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『トラック野郎』(トラックやろう)は、1975年から1979年にかけて東映の製作・配給で公開された、日本映画のシリーズ。全10作。
この項目には性的な表現や記述が含まれます。 |
きらびやかな電飾と極彩画に飾られた長距離トラック(デコトラ)の運転手、「一番星」こと星桃次郎(演・菅原文太)と、「やもめのジョナサン」こと松下金造(演・愛川欽也)が巻き起こす大衆娯楽活劇である。
本作誕生のきっかけは、ジョナサン役の愛川が吹き替えを担当していたアメリカCBSのテレビドラマ『ルート66』のようなロードムービーを作りたいという構想を抱き、自ら東映に企画を持ち込んだのが始まりであった[1][2]。しかし、『ルート66』は「若者2人がシボレー・コルベットを駆ってアメリカ大陸を旅をする」という内容であったため、当時40歳を迎えた愛川自身がそのままやるのには無理があると考えていた[3]。
そんな中、1975年5月28日に放映されたNHKのドキュメンタリー番組『カメラリポート 走る街道美学』[4]においてイルミネーションを点けたトラックが東名高速道路を走っている映像を目にした[5]愛川は「これならイケるんじゃないか?」と閃く。当時愛川が司会を務めていた情報バラエティ番組『リブ・ヤング!』にゲスト出演して知り合った菅原に「何とか映画にならないものか」と相談を持ちかけ[2][6]、2人で東映の岡田茂社長(当時)に企画を持ち込み直談判したところ、すんなり企画が通ったという[2][3]。愛川によれば「東映は岡田社長の鶴の一声で決まるから」とのこと[2][5]。八代亜紀は、自分にトラック運転手の追っかけが出来る現象が生まれていたことも、映画誕生と関係しているのではないかと話している[7]。「トラック野郎」という題名は、当時の東映東京撮影所(以下、東映東京)企画部長・天尾完次による命名である[8]。
シリーズ全10作の監督を務めた鈴木則文は、東映入社後、助監督時代から専属だった東映京都撮影所から東映東京に移って2年ほどが経ち、この間『聖獣学園』など3作品を演出、『女必殺拳シリーズ』など2作品の脚本を手がけていた。当時の東映の看板路線だった実録ヤクザ映画の人気が下火になりつつあった時期にこの企画を持ち込まれ、ヤクザ映画に代わる新たな娯楽作を送り出そうと制作に意欲を示していたが、本社の企画会議で岡田から「バカヤロー!トラックの運ちゃんの映画なんて誰が見るんだ!」と一蹴されて一旦は没になった[9]。しかし、当初予定していた別の作品が俳優の都合で頓挫し、岡田から「それでいいから作れ」と、急遽穴埋めとして本作が制作されることになった[9]。当初この枠で予定していた映画は、岡田裕介主演・檀ふみ共演の『華麗なる大ドロボウ』(山下耕作監督予定)であった[10]が、岡田が「お盆映画にしては弱すぎる」と制作を無期延期した[10]。宣伝部の福永邦昭は電飾トラックを紹介する雑誌記事を集め、横浜の電飾取り付け工場を取材。さらには電飾トラックを扱ったNHKのドキュメンタリー番組を見つけ出すと、持ち出し禁止のフィルムを「奥の手」で借り受け、5月中旬には社内試写を行い、岡田から承認を得ていた[11]。
ただし、文献によっては「本作出演のため菅原が大型免許取得に丸2か月かかり、1975年7月12日に合格し、7月21日からの『トラック野郎・御意見無用』クランクインに間に合った」との記述があり[12]、そこから逆算すると同年5月前半には映画の製作が決定していたことになり[12]、前述した1975年5月28日放映の『カメラリポート 走る街道美学』に影響を受けた愛川が企画を持ち込んだという経緯では時系列が合わない。実際に映画の製作が公表されたのは、1975年6月10日に神田共立講堂で開催されたダウン・タウン・ブギウギ・バンドのコンサートに菅原の他、登石雋一企画製作部長ら東映重役が下見に訪れた際に[12]、登石から「ダウン・タウンvs.菅原文太で、長距離トラック運転手の映画製作を内定した」と公表したのが最初である[12]。登石たちがコンサートの場に足を運んだのは、当時菅原が「会社の酷使が酷い」[13]「実録路線は峠を越した。オレがいま興味があるのはダウン・タウン・ブギウギ・バンド、彼らとの共演映画を会社が認めなければ、他の映画に出ない」などと[12][13]、深作欣二・笠原和夫の"実録トリオ"で共闘し[13]会社に反撥していたためであった[12][13]。菅原は喜劇と聞かされ出演を迷ったが[3]、以前鈴木監督と組んだ「関東テキヤ一家シリーズ」が喜劇で、「たまには喜劇もいいだろう、続いても二、三作だろう」と考え、出演を承諾した[3]。杉作J太郎は鈴木監督の妻・鈴木早苗から「企画が立ち上がると瞬く間に鈴木監督は(製作決定はまだなのに)助監督の澤井信一郎とシナハン・ロケハンに出掛けた」と聞いたと話している[14]。
