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日本の青森県青森市で毎年8月に開催される祭 ウィキペディアから
青森ねぶた祭(あおもりねぶたまつり)は、青森県青森市で8月2日から7日に開催されるねぶた。
毎年、延べ200万人以上の観光客が訪れる[1]。1980年に国の重要無形民俗文化財に指定された[2]。東北三大祭りの一つとされている[3]。
ねぶたの起源に関しては主に以下の三つの説が知られている[4]。
坂上田村麻呂説と津軽為信説が否定されるようになり、七夕起源説が一般的に信じられるようになった[4]。しかし、日本海側で古くから実施されていた民間行事の眠り流しが、津軽藩の公式行事となる灯籠行列として大規模に運行されるようになった経緯は必ずしも明らかにはなっていない[4]。京都または近江から弘前に移住した人々によって京都の灯籠行事がもたらされたとする説もある[4]。
なお、青森市内では浅虫ねぶたのある浅虫地区[5]のほか、大星神社、雲谷地区、浪岡地区にねぶた発祥伝承がある[4]。
ねぶたは骨組みに紙を貼ったものであるが時代とともに変化しており、第二次世界大戦前は竹の骨組みに紙を貼って絵を描いたものの中に蝋燭の火を灯したもので、一人から数人でこれを担いで川や海に運んで流す行事だった[2]。戦後まもなくまで、ねぶたは町内会、青年団、消防団などの地縁組織を中心に行われていた[2]。
藩政時代や明治時代には大型の灯籠を担いで町中を練り歩く行為に対ししばしば禁止令が出された。戦時中も禁止されたが、戦況が悪化した1944年には戦意高揚の為に解禁されており、「桃太郎の鬼退治」をもじった「桃太郎のルーズヴェルト退治」(製作者は北川金三郎)といったものが製作された。戦後は逆に進駐軍の影響により西洋への敵対的な表現ができなくなり、また刀を持ったねぶたも事実上制作不能だった。
戦後になると、ねぶたの大型化が進み骨組みは竹から針金に変わり、照明にも電球やバッテリーを使用するようになり、芸術性が高められた一方で経費も大きくなった[2]。そのため1970年代からは企業や同業者組合、行政などが中心となって運行されるようになった[2]。
毎年8月2〜7日まで開催される[2]。このうち8月2〜6日で夜間運行がある[2]。7日は昼間運行であるが、夜に陸奥湾で海上運行と花火大会が催される[2]。また、8月1日には前夜祭が行われる。開催にかかる費用は、約2億2000万円[6]。
青森のねぶたには大型ねぶた、子供ねぶた、地域ねぶたがある。子供ねぶた、地域ねぶたは主に町内会が主流となって運行するねぶたであり大きさも普通の大型ねぶたより一回り小さい。子供ねぶたは8月2・3日の2日間運行される。大型ねぶたは開催期中必ず運行されるが、奨励金の関係か2日と3日は大型ねぶたの運行台数が少ない。
昔は雨天中止になることもあったが、現在は雨天でもビニールをかぶせて運行される。
2018年度よりフォルテが「ねぶた アプリ」をリリースしており、全ての大型ねぶたに位置情報端末(GPS)を取り付け、利用者がアプリをダウンロードすることで、ねぶたの位置情報をリアルタイムで把握できるほか、ねぶたが利用者に近づくと、そのねぶたの団体名や制作者、詳細説明などを設定した言語で自動的に音声解説してくれる。現在、対応言語は日本語、英語、中国語(繁体字、簡体字)、韓国語の5言語である。
2020年・2021年は、新型コロナウイルス感染症の感染拡大を受けて開催中止となり[7][8]、2022年、3年ぶりに開催された[9]。
ねぶたの制作は専門の「ねぶた師」によって行われている[2]。
昭和30年代に北川啓三というねぶた師が針金を用いて指を1本ずつ作ったり複雑な造作のねぶたを作ったことによって、ねぶた界に革命が起こる。針金が登場した当時、一部では反発があったと言われているが、その表現性の高さから程なくして主流となった。北川によってロウソクだった内部の明かりを蛍光灯に替え、台座にバッテリーを乗せ明るく輝くねぶたを作ることに成功しより芸術性と完成度を高め、後に「ねぶたの神様」と評される。北川は既に他界しているが、現在の主流となっているねぶたの礎は北川が築いたと言える。その後、佐藤伝蔵や鹿内一生によって更にねぶたの造形性が高められ現代のねぶたの形が整った。千葉作龍や竹浪比呂央が郷土(青森)の題材をねぶたに取り入れた。
