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KADOKAWAの映画ブランド ウィキペディアから
角川映画(かどかわえいが)は、KADOKAWAの映像事業ブランドおよび、同社の前身企業[注釈 1]によって、1976年より製作された一連の映画の通称・総称である。
一般的に「角川映画」という呼称は、KADOKAWAの前身、角川書店による映画を元にしたメディアミックス展開の一例としても捉えられている。メディアミックスの成功例の代表として「角川商法」と称されている。
1976年、当時角川書店社長だった角川春樹は、自社が発行する書籍(主に角川文庫が中心となった)の売上向上のため、その宣伝として映画を利用することにした。当時、推理作家の横溝正史ブームを仕掛けていたため、横溝作品の映画化に関わっていた。最初は1975年にATGの『本陣殺人事件』に宣伝協力費の形で50万円を出資した。ところが次に組んだ松竹の『八つ墓村』が松竹側の都合で製作が延期され、書店で予定していた横溝正史フェアに影響したことから、角川は自ら映画製作を行うことを決意し[1]、1976年に第1作『犬神家の一族』を公開した。
それまでの映画会社はテレビをライバル視していたことと、あまりに広告料が高いためテレビCMはあまりやらなかった。しかし角川は広告費をつぎ込み、テレビCMなど宣伝をうち、書籍と映画を同時に売り込むことによって相乗効果を狙った結果、成功を収める。映画製作を目的とした(初代)角川春樹事務所も、1976年に設立された。翌1977年の第2作『人間の証明』は日活撮影所で撮影し、配給は東映、興行は東宝洋画系という従来の日本映画界では考えられない組み合わせで映画界に新風を巻き起こした[2]。日本のメジャー映画会社と違い、自社で人員を抱えず、撮影所も持たずに製作するため、最も頭を悩ませる部分を負担せずに済む、効率の良い「おいしいとこ取り」の製作手法であった[3]。脇役には主演作が多い三船敏郎・鶴田浩二らを起用し、監督へも高額の演出料を払った。テレビCMでは映像と「お父さん怖いよ。何か来るよ。大勢でお父さんを殺しにくるよ」、「狼は生きろ、豚は死ね。」、「歴史は、我々に何をさせようというのか?」、「カイカン。」などのキャッチコピーや劇中の台詞と音楽が流れ、映画と出版と音楽による相乗効果のメディアミックスは角川商法と呼ばれた。横溝に続いて森村誠一・大藪春彦・半村良・赤川次郎らの小説も次々と映画化された。角川文庫には映画割引券をしおりとして封入した[4][5][6]。
映画音楽や主題歌にも力を入れ[7]、音楽著作権管理する角川音楽出版や音楽企画制作の角川レコードを設立。1970年代は上記映画のほか、1978年の『野性の証明』、1979年の『戦国自衛隊』と大作路線を続けていくが、この1本立て上映の大作路線は、当時は2本立てのプログラムピクチャーを上映していた他社にも影響を与えて、大作ブームを招いた[8][9][10]。この他、1976年から1980年頃まで、大阪の毎日放送制作によりTBS系で放送された「横溝正史シリーズ」や「森村誠一シリーズ」などのテレビドラマの企画を、一連の角川映画と連動する形で角川春樹事務所が手がけた。
1980年代は1980年の『復活の日』を最後に大作一辺倒の路線の撤退を宣言し[11]、スター・システムによる2本立て上映のアイドル映画を中心に、プログラムピクチャーを量産するようになる[12][13]。製作費に22億円をかけた『復活の日』が[注釈 2]、配給収入24億円の結果[注釈 3]に終わって制作費を回収できず、路線変更をせざるを得なかったのである[16]。正月作品の大作『戦国自衛隊』も配収13億5000万円を挙げながら収支がトントンといった状態であった[17]。ハイリスクの大作映画に対して『セーラー服と機関銃』(1981年)は製作費1億5000万円と[18]『復活の日』の10分の1の予算ながら興行成績では『復活の日』に匹敵する配給収入23億円を挙げた[注釈 4]。