鈴木は「わたしの映画人生の大恩人、岡田茂はヒットすると自分の企画案のように大絶賛していた」と話している[15]。中島貞夫は「岡田さんは最初から則文の喜劇の才能を見抜いていたから、文ちゃんと組ませて必然的にコメディにするつもりだろうと思っていた」と話している[16]。
企画から下準備、撮影を含めた製作期間は2か月、クランクアップは封切り日の1週間前であった。こうして、過密な撮影スケジュールと低予算で製作された『トラック野郎・御意見無用』は1975年8月30日に公開。シリーズ化の予定はなく、単発作品としての公開だった[17]。ところがいざ蓋を開けてみると、劇場の窓ガラスが割れるほど客が押し寄せ[3]、オールスターキャストの大作『新幹線大爆破』(同年7月公開)の配給収入の2倍以上の約8億円を上げた[要検証]ことから、岡田社長は「正月映画はトラックでいけ」、「トラ(寅さん)喰う野郎やで」、「(2作目の)題名は爆走一番星や!」と即座にシリーズ化を決定した[2][9][18][19]。
『トラック野郎・御意見無用』の大ヒットの要因について、当時の『キネマ旬報』は「それまでの実録路線がタイトル、内容ともにえげつなくなり過ぎていたきらいがあり、本作はコミカルな要素も加わった異色作品で、観客層もそれまでの東映作品から幅広くなり、女性層もかなり吸引したこと、メガヒットだった『タワーリング・インフェルノ』のロングラン上映が二ヵ月に渡り勢いが下降し、また松竹、東宝もロングランで対抗する作品が皆無で、公開タイミングが最適であった」と分析している[20]。
その後も東映の興行の基盤となるドル箱シリーズとして、1979年末まで毎年盆と正月の年2回公開されていた。愛川曰くライバル映画の松竹『男はつらいよ』と常に同時期の公開だったことから、「トラトラ対決」(「トラック野郎」と「寅さん」の対決の意)と呼ばれていたという[2]。
内容は菅原自身も後に語っているように、ライバル映画であった松竹の『男はつらいよ』のスタイルを踏襲している。毎回マドンナが現れ、桃次郎が惚れては失恋するところは『男はつらいよ』のそれに似ているが、寅さんが「静・雅」であれば、桃次郎は「動・俗」と対極をなしている[注 1]。物語の中核を担うのは、寅さんではあり得ない「下ネタ」「殴り合いの喧嘩」「派手なカーアクション」で、とりわけ下ネタのシーンは屋外での排泄行為やトルコ風呂(ソープランド)、走行しながらの性行為など、現在の視点から見るとかなり過激な描写も多い。ただし、本作の人気が高まるにつれた未成年者のファンも増加したため、トルコ風呂の場面はそれらの観客への配慮もあり、シリーズ後半以降はほとんど描かれなくなった。また、テレビで放送される際には時間の関係もあり、その近辺のシーンをカットして放送されることが多かった。
青森ねぶた祭りや唐津くんちなど、全国各地の有名な祭りの場面が登場するのもこのシリーズの特色である(シリーズ一覧参照)。また、当時人気のコメディアンや落語家がキャスティングされていることも特徴で、それぞれ一世を風靡した持ちネタや喜劇的演技を披露していた。
喧嘩のシーンはシリアスなものではなく、必ずギャグが入る。また、カーアクションは、毎回クライマックスで一番星号が暴走する一方、多くの回(クライマックスの爆走参照)で追跡する白バイやパトカーが横転、大破するなど、警察を風刺した代物である。そのため、警察庁からクレームがあり、打ち切られる要因ともなった。
劇中に登場するトラックに関しては、第1作目で使用された一番星号(三菱ふそう・T951型)とジョナサン号(三菱ふそう・T650前期型)は廃車を譲り受けたものだったが、続編の製作決定を期に、東映が室蘭で購入した新古車(車種は一番星号が三菱ふそう・FU型、ジョナサン号が三菱ふそう・T652型)に代替され、最終作の『故郷特急便』まで使用された。なお、三番星号は三菱ふそう・キャンターT200型が使用された。
撮影にあたっては「哥麿会」などのデコトラグループが全面協力しており[注 2]、実在のデコトラも多数登場している。
