んで隣接) 北:清音村、山手村 | ||
倉敷市役所 | |||
所在地 |
〒710 岡山県倉敷市住吉町256 | ||
座標 | 北緯34度35分41秒 東経133度46分08秒 | ||
特記事項 | 市役所は新市の本庁舎として1982年(昭和55年)まで使用。現在は倉敷市立美術館として利用されている。 | ||
ウィキプロジェクト |
1927年、都窪郡倉敷町(初代)・万寿村・大高村の3町村が新しい倉敷町(2代)を新設。翌1928年に岡山県内で岡山市に次いで2番目に市制施行し、倉敷市(初代)となった。その後、幾度かの周辺との編入合併を行う。1967年に周辺の児島市・玉島市と新設合併を行い、新しい倉敷市(2代、現行の倉敷市)となり、旧・倉敷市は消滅した。
現在の倉敷地域と水島地域を合わせた地域が旧・倉敷市の範囲である。
代 | 氏名 | 就任年月日 | 退任年月日 | 備考 |
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初 | 関藤碩衛 | 1928年(昭和3年)4月1日 | 1929年(昭和4年)1月6日 | 新・倉敷町から引き続き市長就任 |
2-3 | 平松俊太郎 | 1929年(昭和4年)7月27日 | 1937年(昭和12年)7月26日 | |
4-6 | 古屋野橘衛 | 1937年(昭和12年)7月27日 | 1946年(昭和21年)11月25日 | |
7 | 金子藤一郎 | 1947年(昭和22年)4月5日 | 1949年(昭和24年)1月6日 | |
8-11 | 高橋勇雄 | 1949年(昭和24年)2月20日 | 1964年(昭和39年)9月25日 | |
12 | 大山茂樹 | 1964年(昭和39年)11月5日 | 1967年(昭和42年)1月31日 | 新・倉敷市初代市長 |
参考文献 - [23] [24] |
代 | 氏名 | 就任年月日 | 退任年月日 | 備考 |
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初 | 古屋野橘衛 | 1928年(昭和3年)4月21日 | 1932年(昭和7年)2月24日 | |
2-3 | 林源一 | 1932年(昭和7年)2月24日 | 1936年(昭和11年)4月11日 | |
4 | 古屋野橘衛 | 1936年(昭和11年)4月22日 | 1937年(昭和12年)7月26日 | 退任後の翌日に市長就任 |
5 | 船曳貞治郎 | 1937年(昭和12年)8月5日 | 1938年(昭和13年)10月23日 | |
6 | 小野奏次郎 | 1938年(昭和13年)11月4日 | 1942年(昭和17年)8月5日 | |
7 | 安居じん太郎 | 1942年(昭和17年)8月16日 | 1943年(昭和18年)7月23日 | |
8 | 白神種二 | 1943年(昭和18年)9月11日 | 1947年(昭和22年)3月19日 | |
9 | 高橋勇雄 | 1947年(昭和22年)5月19日 | 1949年(昭和24年)1月27日 | 退任後の2月20日に市長就任 |
10 | 神崎松次 | 1949年(昭和24年)2月28日 | 1951年(昭和26年)4月29日 | |
11 | 三宅為一 | 1951年(昭和26年)5月8日 | 1955年(昭和30年)1月8日 | |
12 | 山本一郎 | 1955年(昭和30年)1月8日 | 1955年(昭和30年)1月21日 | |
13-14 | 三宅為一 | 1955年(昭和30年)2月21日 | 1961年(昭和36年)2月13日 | |
15-16 | 尾高源十郎 | 1961年(昭和36年)2月13日 | 1967年(昭和42年)1月31日 | 新・倉敷市初代市議会議長 |
参考文献 - [24] |