映画公開当時、角川書店から出版されていた赤川次郎の本は、文庫が『セーラー服と機関銃』と『血とバラ』、単行本が『さびしがり屋の死体』、『悪妻に捧げるレクイエム』の計4冊しかなく、大規模なブック・フェアは出来なかった[21]。中川右介は、角川映画のビジネスモデルが「文庫本を売るための映画作り」から「専属女優とそのファンのための映画作り」に『セーラー服と機関銃』から移行したと分析している[22]。翌1982年に角川春樹事務所はコンテストで渡辺典子・原田知世を発掘[23]。既に専属女優だった薬師丸ひろ子を含めて彼女たちは角川3人娘と呼ばれた。1983年の『探偵物語』と『時をかける少女』の2本立ては配給収入28億円に達した[24]。彼女らはテレビに露出することが少なく、テレビに出演しているアイドルが映画に出演するという1970年代以降の形でなく、映画全盛期のスクリーンでしか見られなかったかつての映画スターと同様の存在として、若い観客を映画館へ呼び戻し[25][13]、自社スターによるプログラムピクチャー路線で角川映画の1980年代前半を牽引した[16]。自社雑誌『バラエティ』を1977年に創刊して情報の発信をしていた[26]。
1983年には、マッドハウスと組んでアニメ映画にも進出[27][28]。角川アニメ第1弾の『幻魔大戦』は[24][29]、配給収入で10億円以上を記録し[24]、同年末の『里見八犬伝』は1984年の配給収入で邦画1位の23億2000万円を計上している[30][注釈 5]。こうして1970年代末から1980年代半ばの角川映画は、洋画とテレビに押される一方だった日本映画界の停滞を打ち破るヒットを連発した。角川映画の指揮をとりキャッチコピーも考えていた角川春樹は、西崎義展や山本又一朗らの独立プロデューサーとともに映画界の寵児になり[32]、1982年には優秀なプロデューサーに贈られる藤本賞を受賞した。映画宣伝の際は俳優や監督以上に積極的にメディアへ露出し、角川映画は角川春樹の代名詞とも言える存在であった。当初は話題先行と見られて映画評論家からは低かった評価も、1982年の『蒲田行進曲』、1984年の『Wの悲劇』と『麻雀放浪記』が映画賞を受賞し、『犬神家の一族』の後は圏外が続いていたキネマ旬報ベスト・テンにランクインするなど、内容的な充実も認められるようになった[26][33][34][35]。
日本映画界に定着する一方で、製作から10年目を迎えた1980年代後半以降、角川映画の勢いは失速していった[36][37]。それには、民放のフジテレビが映画界に本格参入して[注釈 6]、角川映画のお株を奪う大量スポットや局を挙げてのメディアミックス戦略を仕掛けたこと[38][39]、また、内部的には1985年に薬師丸ひろ子が角川春樹事務所から独立、翌1986年には同事務所自体が芸能部門から撤退して、所属する原田知世と原田貴和子、渡辺典子も独立したことなど[40][41] の影響があった[36][37]。
角川春樹時代の角川映画は作品の製作のみで、完成した作品の配給と興行は東映や東宝など他社に依存。1981年にはジャニーズ事務所の『ブルージーンズメモリー』と2本立てだった『ねらわれた学園』の宣伝の扱いをめぐって配給する東宝とトラブルになる[42][43]。1985年になって念願の配給業に乗り出し、さらに札幌市で角川春樹事務所が経営する形の「角川シアター」という映画館を開いて興行を始めるも、配給は2本の共同配給で終わった。角川シアターもその後は松竹系の札幌ピカデリーを経てアーバンホールとなったが[注釈 7]、このときの配給と興行の試みは成功しなかった[37][44]。当時の角川作品は松竹に匹敵する配給収入を挙げており、自社配給と自主興行を成功させ、第6の映画会社として自立されることを恐れた日本映画界の妨害があったともされ[45][46]、東映の岡田茂は、角川の自主配給の動きに対し、今後は協力しないと突き放す発言をしている[47]。