日本全国津々浦々を走る白ナンバーの長距離トラック運転手、一番星こと星桃次郎(菅原文太)が主人公。やもめのジョナサンこと松下金造(愛川欽也)は子沢山の相棒。この2人が各地で起こす珍道中を描く。
シリーズ全10作に通ずる基本的なストーリーは、桃次郎がたいてい便所や情けない姿をしている時に遭遇したマドンナに一目惚れし、相手の趣味や嗜好に合わせて見当違いの付け焼き刃の知識で積極的にアタックしていく。また、個性の強いライバルトラッカーが現れ、ワッパ勝負(トラック運転での勝負)や1対1の殴り合いの大喧嘩を展開する。そして、「母ちゃん」こと松下君江(春川ますみ)をはじめとするジョナサン一家、女トラッカー[注 3]、ドライブインに集う多くのトラッカー達等を絡ませ、人情味あふれるキャラクターの桃次郎を中心に、様々な人間模様が綴られてゆく。
結局、恋は成就せず物語はクライマックスへ。天下御免のトラック野郎に戻った桃次郎は、時間が足りない悪条件の仕事を引き受け、愛車・一番星号に荷(時には人も)を載せてひたすら目的地に向けて愛車のトラックで突っ走る。追っ手の警察を蹴散らし、検問をも突破し、トラック野郎達の応援や協力を得て、道なき道を走り一番星号を満身創痍にしながらも時間内に無事送り届け、修理を終えた一番星号とジョナサン号が走り去る、というシーンでエンディングを迎える(第1作のエンディングは一番星号がジョナサン号を牽引し、第3作ではジョナサン号が一番星号を牽引した。これは、激走の代償として自走不能となってしまったため)。
No. | サブタイトル | 荷物と目的 | 移動区間 (一般所要時間等 / 桃次郎の見解) |
警察との激突 | ライバル・仲間のサポート |
---|---|---|---|---|---|
1 | 御意見無用 | マドンナ(中島ゆたか)を恋人の元へ | 盛岡から下北の港へ12時までに (8時間 / 3時間[注 4]) |
あり | なし |
2 | 爆走一番星 | 父親(織本順吉)を子供の元へ | 岡山から長崎まで、1月1日0時までに (不明 / なし) |
あり | あり |
3 | 望郷一番星 | 生魚40トン | 釧路から札幌の18時の競りに (あと5時間 / なし) |
あり | あり[注 5] |
4 | 天下御免 | 20トンの荷物と母(松原智恵子)子 | 倉敷から境港経由で京都へ、17時までに (9時間 / あと6時間か) |
なし | なし |
5 | 度胸一番星 | 逮捕されたジョナサンの荷物(ブリ) | 金沢から新潟の市場へ18時までに (8時間(残り5時間) / なし) |
あり | あり |
6 | 男一匹桃次郎 | マドンナ(夏目雅子)を恋人の元へ | 唐津から鹿児島空港へ16時までに (6時間 / 4時間) |
あり | あり |
7 | 突撃一番星 | マドンナ(原田美枝子)と恋人(川谷拓三)を病院へ | 1時間以内に病院へ[注 6] | なし | なし |
8 | 一番星北へ帰る | 医療機器 | 花巻から大野村まで2時間以内、15時までに (200km以上 / ) |
あり | あり |
9 | 熱風5000キロ | 子供を母親(二宮さよ子)の元へ | 木曽上松から魚津港へ17時までに (汽車で6時間かかる。残り4時間 / 4時間で十分) |
なし[注 7] | なし |
10 | マドンナ(石川さゆり)を大阪行きのフェリー乗り場へ | 高知から高松港に12時までに (特急で3時間半。残り2時間半 / ) |
あり | あり |
全10作に皆勤で登場するキャストは菅原文太(星桃次郎)と愛川欽也(松下金造)のほか、デコトラグループ「哥麿会」の初代会長・宮崎靖男の3名。次点は8作に登場する春川ますみ(松下君江)。松下家の子供たちも同一の役柄ではあるが、途中で演ずる子役が入れ替わっているため、子役の最多出演数は5作となっている。
星 桃次郎(ほし ももじろう、演:菅原文太)、主人公。独身。
オープニングでのクレジットは「一番星桃次郎」。星桃次郎という名前は、監督の鈴木と助監督の澤井信一郎が取材で青森県の下北半島に出向いた際、青森の書店で桃太郎の弟、桃次郎が出てくる本(阪田寛夫の『桃次郎』とされる)を見て、車寅次郎に対抗する意味を込め[3]、下の名前を桃次郎と先に決めて[3]「苗字は『車』より『星』の方がいいだろう」と組み合わせ、「星桃次郎」に決まった[3]。ジョナサンや松下君江(母ちゃん)からは「桃さん」と呼ばれている。初期は、仲間のトラック野郎からは「一番星」、女性(ドライブインのウエイトレスなど)からは「桃さん」と呼ばれていた。徐々に男性からも「桃さん」と呼ばれるようになる(マドンナは基本的に「桃次郎さん」と呼んでいる)。