倉敷市は2011年(平成23年)3月「都市計画マスタープラン」[25]を策定し、その中で「地域別まちづくりの方針〈地域別構想〉」[26]として、人口・面積規模が大きく一定の生活圏の広がりを有している本庁(倉敷)および水島・児島・玉島支所の各管轄エリアを「地域」、先の4エリアより人口・面積の規模は小さいが身近な生活圏を担っている庄・茶屋町・船穂・真備支所の各管轄エリアを「地区」と設定。市内を4地域4地区に分けて街作りの方針を掲げている[25]。
上記の8エリアのうち倉敷・水島は2エリア合わせて旧倉敷市域に相当し、他のエリアは各支所管内が各旧自治体域に相当している。なお、8エリアの単位呼称は場合や組織により変わることもあり、地域・地区と呼び分けずに、地域または地区もしくは他の呼称を統一したり、単位呼称をつけずに呼んだりと、弾力的に呼称されている。
またエリア分けも組織などにより複数のバリエーションがあり、例えば「4地区」を近隣の「地域」に含み、庄・茶屋町を倉敷、船穂・真備を玉島に含むこともある。また他にも、倉敷と水島を併せて旧倉敷市域という意味で「倉敷」として扱う場合もある。
(+印は在職中死去)
倉敷市役所も参照
行政区域が倉敷・児島・玉島・水島・庄・茶屋町・船穂・真備と8区分される。 倉敷地区には本庁があり、残りの7地区にはそれぞれ支所が配置されている。また、児島・玉島・水島の3支所は総務課・税務事務所・市民課・福祉課・国保介護課・産業課・建設課などが設けられている。
主要な組織(局)のみ記載(2011年(平成23年)4月1日現在)
倉敷市消防局(都窪郡早島町・浅口市金光町地域の消防業務も受託している)
1990年代半ばまで倉敷市は工業地帯や児島競艇場などからの潤沢な収入により、地方交付税を受けない非交付団体であった。そのため市役所を始め豪華な施設や過剰と思われるような道路を建設するなど市民から不評の声も少なくなかった。人口増加も横這い傾向にもかかわらず都市計画は見直されず、市街地のスプロール化を招き、下水道に代表される公共事業費が膨らみ財政を圧迫した。[要出典] その結果、長引く景気の低迷による収入の減少に従い、地方交付税交付団体となる。
現在は支出の削減に取り組んでいる。例えば、行政施策を3年のローリング方式により毎年度見直しし緊急を要しない事業の削減、借金である市債の発行の抑制、施設の管理などの外部委託による市職員の削減などである。しかし、地方分権の一環による税源移譲は刻々と進まず、地方交付税交付金の激減と市債の償還によって現在も苦しい財政状況にある。
平成29年度当初予算[注 4]
総額(歳出と歳入の合算) ― 356,776,964千円(102.0)[27]
財政調整基金 - 11,070百万円(159百万円増、平成30年3月31日現在)[28]
市債残高 - 172,814,479千円(177,289千円増、平成28年度)[29]
財政力指数 - 0.865(平成29年度)[29]
※括弧内は前年比。
会派名 | 議席数 | 議員名(◎は代表者) |
---|---|---|
未来クラブ | 8 | ◎大橋賢、赤澤幹温、片山貴光、中西公仁、原田龍五、矢野周子、山畑滝男、若林昭雄 |
くらしき創生クラブ | 7 | ◎三村英世、荒木竜二、伊東裕紀、北畠克彦、難波朋裕、森守、守屋弘志 |
公明党倉敷市議団 | 7 | ◎梶田省三、井出妙子、生水耕二、仙田貴孝、中西善之、新垣敦子、薮田尊典 |
新政クラブ | 5 | ◎大橋健良、大守秀行、塩津孝明、瀧本寛、松成康昭 |
新風くらしき | 5 | ◎日向豊、芦田泰宏、尾﨑勝也、中島光浩、平井俊光 |
日本共産党倉敷市議会議員団 | 4 | ◎末田正彦、田口明子、田辺牧美、三宅誠志 |
青空市民クラブ | 3 | ◎藤井昭佐、小郷ひな子、齋籐武次郎 |
無会派議員 | 4 | 秋田安幸、塩津学、時尾博幸、藤原薫子 |
計 | 43 |
他
一部の地区を除いて主要市街地が山や川で地理的に分断され独立しているため、それぞれの地区に核(商店街など)となる部分が存在する。ところが、近年の車社会の影響でロードサイド型の店舗が乱立し始め、それぞれの地区の核がなくなりつつある。特にイオンモール倉敷の開業は倉敷地域を中心に市内各商業地域に深刻な影響を与えた。