監督は市川崑・佐藤純彌・深作欣二ら実績のあるベテランに加えて、1980年代から当時若手だった大林宣彦・相米慎二・井筒和幸・森田芳光・根岸吉太郎・崔洋一や、ほぼTVのみに活動が限られていた中堅の斉藤光正らにチャンスを与え、積極的に登用するようになった[48][49][50][51]。
監督で佐藤純彌・深作欣二、俳優で高倉健、千葉真一、渡瀬恒彦、室田日出男、松田優作、真田広之といった東映出身者の積極的起用は[52]、角川映画の作品スタイルが娯楽アクションの雄・東映の系譜にあることを物語る[52]。
1990年には1990年代初の大作『天と地と』を手がけて興行収入は92億円を上げた[53]。しかし1992年にハリウッド進出第1弾と称した『ルビー・カイロ』を製作するが失敗し、これらを含む一連の映画事業の失敗が、角川春樹と弟の角川歴彦の対立を招く下地となり、1992年に角川書店のお家騒動が勃発する[54]。翌1993年には、角川映画を牽引した角川春樹が薬物所持により逮捕され、角川書店を離れる事態に至り、同年7月封切の『REX 恐竜物語』が角川春樹が角川書店在籍中の最後の映画となる[注釈 8]。
角川春樹製作時代の「角川映画」の著作権を巡って、角川春樹と角川書店の間で係争も起こった。著作権は自分にあるとする角川春樹の提訴に対して、東京地方裁判所は角川映画の著作権を角川書店側に認める判断を下している[56]。角川春樹がかつて製作した映画には「角川春樹事務所作品」または「Haruki Kadokawa Presents」というタイトルクレジットがあり、これらはビデオソフト化やテレビ放送の際には削除されていたが、2014年よりリリースされた4Kスキャニングマスター版Blu-rayシリーズ以降に新規マスターが製作された作品は、無修正のまま収録ないし放送される機会が多くなっている。
1982年5月29日の朝日新聞朝刊「討論の広場」欄で「日本映画はどこへ行く」と題して、岡田茂日本映画製作者連盟会長、映画監督・大島渚、小栗康平、映画評論家・白井佳夫が参加して討論会が行われた[57]。討論会の趣旨は、映画人口が最盛期の1958年の11億人から1981年に1億5000万人に割り込んだことを受け、白井が「角川春樹のセンセーショナルな大宣伝によってマイナーな娯楽映画を大ヒットさせる商法に屈服した映画業界」などを問題提起して挙げ、長い討論会中、角川映画に関する言及は、角川春樹を支援していた岡田茂は「角川はいま日本で、監督はまずまず揃っているが、これをどうして、いつ当てて、どういう宣伝をして、どうやって金を取るかと、見通しを持ちながら全てのことをちゃんと支配していくプロデューサー」と評価した。しかし大島渚は「角川さんはプロデューサーとしてある意味強すぎて、監督とのバランスが全部とれない。あの人のところで誰が撮ったって全部角川さんの映画になって、監督の映画が全然出ない。これはいいプロデューサーじゃないんですね、結果的には」と評し、白井佳夫は「プロデューサーというのは元々縁の下の人なんですよね。角川さんは十本以上の映画をあれだけ当てた。角川と組んで映画をすることで有名になった監督が二、三人出なきゃ嘘だし、角川によってスターになった女優や男優が五、六人は出なきゃ嘘なんですよね。まあ薬師丸ひろ子というスターが一人出たけども、あとはみんな既成のスター、既成の監督、既成のシナリオライターを使って作っている」などと評した[57]。
大島渚は1987年5月8日に文芸坐ル・ピリエで開催された「大島渚シンポジウム」で[58]、「岡田茂さんは、映画を当てるのは個人の情熱やでと言った。萬屋錦之介が久々に『柳生一族の陰謀』を当てたが、これは錦之介の情熱だった。客は選択眼が鋭い。その映画にかかっている情熱を直感する。情熱は金でもあるが、角川映画もかつてはそうだった。結果的に愚作で観に行ってバカバカしいと笑うのも楽しみがある」などと初期の角川作品は評価している[58]。