性格は短気で血の気も多いが、情に厚く真っ直ぐで、卑怯な真似を嫌う。普段は粗野だが根は純情。酒好き、女好きで大食漢。トラック仲間からの人望が厚い。相棒のジョナサンとは時には大喧嘩するものの、その時も心の中では親友と思っている。
普段着や腹巻、ライターには必ず「☆」マークが入っている(プロポーズ時の正装等は例外)。このほか、右肩には「☆一番星」の刺青がある。夏の衣装はダボシャツに腹巻、雪駄もしくはブーツ。冬は上はタートルネックやコート、足元はブーツになるが、腹巻は服の上からしている(夏冬とも)。第1作や第2作ではツナギ姿も見られた。腹が弱く、運転中によく便意を催し、耐え切れない時は野外で脱糞することもある。
住所不定のため、手紙は行きつけの川崎のトルコ風呂「ふるさと」宛に届けられる。自ら「心の故郷」と言うほどのトルコ風呂好きで、1,000人以上は抱いているという。無類の女好きで、ジャリパン(路上売春婦)と性行為をしながら運転することもあった(第8作のオープニングのラスト)。
マドンナに自己紹介する時は「学者」(第6作)、「運輸省関係」(第3作)など、見栄を貼って職業を詐称する傾向があるほか、一人称も普段の「俺」から「僕」に変わる。マドンナの前でトイレやトルコ風呂などのネタが振られた場合、「下品な!」と一蹴しており、普段の性格とまるっきり反対の行動を取る。
マドンナには第9作を除いてほぼ毎回一目惚れしているが、第5作を除いてほぼ毎回振られている。その原因は、桃次郎自身の言動や行動がマドンナの想いを後押ししていることにある。振られることがハッキリした時は、マドンナと恋人の仲を取り持つ方に回ることもある。また、ライバルとの喧嘩の結果、第3作では浜村涼子(演:土田早苗)と大熊田太郎次郎左衛門(演:梅宮辰夫)の、第5作では江波マヤ(演:夏樹陽子)と新村譲治(演:千葉真一)の橋渡し役ともなっている。
東北の寒村の生まれだが、小学生の頃にダム建設のため一家は村を追われ、父親の知り合いを頼って青森県下北半島へ移る。にわか漁師となった父親は、下北へ移ってまもなく海難事故で死亡。その後、母親と妹と3人で極貧の中生き抜いてきたが、母親もその後病死している。妹は生死不明で、劇中でもほとんど語られることはなかった。
上記の経歴は第8作で語られたものだが、第2作では母親がいない父子家庭だったと語っている(兄弟については説明なし)。自分の生まれ故郷がダムに沈んで失われてしまったためか、「故郷」というものに対する想いは人一倍強い。
性格に似合わず、泳げない(いわゆるカナヅチ)ばかりか、犬(特に土佐犬)や馬も苦手。
松下 金造(まつした きんぞう、演:愛川欽也)。桃次郎の相棒。妻帯者で子沢山。
行灯は「やもめのジョナサン」(当時ヒットした映画「かもめのジョナサン」のパロディ[21])。クレジットの定位置はトメ(最後)となっているが、ライバル俳優がトメに回る場合(第5作の千葉真一と第6作の若山富三郎)は2番目にクレジットされている。クレジットは「ヤモメのジョナサン」とカタカナの場合がある(第2・6-8作)。
性格は温厚で明るく人情家。津軽出身の元警察官で、かつては「花巻の鬼台貫[注 8](おにだいかん)」と恐れられる存在だったが、パトカーの酔っ払い運転で懲戒免職になり、トラック野郎になる。
運転手仲間やウエイトレスなど、ある程度親しい男女からは「ジョナサン」と呼ばれることがほとんどで、玉三郎を除いて本名(苗字)で呼ぶことは稀である(第4作の序盤での運賃の支払い場面や、第8作の金融会社、第9作の上松運送のシーンなど、改まった場面のみ)。家族からは「父ちゃん」と呼ばれている。
苗字の「松下」は、愛川が出演した松下電器産業(現:パナソニック)のラジカセのCM内でのセリフ「あんた、松下さん?」にちなむ命名で、当時日本一の富豪であった松下幸之助にあやかっている。第3作以降は松下電器のツナギを着用している場面もあるが、「電器」の文字をそれぞれ「×」で消し「運送」と書き込んでいる。また、第7作では松下運送の社歌を歌っているが、松下電器の社歌の替え歌である(車体にも書き込んでいた)。普段の衣装は虎縞の腹巻が定番(帽子は第2作から)。