主な工業統計(平成17年)
主な農業統計(平成17年)
地区別の主な名産
※かつて倉敷市は藺草栽培とそれを原料に畳表・花筵の生産が行われ全国でも有数の産地であったが、現在は僅かしか行われておらず多くが中国産などの輸入品によって上記の二次製品が作られている。
主な水産統計(平成15年)
主な水産物
※太字は上場企業
製造
製造 (食品)
製造 (被服)
卸売・小売・商社
運輸・通信
金融
サービス
サービス (飲食)
※太字は上場企業
以下の各社が運行する。
愛称名 | 運行会社 | 運行区間 |
---|---|---|
首都圏発着夜行路線 | ||
ルミナス・マスカット号 | 両備バス 下津井電鉄 関東バス 小田急ハイウェイバス |
東京(バスタ新宿) - 倉敷駅北口 |
ままかりライナー | 両備バス | TDL・東京(上野駅前・東京駅八重洲通り) - 倉敷駅北口 |
WILLER EXPRESS | TDL・東京(バスタ新宿) - 倉敷駅北口 | |
オリオンバス | オー・ティー・ビー | 東京(東京駅鍛冶橋駐車場) - 倉敷駅北口 |
JAMJAMライナー | ジャムジャムエクスプレス | 東京(バスタ新宿・BT東京八重洲)・横浜市(YCAT) - 倉敷駅北口 |
KBライナー | 千葉みらい観光バス | 東京(バスタ新宿)・横浜市(横浜駅東口) - 倉敷駅北口 |
首都圏以外発着の路線 | ||
(愛称名なし) | 両備バス 名鉄バス |
名古屋市(名鉄BC) - 倉敷駅北口 |
ペガサス号 | 両備バス 下津井電鉄 |
福岡市(博多BT・天神高速BT)・北九州市(引野口・砂津・小倉駅前) - 倉敷駅北口 |
京都エクスプレス | 両備バス 下津井電鉄 京阪京都交通 |
京都市(京都駅八条口) - 倉敷駅北口 |
マドンナエクスプレス | 両備バス 下津井電鉄 伊予鉄バス JR四国バス |
松山市 - 鷲羽山北・有城南 |
龍馬エクスプレス | 両備バス 下津井電鉄 とさでん交通 JR四国バス |
高知市 - 鷲羽山北・有城南 |
岡山空港リムジンバス | 下津井電鉄 中鉄バス |
岡山桃太郎空港 - 倉敷駅北口 |
倉敷市内において、2006年10月10日以降に車庫登録する車両には「倉敷」ナンバーが交付されている。従前の地域名は「岡山」であったが、いわゆるご当地ナンバー制度の開始に伴い、倉敷市などの同制度の導入により、変更されたものである[34]。「倉敷」ナンバーは倉敷市のほか、笠岡市・井原市・浅口市・浅口郡里庄町・小田郡矢掛町の3市2町にも導入されている[35]。
倉敷地域
水島地域
児島地域
玉島地域
船穂地区
真備地区
倉敷地域(庄、茶屋町を含む)
水島地域
児島地域
玉島地域
船穂地区
真備地区
独立行政法人高齢・障害・求職者雇用支援機構立
公立
供給戸数 49,000戸
給水人口辺りの普及率 99.91パーセント(2015年度)[36]
水道管理事業者
給水事業体および供給地区(全て高梁川から取水、配水量は倉敷市分)
処理人口辺りの下水道普及率 80.6パーセント(2020年3月31日時点)[37]
市外局番は倉敷MA(086(市内局番は420 - 489、520 - 529、552、553、691、697、698))である。 なお、真備町については、2009年6月1日より総社MAから倉敷MAに編入され、以降、倉敷市真備町と総社市との相互通話は隣接扱いとなった。
地上波テレビ局
倉敷地域は岡山本局(金甲山)を受信。それ以外の地域は水島、児島、玉島、玉島南、総社、岡山北、西讃岐などの各中継局を受信。
地方紙
全国紙
倉敷地域
児島地域
玉島地域
船穂地区
真備地区
主な市内観光地の年間訪問者数
倉敷地域
水島地域
児島地域
玉島地域
真備・船穂地区
映画ロケ
ドラマ
小説
漫画
アニメ
楽曲
ゲーム
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