1981年の日本映画界の観客動員1500万人減について、映画評論家の白井佳夫は大量宣伝で成功する角川映画を原因として決めつけた[59]。それに対し、角川春樹は大量宣伝で成功した角川映画は『人間の証明』1本しか存在しないと反論した[60]。映画監督の大島渚は、当初は角川映画は旧態依然とした日本映画界を覆したと評価していたが[61]、後に[いつ?]角川映画が大量の前売券を企業に購入させたことと大量宣伝を批判した。前売券が金券ショップで安価で売られて正規の料金で入場した観客の不信感を買うこと、そして大量宣伝につられて映画を見に行ってもつまらない映画だった場合に映画そのものが観客に疑われるようになるというのがその主旨である[62]。角川映画への批判の中心はこの大量宣伝と前売券による動員、そして作品の質が伴わないという3点であった[63]。
前売動員を始めたのは角川映画からという意見は完全に間違いで[64]、このやり方は1969年の『超高層のあけぼの』あたりから本格化したもので[64]、『人間革命』『続・人間革命』における創価学会の大量動員は角川以前に大きな話題を撒いた[64]。角川映画は初期の頃から角川書店グループ及び下請け会社に前売券を押し付けたが[64]、それが表に出ることはなかった[64]。表に出た切っ掛けは角川ではなく、角川の成功に触発されて出て来た80年代初期の他企業が角川の真似を始めて以降で[64]、日本のメジャー会社もそのやり方を踏襲するようになり[64]、80年代後半には日本映画界でも前売動員は過激なものになり、ディスカウントショップで大量の前売券が流通する現象や、大ヒットと伝えられる劇場は閑古鳥が鳴いている現象が通例と化した[64]。
映画監督の佐藤純彌は1986年、斜陽の日本映画界にあって角川映画が映画ビジネスが儲かるものであることを証明し、これに追随して異業種から映画界への資金提供者が現れたこと、久々に薬師丸ひろ子や原田知世といった映画界出身のアイドルを誕生させたこと、従来の新聞中心だった映画宣伝を改変したこと、日本映画界の縦割りの構図を破り、既成メジャーとは異質の映画作りを成立させたことなどを角川映画の功績として挙げている[65]。
映画評論家の田山力哉は、評価できるのは『蒲田行進曲』くらいで、角川映画は札束映画、前売券をバラまいて日本映画はひどいものという印象を与えたとこき下ろした[66]。
映画ジャーナリストの大高宏雄は、角川春樹時代の角川映画は映画製作本数が65本、製作会社としては空前の総配給収入463億円、当時の日本映画歴代配収ベスト50位の中に12番組がランクインと、20年近く、日本映画を興行的側面から支えてきた功績を指摘している[67]。東映・東宝・松竹の大手3社はその恩恵を受け、自らは製作部門を分離するなか、最もリスクの多い映画の製作という役割を角川映画が引き受け、または、角川映画に引き受けさせたとも分析している[67]。
映画評論家の増當竜也によれば、観客から支持されても映画評論家や映画マスコミからは「ヒットはしても中身はない」と言われた角川映画のイメージは、『人間の証明』[注釈 9]・『野性の証明』[注釈 10]の「証明2部作」によって決定づけられた[68][69]。
脚本家の野沢尚は、1995年の著書で「角川映画が現れるまでの70年代半ばといえば、日本映画は『男はつらいよ』と『トラック野郎』と百恵・友和映画…いわば中規模のプログラムピクチャーで何とか体裁を整えていた。ひょっとしたらその頃、日本映画は『もう作るのをやめたい』という気分だったかもしれない。そこに角川春樹が登場した。要するに、リスクを背負って映画を作ろうとする彼の情熱(広義の意味で)を、日本映画は徹底的に利用したのだ。そして、惜しげもなく金を注ぎ込んでくる門外漢に、ただただ圧倒された。