男女の仲を取り持つのが得意だが、桃次郎とマドンナの仲は取り持てていない。仲を取り持った例は、以下の通り。
この他、第2作では杉本千秋(演:加茂さくら)と赤塚周平(演:なべおさみ)を、桃次郎と共に取り持っている。また、第3作では浜村涼子(演:土田早苗)と大熊田太郎次郎左衛門(演:梅宮辰夫)の仲を取り持つきっかけも作った。
行灯は「やもめ」(寡夫)だが、家族からは文句がついたことがない(川崎の自宅前に駐車する他、何度も家族旅行で使用している)。のみならず「花嫁募集中」の行灯まで存在する。マドンナや意中の女性の前では「妻とは死別」、「妻は出て行った。原因は子供が出来なかったこと」などと寡夫と称して口説こうとする場面がある。
トラック「やもめのジョナサン号」は公称4トン半の積載量である。デコトラとしての特徴としては、車体側面に大きく一万円札が描かれていることが挙げられる。運転席の背面にも一万円札ならぬ一億円札を何枚も印刷したデザインのカーテンが引かれている(第2作まではヌードパネルだった。回転式であり、自宅に留める際は背面の家族写真にひっくり返している)。行灯にも「聖徳」、「太子」(当時の一万円札に使用されていた)があるほか、「現金輸送車」、「日本銀行御用達」なども設置されていた。
企画は1作目のみ単独、以後は連名。脚本は全作共同脚本(連名)である。
予告編でのキャッチコピーは以下の通り。
川崎市は桃次郎・ジョナサンの生活ベースとして全作(『突撃一番星』を除く)出発・立ち寄り・帰宅があるため作品毎ロケ地から除外。また、第10作のみダブルマドンナ。
No. | サブタイトル | マドンナ役 (公開時の年齢) |
ライバル役 (ニックネーム) |
主なロケ地 (イベント等) |
公開日 | 同時上映 (主演) |
---|---|---|---|---|---|---|
1 | 御意見無用 | 中島ゆたか(22) | 佐藤允 (関門のドラゴン) |
盛岡、青森、下関、仙台 (青森ねぶた、仙台七夕) |
1975年8月30日 | 帰って来た女必殺拳 (志穂美悦子) |
2 | 爆走一番星 | あべ静江(24) | 田中邦衛 (ボルサリーノ2) |
姫路、長崎、福岡、天草 (長崎くんち) |
1975年12月27日 | けんか空手 極真無頼拳 (千葉真一) |
3 | 望郷一番星 | 島田陽子(23) | 梅宮辰夫 (カムチャッカ) |
広島、釧路、静内(新ひだか)、札幌 (ハイセイコー) |
1976年8月7日 | 武闘拳 猛虎激殺! (倉田保昭) |
4 | 天下御免 | 由美かおる(26) | 杉浦直樹 (コリーダ) |
倉敷、宇和島、松山、境港、京都 (闘牛) |
1976年12月25日 | 河内のオッサンの唄 よう来たのワレ (川谷拓三) |
5 | 度胸一番星 | 片平なぎさ(18) | 千葉真一 (ジョーズ) |
新潟、佐渡、金沢、山形 (白根大凧合戦、新潟まつり) |
1977年8月6日 | サーキットの狼 (風吹真矢) |
6 | 男一匹桃次郎※1 | 夏目雅子(20) | 若山富三郎 (子連れ狼) |
唐津、鹿児島、東京、熊本 (唐津くんち、餅すすり大会) |
1977年12月24日 | こちら葛飾区亀有公園派出所 (せんだみつお) |
7 | 突撃一番星 | 原田美枝子(19) | 川谷拓三 (なし※2) |
鳥羽、下呂温泉、東京 (高山祭り) |
1978年8月12日 | 多羅尾伴内 鬼面村の惨劇 (小林旭) |
8 | 一番星北へ帰る※1 | 大谷直子※3 (28) | 黒沢年男 (Big99) |
花巻、会津若松、いわき、福島 (常磐ハワイアンセンター、輓馬大会) |
1978年12月23日 | 水戸黄門 (東野英治郎) |
9 | 熱風5000キロ | 小野みゆき(19) | 地井武男 (ノサップ) |
木曽上松、松本、安曇野、長野、魚津 | 1979年8月4日 | ドランクモンキー 酔拳 (ジャッキー・チェン) |
10 | 石川さゆり(21) 森下愛子(21) |
原田大二郎 (龍馬號※4) |
高知、大阪、高松、銚子、東京 (闘犬、よさこい祭り) |
1979年12月22日 | 夢一族 ザ・らいばる (森繁久彌・郷ひろみ) |
「トラック野郎」という言葉は東映が作った造語であるが、映画のヒットで大型・長距離トラックの運転手の俗称として一般的に使用されるようになった。また、本作は満艦飾のデコレーショントラック(デコトラ)が世間に流行するきっかけのひとつともなり、1976年には本作の人気に便乗したテレビ番組ベルサイユのトラック姐ちゃんがNET(現・テレビ朝日)系列で放送された。
