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1979年に公開された日本の映画 ウィキペディアから
『金田一耕助の冒険』(きんだいちこうすけのぼうけん)は、1979年公開の日本映画。横溝正史の短編小説「瞳の中の女」の映画化で、大林宣彦監督、古谷一行主演[3]。地方では『蘇える金狼』と2本立てで公開された[4]。
なお、金田一耕助を主人公とする短編推理小説を集めた同名の短編集が、1975年に春陽堂文庫から、1976年に角川文庫から刊行されている。原作となった「瞳の中の女」はその収録作の一つである。
盗まれた石膏像の頭部にまつわる連続殺人事件を金田一耕助の活躍で解決に導くミステリー・コメディ映画。『犬神家の一族』『悪魔が来りて笛を吹く』に続く、角川映画による金田一耕助シリーズの第3弾で、当初は番外編かつ完結編のつもりで製作された(後に『悪霊島』が続く)。原作となった短編『瞳の中の女』は、事件が完全には解決しないままで終わっている。その真相を解明し、ちゃんと結末を示そうというのが、本作の基本プロットになっている[3][4][5]。
本作は1978年11月の日本公開時に「全編パロディー」との宣伝文句と共に上陸したアメリカ映画『ケンタッキー・フライド・ムービー』の影響を受けた一本である[6]。全編にわたって当時大ヒットしていた邦画洋画、過去の名画、CMや角川映画、歌謡曲などのパロディが盛り込まれており[3]、日本初のパロディ映画といわれる[4]。
今や映画に、テレビに、文庫本にと大ヒットを飛ばし、一躍日本の大スターと化した金田一耕助。盟友、等々力警部と共に今日もグラビアの撮影に励んでいた。しかし金田一の心は一向に満たされてはいなかった。何故なら、殺伐とした現代日本では、金田一が最も欲する「おどろおどろしくも美しい殺人事件」は起こりようが無かったからだ。
そんなある日、金田一が病院坂を散歩していると、突如謎のローラースケート軍団に拉致されてしまう。その正体は近頃話題になっている美術品専門の窃盗団「ポパイ」であり、女首領のマリアは金田一の大ファンであった。
それ故に、過去に金田一が関わった事件である「瞳の中の女」事件が、結局最後まで犯人がわからずじまいなのに納得がいかない様子だった。
マリアは当時、事件の重要参考物である「不二子像」の首の部分を持っており、それを元に事件を解決に導いて欲しいと要求するのだった。しぶしぶと数十年前の事件の調査を再開する金田一であったが…[3]。
1978年暮れ、石上三登志責任編集の映画雑誌『映画宝庫』での石上とのリレー対談で、当時新進気鋭の若手だった大林宣彦が、当時既に悪評が高かった角川春樹を高評価してラブコールを送る[4]。それに応える形で角川は大林を監督に起用した[4]。角川はもとから黒澤映画に代表される大作映画(ビッグ・バジェット)と、俗にアート系あるいはインディペンデンス系と呼ばれる小予算の映画(ロー・バジェット)の両方をバランスよく作りたかったが、ビッグバジェットの方は撮ってくれても、ローバジェットの方は撮ってくれる監督がいなかった[8]。角川自身は黒木和雄や長谷川和彦に撮って欲しかったが、「角川映画だけはやりません」などと断られていた[8]。大林が手を挙げたので角川はとても喜んでいたという[8]。当時の角川映画は「大作主義、大宣伝主義で名を売っている」イメージ[9]。角川は10億だ、20億だと莫大な製作費を注ぎ込んで大作映画を撮っていて「角川春樹はうるさいプロデューサーだ」という噂で持ちきりだったが[8]、大林と角川は意気投合し、本作を大林初の角川映画として撮り、大林はその後1992年まで角川映画最多の6作品の監督を務めた[4]。角川は「大金をかけて映画を作った」と批判されていることを認識していたため「お金をかけずに面白い映画を作ろう」と大林に持ちかけた[4]。