極論すれば、角川映画にすがることで、日本映画はその後の10年以上を騙し騙しで存続できたのだ。あの程度の存続なら、その頃に壊れた方がよかった…と斜に構えて言う人がいるかもしれないけど、あの一群の映画があってこそ、花開いた才能もあったはずだ。角川映画に対するアンチテーゼとして、マイナーリーグから現れた映画作家も一方でいたはずだ。角川映画はなくなる。狂人であろうが怪人であろうが、角川さんのような、何かに取り憑かれてリスクを背負っちゃう人間を、日本映画が再び利用しない限り、この状況は変わらない。そういう人間が登場して、また日本映画はそれから10年間を騙し騙しで続くのだ」などと評していた[70]。
マッドハウス社長であった丸山正雄は、角川アニメが子供向けではないアニメ映画の制作されるきっかけになったとし、アニメーションの歴史においても大きな影響を与えたとの考えを述べている[71]。また、角川春樹がスタッフの自由にやらせ、古いものを壊し新しい要素を取り入れていったことも重要であったとしている[71]。
No. | 公開年 | タイトル | 配給収入[注釈 11] (単位:億円[注釈 12]) |
---|---|---|---|
1 | 1976年 | 犬神家の一族 | 15.6 |
2 | 1977年 | 人間の証明 | 22.5 |
3 | 1978年 | 野性の証明 | 21.8 |
4 | 1979年 | 蘇える金狼/金田一耕助の冒険 | 10.4 |
5 | 1979年 | 戦国自衛隊 | 13.5 |
6 | 1980年 | 復活の日 | 24.0 |
7 | 1980年 | 野獣死すべし(東映との提携作)/ニッポン警視庁の恥といわれた二人 刑事珍道中(日本テレビ放送網との提携作) | 7.3 |
8 | 1981年 | スローなブギにしてくれ(東映との提携作) | 3.9 |
9 | 1981年 | ねらわれた学園/東宝映画『ブルージーンズメモリー』 | 12.5 |
10 | 1981年 | 悪霊島/蔵の中 | 9.3 |
11 | 1981年 | セーラー服と機関銃(キティ・フィルムとの提携作)[注釈 13]/東映映画『燃える勇者』 | 23.0 |
12 | 1982年 | 化石の荒野(東映との提携作) | 2.6 |
13 | 1982年 | 蒲田行進曲(松竹との提携作)[注釈 14]/この子の七つのお祝いに(松竹との提携作) | 17.6 |
14 | 1982年 | 汚れた英雄(東映との提携作)/伊賀忍法帖(東映との提携作) | 16.0 |
15 | 1983年 | 幻魔大戦 | 10.6 |
16 | 1983年 | 探偵物語/時をかける少女[注釈 15] | 28.0 |
17 | 1983年 | 里見八犬伝 | 23.2 |
18 | 1984年 | 少年ケニヤ(東映との提携作)/短編アニメ『スヌーピーとチャーリー・ブラウン』 | 6.5 |
19 | 1984年 | 晴れ、ときどき殺人/湯殿山麓呪い村 | 3.9 |
20 | 1984年 | メイン・テーマ/愛情物語 | 18.5 |
21 | 1984年 | 麻雀放浪記(東映との提携作)/いつか誰かが殺される(東映との提携作) | 5.1 |
22 | 1984年 | Wの悲劇/天国にいちばん近い島 | 15.5 |
23 | 1985年 | カムイの剣/ボビーに首ったけ | 2.1 |
24 | 1985年 | 友よ、静かに瞑れ/結婚案内ミステリー | 1.4 |
25 | 1985年 | 早春物語/二代目はクリスチャン | 12.5 |
26 | 1986年 | キャバレー/彼のオートバイ、彼女の島 | 9.5 |
27 | 1986年 | オイディプスの刃 | 0.8 |
28 | 1986年 | 時空の旅人/火の鳥 鳳凰編 | 2.3 |
29 | 1987年 | 黒いドレスの女/恋人たちの時刻 | 2.5 |
30 | 1988年 | 花のあすか組!/ぼくらの七日間戦争 | 3.3 |