東映は1960年代から1970年代にかけて岡田茂の標榜する「不良性感度映画」が大成功したが[39][40]、大川博時代から持ち越された不採算部門の整理統合を含む人員整理、経営合理化の問題が残っていた[40][41][42][43]。抜本的な東映改革として岡田の頭にあったのは、京都(東映京都撮影所)と東京(東映東京撮影所)に2つも撮影所は不要で、いずれかの撮影所を閉鎖するという考えであった[44][45][46]。メインは京都撮影所のため、東京撮影所が閉鎖されるのではないか、と活動屋は大きな危機感を抱いたが[46]、流行の発信地は東京に集まっており、閉鎖されるとしたら京都の方と考える者もいた[45]。しかし、1975年11月に京都撮影所にオープンした東映太秦映画村が大成功し[40][47]、東京撮影所が手掛けた『トラック野郎』シリーズも大ヒットした[40]。東映が現在も京都と東京に2つの撮影所を有しているのは、映画村と本作のおかげといわれる[41][43]。
2016年に11年ぶりに芸術職を募集した6代目東映社長の手塚治は、「『トラック野郎』のような映画は、東映が長年、プログラムピクチャーを作ってきたからこそ生み出された映画だと思う」などと述べている[48]。
その他、本作にインスピレーションを受けたビデオゲーム作品として『爆走デコトラ伝説』シリーズがあり、一部作品では本作の主演を務めた菅原文太が監修を担当している。
一番星号はシリーズが終了してから少し経過した後に売却され、1980年代前半はパチンコ店の看板車両として展示されていたが、車両へのいたずらや部品の盗難・破壊等によって1980年代中盤には廃車状態で中古車販売店に置かれていたことが確認されている[注 12]。その後、1988 - 89年頃に大阪でリサイクル業を営む個人オーナーが購入して修復し、1991年頃に復活させた。ただし、この時の修復は映画で使われた当時の姿とは異なる部分が多数あり[注 13]、電飾等は完全に修復できず、サイドウインカーや後部反射板など、法改正に合わせたパーツが装着されていた。修復時のエピソードとして、9作目『熱風5000キロ』でクレーン車によって破壊されたフロントガラスのガラス片がダッシュボードに残っていたという逸話もあった[63]。修復後は主に仕事車両として使われていたが、2000年代後半あたりから排ガス規制等の事情で走らせることが困難になる。それでも思い入れが強かったため手放すことはしなかったが、2014年に全国哥麿会の会長である田島順市と出会ったことを機に考えを改め、一番星号を哥麿会へ譲渡することにした[64]。
譲渡後の一番星号は、哥麿会を代表する看板車両として公道走行できるよう整備後に車検を通し[注 14]、Vシネマ『爆走トラッカー軍団』(主演・ジョニー大倉)、映画『爆走!ムーンエンジェル-北へ』(主演・工藤静香)など数々の作品に登場した「竜神丸」[注 15]と共に全国各地のイベントに参加する傍ら、映画登場当時の姿に近づけるべく段階的にレストアが行われる[65]。前オーナーの修復時の再塗装で色味の変わったキャビンを改めて塗装し直すことをはじめとして、当時修復できなかった電飾関係[注 16]や、劣化したり欠品となった装飾物、風雨に晒されて痛みが激しくなっていた箱絵ペイント[注 17]等を長期にわたる年月をかけて修復、2020年にはドアの交換[注 18]に伴うサイドバンパーを含めた絵柄の再塗装およびエンジンの載せ替え[注 19]を経て修復が完了し、哥麿会のYouTubeチャンネルにて公式に復活を宣言した。なお、哥麿会で毎年製作しているカレンダーの表紙を、譲渡翌年の2015年から2023年まで一番星号が飾っていた。
修復にあたって、電飾は滋賀県のDKオリジナルが、箱絵・行灯・キャブの絵柄等々は福島県のネモト功芸社の手によって行われ、箱絵ペイントの修復には映画公開時に本車両の箱絵デザインを手がけた美術監督の桑名忠之も参加した。そのほか、2020年に行われたドアとサイドバンパーの絵柄再塗装は岐阜県のアドデザイン栄宣により施された。
オリジナルの一番星号とは別に、2007年には個人オーナーの手によって中期型[注 20]の車両をベースに第9作『熱風5000キロ』仕様のレプリカ車が製作され[66]、『カミオン』2007年12月号ではその制作記と共にオリジナルの一番星号との初対面を果たしている。