本作のラスト近くで、プロデューサーの角川が原作者の横溝正史の家へトランクいっぱいの札束を運んできて、横溝が「こりゃあまた沢山ありますねぇ」と言うと、角川が「ええ、こりゃもう大作並ですから」と答え、横溝が、札束を一つ手に取ってみると、表の一枚だけが本物で中身は白紙の、贋の札束。すかさず横溝が「中身は薄いですなあ!」と言うシーンがあり、これは当時、誇大宣伝によって客は集めるものの、中身は薄いと言われ続けた角川映画のパロディであり、その批判精神を一番面白がったのは角川自身であった[10]。角川は「これまでやったことのない喜劇を、ぜひ一本作ってみたかった」「金田一シリーズの別冊付録であり、最後に番外編を一本やって区切りをつけたいと思った」、大林は「角川春樹と大林宣彦に対する非難のすべてをギャグにしてやろうという、たいへん身も蓋もない、多少ネクラな悪ふざけをやってみよう」と本作を作ったと述べている[4]。当時の大林の作風であったシュールな特殊効果がふんだんに使われている。その上、過去の金田一シリーズのセルフパロディ要素もあり、金田一シリーズのお約束である「人が次々と殺される」「複雑な因縁」「あまり役に立たない金田一」といった面を徹底的にパロディとして扱っている。ラストシーンでは、「金田一耕助は何故、被害者が増える前に事件を解決できないのか?」というミステリファンの長年の疑問に対して、金田一自らがその理由を熱弁するという異色なものとなっている。金田一が長々最後に語る、フィクションにおける探偵論と日本人論は、あまりの長回しで[11]、短いカット割りを繰り返す特徴を持つ持つ大林映画のこのシーン自体が、逆説的なパロディにもなっている[11]。角川映画初の低予算作品で製作費は8000万円[9]、宣伝費1億円[9]。スタジオも従来の東宝スタジオ、日活撮影所などの大手から三船プロに切り替え、俳優も三船プロ関連の役者を多数起用し、大幅な間接費節減を行っている。
脚本クレジットは斎藤耕一と中野顕彰だが、本作のプロットは大林と「ダイアローグ・ライター」としてクレジットされるつかこうへいが何度か打ち合わせをやって練り上げた[4]。つかはまだ映画化された作品はなく、一般的には知られておらず[9]、「『熱海殺人事件』などの軽妙なせりふ回しで、若い演劇ファンに圧倒的な支持を受ける演出家」という位置付け[9]。勿論、大林もまだ映画ファンにしか知られていない存在で、「ひとクセもふたクセもある当代の人気者2人が手がける映画」という触れ込みだった[9]。つかの持つ新鮮な時代感覚やパロディー精神を作品に取り入れるという意味でのつかの起用だった[9]。「ダイアローグ・ライター」は、日本映画初の試みであったが、2人の打ち合わせで「金田一自身が事件を本当は何ら解決していないという気まずさを前面に出そう」とか「『よしっ、わかった!』の迷セリフで従来の「金田一耕助シリーズ」には欠かせなかった等々力警部に、もっと"敵"として金田一に対する嫌悪感を出させよう」といったアイデアが生み出され[9]、「大宣伝の角川映画というイメージをひっくるめて大パロディ映画に仕立てよう」というプロットは大林とつかで考えたものである[9]。「ダイアローグ・ライター」という日本映画界では耳馴れない役割は、台詞の部分だけ手を入れるという意味で[9]、ハリウッド映画ではダイアローグ・ライターが確立されているとされたが、日本ではそういう職業はこれまでなかった[9]。つかが台詞の部分にも手を入れたとだけでなく、全体の構成にも関わっている[9]。古谷一行によれば、つかの加筆によって、金田一と等々力の確執が明確になり、それを基本線としてどう演技すればよいかが見えてきたという[12]。「ダイアローグ・ライター」は画期的だという触れ込みであったが、この一作で終わった[4]。