31 | 1989年 | 宇宙皇子/ファイブスター物語 | 4.0 |
32 | 1989年 | 花の降る午後 | 3.0 |
33 | 1990年 | 天と地と[注釈 16] | 50.5 |
34 | 1991年 | 天河伝説殺人事件 | 4.9 |
35 | 1991年 | 幕末純情伝/ぼくらの七日間戦争2 | 8.6 |
36 | 1991年 | アルスラーン戦記/サイレントメビウス | 3.5 |
37 | 1992年 | 風の大陸 | アルスラーン戦記II/サイレントメビウス2/2.4 |
38 | 1992年 | ルビー・カイロ | 2.5 |
39 | 1993年 | REX 恐竜物語 | 22.0 |
年別配給収入合計 | ||||
---|---|---|---|---|
公開年 | 単位:億円 | |||
1976 | 15.6(1) | |||
1977 | 22.5(1) | |||
1978 | 21.8(2) | |||
1979 | 23.9(2) | |||
1980 | 31.3(3) | |||
1981 | 48.7(5) | |||
1982 | 36.2(5) | |||
1983 | 61.8(4) | |||
1984 | 49.5(9) | |||
1985 | 16.0(6) | |||
1986 | 12.6(5) | |||
1987 | 2.5(2) | |||
1988 | 3.3(2) | |||
1989 | 7.0(3) | |||
1990 | 50.5(1) | |||
1991 | 17.0(5) | |||
1992 | 4.9(4) | |||
1993 | 22.0(1) | |||
()内の数字は、その年に公開された映画の本数。配給収入は他社との提携作、他社作品との二本立てを含んだ合計。 |
順位 | 曲名 | 歌手 | 映画名 | オリコン売上 | |
---|---|---|---|---|---|
単位:万枚 | 出典 | ||||
1 | セーラー服と機関銃 | 薬師丸ひろ子 | セーラー服と機関銃 | 86.5 | [74] |
2 | 探偵物語 | 薬師丸ひろ子 | 探偵物語 | 84.1 | [74] |
3 | 守ってあげたい | 松任谷由実 | ねらわれた学園 | 69.5 | [75] |
4 | 時をかける少女 | 原田知世 | 時をかける少女 | 58.7 | [76] |
5 | 人間の証明のテーマ | ジョー山中 | 人間の証明 | 51.7 | [77] |
6 | メイン・テーマ | 薬師丸ひろ子 | メイン・テーマ | 51.2 | [74] |
7 | 恋人も濡れる街角 | 中村雅俊 | 蒲田行進曲 | 47.7 | [78] |
8 | Woman "Wの悲劇"より | 薬師丸ひろ子 | Wの悲劇 | 37.3 | [79] |
9 | 汚れた英雄 | ローズマリー・バトラー | 汚れた英雄 | 35.0 | [80] |
10 | 愛情物語 | 原田知世 | 愛情物語 | 32.1 | [76] |
1993年の角川春樹の社長辞職以後も、社長に就任した弟の角川歴彦によって出版と映像のメディアミックス路線は継承された。ただし、春樹時代のようにプロデューサーの強烈な個性は発揮されず、製作委員会方式が多くなっており、角川春樹の頃のように積極的に「角川映画」をアピールしなかった。1995年に日本映画の製作と外国映画の輸入、単館系配給を行うヘラルド・エースと提携して、エースピクチャーズとし、角川書店の子会社とした。1997年になって『パラサイト・イヴ』『失楽園』『新世紀エヴァンゲリオン劇場版 シト新生』を元旦の新聞広告で「新角川映画始動!」と角川映画の再開を正式に謳った[81]。
1998年になってエースピクチャーズは、住友商事の子会社で外国映画の輸入と単館系配給、ビデオグラムの販売を行うアスミックと合併し、アスミック・エースエンタテインメントになる。