第1作『御意見無用』の一番星号は、1975年の映画『爆発!暴走族』35分辺りに行灯が外された状態で渋滞シーンに登場している。第2作目以降に使われた一番星号も、シリーズ終了後の1980年(昭和55年)に放送された特撮テレビドラマ『電子戦隊デンジマン』第8話「白骨都市の大魔王」で、ロケ地でもある東映大泉撮影所の資材置き場に放置されている姿が映し出されたほか、桃次郎役の菅原が主役を務めた『警視庁殺人課』第18話「ハイウェイ殺人事件・死の運び屋」(1981年8月10日放送)の冒頭シーンにおいて、装飾部品が外された姿でジョナサン号と共に登場している。
ジョナサン号はシリーズ終了後、ライバル車として登場したコリーダ丸や龍馬號を所有する椎名急送が購入したものの、仕事車両としては使い勝手が悪かったため売却。その後所在を転々とした後(一時期は売却後の一番星と同じ場所に置かれていたこともあった)、時期は不明だが部品が盗難され痛みの激しい状態で茨城県のスクラップ業者に置かれていることが確認された。その後解体された模様で車両は現存せず、荷台箱のみ1994年頃にとある農家の倉庫として使われていたのが目撃されていたが、2000年代に入る前に処分されている。
2009年、群馬県にあるトラックパーツショップ「トラックアート歌麿」で「ジョナサン号再現プロジェクト」が立ち上がり、九州に現存していた平ボディの三菱ふそう・T650系をベース車両として、第9作目仕様のジョナサン号を一から作り起こして翌年までに完成させ、公式ウェブサイトでは表紙にも登場した『カミオン』誌2010年8月号の特集記事(ジョナサン号が掲載されたページのみ)をそのまま掲載している[注 21]。
第1作『御意見無用』のジョナサン号は、1975年の映画『爆発!暴走族』の千葉真一と岩城滉一がタンデム走行で暴走するシーンの44分辺りに登場している他、2作目以降に登場した車両も一番星号の節で記述した『電子戦隊デンジマン』8話で、一番星号の隣に置かれている姿が僅かに映し出されている。
元々は東映の車両ではなく個人オーナーの車両だった三番星玉三郎丸は、映画終了後以降(時期については不明)荷台のみ別車両に載せ替えられており、2009年にフジミ模型からもその姿でプラモデル化されている。その他に哥麿会所属車両で、映画登場車と同じ三菱ふそう・キャンター(1973年式)をベースとした玉三郎丸のレプリカも存在する。こちらは本来のニックは「陽炎丸」であり、哥麿会の公式YouTubeチャンネルのオーナーのインタビューでは、製作途中の状態でオーナーと玉三郎役のせんだみつおが一緒に写っている写真もあった。
ゲスト車両として第10作に登場した龍馬號は1986年に事故で損傷した荷台ペイント部分の修復を行い、同年10月号の『カミオン』誌でも記事に取り上げられた。1998年にフジテレビジョンで放送された『西村雅彦のさよなら20世紀』の企画でトレーラー部分が爆破解体され、現在は2代目として同じデザインのペイントを施した3軸のトレーラーが存在する。
東映は、1981年に新しいトラック野郎に黒沢年男を起用して『ダンプ渡り鳥』を公開するが、本作と比較すると興行は芳しいものとは言えなかった。
1990年代に『新トラック野郎』としてシリーズを復活させるという企画が持ち上がり、『トラック野郎』第6作から第9作の脚本を担当した掛札昌裕が脚本を書いた。「主役は桃次郎ではないが二人組。トラックとよくすれ違う、60代の男が運転する謎の自家用車が出てきて、実はそれがもう余命いくばくかもない奥さんに日本全国を見せるために走っている事だっていうのが最後に分かる」という話。これを岡田茂に見せたところ、「お前、気が狂ったんじゃないか?」と一喝され却下されたという[67]。後に掛札は『爆走トラッカー軍団』シリーズの全作で脚本を手がけている。
1996年には東映の配給で映画『爆走!ムーンエンジェル -北へ』(製作・ポニーキャニオン)が公開される。トラック野郎とは一線を画した「カミオンマドンナ」としてハンドルを握る主人公役に工藤静香を起用[注 22]、監督は『スクールウォーズ(2作)』『ポニーテールは振り向かない』などの監督を務めた山口和彦。現在一番星号と共に哥麿会の顔でもある竜神丸も清水宏次朗がハンドルを握る車両として登場している。