テレビ版『横溝正史シリーズI・II』(毎日放送+映像京都+三船プロダクション+大映(京都)+東宝 1977年 - 1978年)で金田一を演じて好評だった古谷一行を主演に起用[9]。ある世代の人たちの中では、金田一耕助=古谷一行だが[3]、映画で古谷が金田一を演じるのは本作一本のみ[3]。同時期に東宝スタジオでは、「石坂浩二の金田一ものとしては最後の」と宣伝された『病院坂の首縊りの家』を撮影中だった[9]。
金田一の相棒・等々力警部役の田中邦衛は、大林が田中のファンで「大林映画の常連になって欲しい」という希望を持っていたが、大林ワールドに呆れ果て『八甲田山』のパロディのシーンで田中が「おれ、ついていけねえよ。皆、好きだなあ」と本音の呆れ声を出し、本編でもそのセリフを使った。大林は以降、田中に出演オファーを出す勇気がなくなったという[13]。
ヒロイン・マリア役の熊谷美由紀(現・松田美由紀)は、たまたま大林と角川が雑誌『GORO』の篠山紀信の激写シリーズで見て(当時NHK連続テレビ小説『マー姉ちゃん』で人気者になっていた熊谷真実との姉妹スナップで見て、ヒロインに抜擢したと大林は著書で述べているが[14][15]、熊谷美由紀はまだ無名だった[14]、実際にはつかこうへいの推薦によるものだった[16]。『金田一耕助の冒険』は、地方では『蘇える金狼』と2本立て公開され、このキャンペーンで熊谷美由紀は松田優作と初めて会った[14]。
友情出演として、原作者である横溝正史がセルフパロディを含む本人役、製作の角川春樹が団地の亭主、高木彬光が床屋の客、笹沢左保がテレビ局のゲストで登場しているほか、志穂美悦子、斉藤とも子、峰岸徹、岸田森、檀ふみら、それまで大林宣彦映画や角川映画に縁のあった俳優も、短いシーンながら数多く出演している。特別出演に、夏木勲(夏八木勲)が『白昼の死角』の隅田光一、岡田茉莉子が『人間の証明』の八杉恭子、三船敏郎が劇中劇の11代目金田一耕助、三橋達也が劇中劇の等々力警部としてクレジットされている。彼らのほとんどが、無償か無償に近い出演であった[17]。
羽田健太郎らが参加し、金田一の小説からインスピレーションを受けたイメージアルバム『金田一耕助の冒険』の「八つ墓村」が、「八つ馬鹿村」のシーンで使用されている[注釈 1]。
キャッチフレーズは「《角川映画》、笑いに挑戦! あの金田一耕助がコメディーに登場。」だった。
タイトルバックは和田誠。依頼したのは角川春樹自身で、和田はさらに『金田一耕助の冒険』の文庫本2冊の装幀、ポスター3種類、映画版『金田一耕助の冒険』のポスター、サウンドトラックのレコードジャケット2種類(シングルとLP)、映画の予告編とテレビCMに挿入されるアニメーション(映画中では使用されていない)、劇中映画『瞳の中の女』の字幕などを全て担当した。これが縁となって、後に角川映画の『麻雀放浪記』で監督デビューする。
東映洋画部の宣伝部員・野村正昭が「これでも映画か!」というキャッチフレーズを創案して「宣伝コピー監督賞」を受賞した[18][19][20]。大林は野村にTシャツを贈呈した[20]。
映画公開の翌1980年8月22日(金)、テレビ朝日系列局にてTV初放送された。大林映画の常として、テレビ放送に際して監督自身の手によって大幅な新編集が加えられている。具体的には、放送時間に収めるためにパロディの多くがカットされた。 しかし、つなぎのために全編にわたってアフレコをし直しており、そのせいでギャグの数自体はかえって増えることになった。 このヴァージョンはTV放送のための一度きりのもののため、他の媒体で再収録・再放送・再上映されたことはなく、現在では幻となってしまっている。
2010年代にTOKYO-MXの日曜映画「角川映画特集」のミステリー映画の回に『悪霊島』『犬神家の一族』『天河伝説殺人事件』と共にラインナップされて放送された。
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