2002年に、経営不振に陥っていた大映とその親会社である徳間書店は、過去の作品資産や調布市の大映スタジオを含めた全事業を、角川書店へ売却することで合意した。ただし、大映テレビは徳間の資本下ではなかったため、これに含まれていない。同年11月に角川書店は株式会社角川大映映画を設立し、大映の事業を同社が譲り受ける新旧分離方式による買収となった[82]。
2004年、角川大映映画と角川本体で映画事業を行っていた角川書店エンタテイメント事業部、テレビドラマ等の映像製作会社のトスカドメインを統合させ、商号を角川映画株式会社とした[83]。
2005年、外国映画の輸入・配給を営む日本ヘラルド映画(ヘラルドグループの中核企業)を角川グループが買収、角川映画と合併し、角川ヘラルド・ピクチャーズに名称を変更した。その後の2006年に、商号を角川ヘラルド映画株式会社とした。1年後の2007年に、同社は再び社名を「角川映画株式会社」に変更した。日本ヘラルド映画を買収したことで、アスミック・エースエンタテインメントの出資比率を下げていき、2010年に角川グループから離脱。
DVD類のビデオグラム事業に関しては、角川書店が擁する邦画(従来の角川映画)・アニメ作品に加え、大映作品・日本ヘラルドおよびアスミックがソフト発売権を有する洋画作品(2009年までアスミックが販売・発売権を有していたドリームワークス作品を含む)の発売元として角川エンタテインメントが担っていたが、2009年に角川映画に吸収合併されている[84]。
一連のM&Aの結果、それ以前の角川書店が行ってきたゲーム・アニメ作品や小説作品の映画化に関わる制作・出資という役割に加え、大映の流れから自前のスタジオ施設・人員による邦画の製作が可能となった。また、ヘラルドの流れから海外作品の配給に積極的に取り組み、角川書店グループのバックグランドによってノベライズの刊行を盛んに行っている。その展開は一層強まっており、こうした映画・映像関連の部門は角川映画株式会社を中核とした事業体制になったことで、完全に固まったものとなっている。
なお、旧・日本ヘラルド映画は映画興行事業(シネプレックス)を行なう子会社「ヘラルド・エンタープライズ」を抱えており、この買収により、従来の角川書店・旧大映による製作部門に加え、映画館運営・ミニシアター系の配給まで一貫して手がけられることとなり、製作・配給・興行を自前で一貫して行えるメジャーの一角に食い込むようになった。ただし、配給網は既存大手3社(松竹、東宝、東映)と比べて大きいとは言えず、『沈まぬ太陽』など大作や話題作については、東宝の配給網を借りる形で劇場公開されている。2006年には新宿三丁目に所在する三和興行所有の新宿文化シネマ(同年9月閉館)を借り上げる形で同年12月に直営のミニシアター(角川シネマ新宿)を、2011年2月には旧シネカノン有楽町1丁目跡に角川シネマ有楽町をオープンし、旧ヘラルドの配給網の有効活用を模索していた。2013年3月にはかつて出資したこともあるユナイテッド・シネマの持株会社、ユナイテッド・エンターテインメント・ホールディングス(UEH)と戦略的業務提携を締結、角川シネプレックス(13サイト)を譲渡し角川シネマの2サイトを除いて映画館運営から撤退したが、映画配給や周辺事業に関してUEHと協業を進めていくこととなる[85]。
2005年11月に角川ホールディングス・チャイナが、香港の映画配給・シネコン事業の持株会社Intercontinental Group Holdings Ltd.を買収し、中国映画館市場に参入、香港6サイトと中国広東省2サイトの映画館運営をしていたが[86]、2013年8月に小室哲哉が創業した旧Rojam Entertainmentを傘下に持つeSun Holdings Limited(Lai Sun Group)に売却。2018年現在は、KADOKAWAの持分法適用会社(香港・新華集団との合弁会社)Sun Wah Kadokawa (Hong Kong) Group Ltd.の子会社が中国での映画館事業を行っている。