1978年12月16日に、シリーズ初のテレビ放送が行われた。第1作『御意見無用』が「土曜ワイド劇場」の特別篇として2時間拡大版として放送された(当時は1時間半枠)。翌年に第2作から第4作までが、ゴールデンタイムに順次放送されていった。
当時は、東映がテレビ朝日の筆頭株主だった(現在は2位株主)関係で、1980年代の中期ぐらいまでは、よく放送され[注 23]ており、特に年末年始は必ずといっていいほど放送があった。1988年5月3日にはテレビ東京でも『爆走一番星』が再放送されている。
また、1990年代初頭まではTBS土曜午後の映画枠(『土曜映画招待席』)の常連でもあった。2014年9月以降よりBS-TBSにて定期的に放送されている。
近年の地上波ではほとんど放送されていない。ただし、2010年代に入って本作の主人公である桃次郎とジョナサンを演じた菅原文太と愛川欽也が鬼籍に入った後は、その追悼として放送された(シリーズ終了後の話題(2000年代以降)参照)。
玩具メーカーのバンダイ(旧バンダイ模型(バンダイ関連会社→吸収)、プラモデル事業は2018年4月にBANDAI SPIRITSへ移管)が版権を獲得し、発売した模型(1/48スケール)、800円、1200円も月に10万台も売れる大ヒットとなり[73]、作っても作っても需要が追い付かないほど売れ[73]、3200円のモーターライズも追加で売り出された[73]。これはプラモデル初心者にも作りやすいキットだったが、2010年代は店頭で見ることが稀になってしまったぐらいの貴重品である。『天下御免』のオープニングでは、1/20スケールのこれで遊ぶ子供たちが登場している。
またそのバンダイの関連会社で、後にバンダイに吸収されるポピーのミニカー玩具「ポピニカ」から、『爆走一番星』・『天下御免』・『度胸一番星』にそれぞれ登場した桃次郎のトラックをキット化して発売した。いずれも乾電池によりキャビンとコンテナが光るギミックが搭載されている。この他にも、ポピーの関連会社「ロビン」から、ポピーの主力商品「超合金」と同じ素材で作られたダイキャスト製バッジ「超合金バッジ」にも、本作のトラックを象ったバッジが発売された[74]。また、1978年には、ポピーがスポンサーとなったテレビアニメ『闘将ダイモス』(トレーラーが巨大ロボットに変形する)が放送され、玩具も販売された。
1980年代に全長約55センチという1/20スケールの超大型モデルも登場し、映画が終了して30年近く経つ現在2000年代でも販売されているロングセラー商品となっているが、後述する青島文化教材社(以下アオシマ)から1/32スケールのモデルで発売された2009年以降店頭に並ぶことは皆無に等しい。
他の映画出演車両は「やもめのジョナサン」の他に、2作目に登場した映出車の「ボルサリーノ2」および「雲龍丸」などが発売されていたが、ジョナサンは荷台の一万円札が百万円となっていたり(理由は後述、1/20の箱絵のみ一万円札となっていた)、雲龍丸およびボルサリーノ2はキャビンがFU系のもの[注 25]となっていたりと、実車と異なる箇所が顕著だった。
一方、トラック野郎の版権を持つことが出来なかったアオシマは、自社が商標を持つ「デコトラ」のシリーズ名でコンスタントにアートトラックの模型を発売しており、2009年には一番星号(『故郷特急便』版)が1/32スケールのキットとして初モデル化された。その後2018年までに3作目以降の車両がモデル化され、2020年にはベース車両の異なる1作目『御意見無用』仕様もバンダイ時代から遡って初めてモデル化された。ちなみに、アオシマ製のトラック野郎シリーズキットについては発売元がバンダイ(移管後はBANDAI SPIRITS)扱いとなるため、箱絵にバンダイのCIマーク(同)が入っている。
他にも当時の映出車であるコリーダ丸(2007年と2012年)、龍馬号(2007年と2016年)や、一部実車とは異なるが6作目のライバル車両である「袴田運送」(2011年)などがモデル化されている[注 26]。その他、チョロQや光るRCカー(1/32スケール)が新たに発売されており、2010~20年代もなお根強い人気を保っている。
アオシマ版「やもめのジョナサン」については、ベース車の未モデル化および荷台の一万円札が法律(通貨及証券模造取締法)に抵触する恐れがあるため発売されていない(ただし、それに似せた架空のトラックモデルは発売されていた)。
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