2011年1月1日に、出版と映像の一体化によるメディアミックスの強化を目的として角川書店(3代目法人)と角川映画が合併し、法人としての角川映画は消滅、以後「角川映画」は角川書店・角川グループの映像事業ブランドとして存続することとなった[87]。
2013年10月1日には角川書店(3代目法人)がKADOKAWA(角川グループホールディングスより社名変更)に吸収合併され、「角川映画」はKADOKAWAの映画事業という扱いになっている。
2017年では、劇場アニメ配給レーベル「角川ANIMATION」を立ち上げた。当レーベルでは、『ノーゲーム・ノーライフ ゼロ』や『劇場版 メイドインアビス 深き魂の黎明』などのメディアミックスとしての劇場アニメの配給を主に行っている[88]。
2018年には、角川シネマ新宿をアニメーション専門のEJアニメシアター新宿として路線変更した[89]。また、2020年に開館し、KADOKAWAが運営するところざわサクラタウン内のジャパンパビリオンでは映画の試写、上映なども行われている。
2020年12月7日より「角川映画」の新作の情報はKADOKAWAオフィシャルサイトへ移管した。「角川映画」の旧作の情報は、2022年、角川映画のオフィシャルサイトによるホームページアドレス(URL)の変更まで[90]、そちらのページで参照できるようになった。
2022年には、角川歴彦が東京オリンピック・パラリンピックをめぐって贈賄容疑により逮捕され、会長職を辞任する事態に至り、角川歴彦および角川一族が直接関わっていた角川映画の時代は終わり、2021年8月封切の『妖怪大戦争 ガーディアンズ』が角川歴彦がKADOKAWA在籍中の最後の映画となる[注釈 17]。
KADOKAWA元社長の佐藤辰男は、「1976年から春樹さんによる映画の時代が始まり、そして1997年だったかな? 歴彦さんが「新・映画の時代」と言ったんだよね。何が違うかというと、76年は「出版社が映画を作った」という構図だったのに対して、97年は「映画を事業としてやる会社」という形だったんだよね。」などと評した[92]。
1998年3月6日の第21回日本アカデミー賞授賞式にて、「観客動員に於て多大な成績をあげ、日本映画復興の大いなる原動力となりました。これらの作品を企画、製作された着眼点と、素晴らしい実行力に敬意を表して栄誉を称えたい」[93]との理由により、日本アカデミー賞協会特別賞に角川歴彦を授与された。
一方、映画監督のビートたけしは、映画『首』で角川歴彦と揉め、「自分が監督した映画で、全く制作に関与していないのにKADOKAWAは、『製作総指揮角川歴彦』というクレジットタイトルを載せろとも言ってきた。KADOKAWAの今までの映画を見ると全部そうなっていて、笑ってしまう」と批判した[注釈 18][94]。
2022年の角川歴彦の会長辞職以後も、留任した社長夏野剛によって出版と映像のメディアミックス路線は継承され、角川歴彦時代の映画を「公開するもの、公開しないもの」を仕分けする[95]。同年、韓国映画の輸入・配給を営むTIMO JapanをKADOKAWAが買収、11月にKADOKAWA Kプラスに名称を変更し、KADOKAWAと共同で配給事業を行っている[96]。
2023年8月24日、将来の収益確保の困難を理由に角川歴彦時代が続けてきたEJアニメシアター新宿(旧角川シネマ新宿)を閉館[97][98]。最終上映作品は『バイオハザード デスアイランド』[99]。
※他社との提携作も含む。公開年月のみ記載の作品は配給映画
※以上、昭和時代作品。
※角川一族は除く。
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