ねぶた作りは、
というこれらの10の工程を経て完成する。
最大サイズとして幅約9m、高さ約5m、奥行き約7mと言う規定がある。この規定は先述の戦後のねぶたの大型化により、道路上の広告アーチや歩道橋、信号などとの調整が必要になり高さを制限が設けられたものである(1957年頃に定着した)[2]。
題材に特に決まりはないが、歌舞伎の名場面、日本や中国の故事、青森に伝わる伝説などが取り上げられることが多く、2人の戦闘の場面を構図にしたものが多い[2]。テレビ番組(特にNHK・大河ドラマ)などを題材にすることもある。三内丸山遺跡が発掘された翌年の1995年には、縄文を題材にしたものが登場した。青森市初代名誉市民である棟方志功の生誕100周年となった2003年には彼の版画を題材にしたものが登場した。
昭和30年代ごろまでは歌舞伎・中国の伝説(三国志・水滸伝)・合戦物が大部分を占めており、中でも北川は同じ題材をほぼ毎年何度も制作していた。昭和40年代になると、それら以外にも様々なジャンルが増え、昭和50年代末頃には郷土(青森)のジャンルが確立された。現在では、これまでと同じ題材でも、構図に多くの工夫を凝らし、その結果毎年より高い水準となっている。また新たな題材に挑むねぶた師も存在しており、彼らによって新たな表現方法も開発されている。青森以外の地で開催される(以下、遠征と表記)場合には開催地に合わせた題材を選ぶことになる。
ねぶたの運行に関して基本的な運営(ねぶたの隊列、山車の運行、囃子方)は各出陣団体によって賄われる。
ねぶたの楽器構成は、笛、太鼓、手振り鉦の三つである[2]。この楽器構成は他地域のねぶたにもみられるが、メロディーとリズムは青森市のねぶたに独自のものである[2]。
囃子は団体ごとに異なることもあるが共通囃子も存在する。主な囃子には以下の通りいくつか演目が存在する。(団体ごとに有無があり、団体特有の演目も存在する。)
青森ねぶたの特徴の一つが周囲にハネトと呼ばれる大量の踊り子が付き従っていることである[2]。これらの踊り手は「ハネト」または「バケト」と称されるが、これらの呼称は少なくとも大正時代には一般的でなく「踊り子」と呼ばれていた(今純三『ネブタ運行の光景』には「おどりこ」とある)[12]。一説にはハネトは女装をしたバケトの一種で、次第に衣装が統一されたものという見方もある[12]。
1970年頃まではハネトに加わるには運行団体名が入った浴衣を着用する必要があったが、1970年頃には運行団体の浴衣を着なくても参加が容認され始めた[2]。ハネトは決められた衣装(正装)を着ていれば誰でも参加可能で、団体間の移動も自由であり、観光客も数多くハネトに参加している[2]。一般市民や観光客向けに「青森ねぶた祭」という文字を染めた浴衣が販売されており、「統一浴衣」または「観光浴衣」と呼ばれている[2]。
「ラッセラー」の掛け声で知られているが、これは1962年(昭和37年)にある婦人団体が流し踊りで行ったのが最初で、昭和40年代に出された佐々木新一の「ねぶた音頭」により定着したとされる[12]。それ以前の掛け声は「ラッセラッセ」で、青森県出身の高木彬光『悪魔の火祭』(初版は1958年桃源社刊)にも同様の掛け声の表現がある[12]。
青森市内の国道4号、新町通り、八甲通り、平和公園通りで囲まれたエリアが運行コースとなる。
先述のように1970年頃からハネトが急増し、祭礼の原動力にもなっていった一方、いくつかの問題を生じた[2]。その一つが逆流の問題で、長く踊りたいハネトが進行方向と反対に歩いて進行の妨げとなった[2]。そのため1983年にコース変更が行われた[2]。1982年まで市役所前又は新町通りと八甲通りの交差点から1台ずつ出発し、コースを右回りで回っていた。しかし祭りが佳境にはいったころ道幅の狭い新町通りにねぶたが入り、ハネトで通りが一杯になりねぶたがいつまでたっても前に進めないという問題点が指摘された。このため1983年に左周りにコースが改められた。しかし、このコース変更は根本的な解決にはならなかった[2]。また、1980年代には後述の「カラスハネト」「カラス族」と呼ばれる集団が問題化した[2]。
その後、1992年に、市内各地に点在していた「ねぶた小屋」(ねぶたの車両基地のようなところ)が、観光物産館付近の青い海公園ラッセランドに集められた時期から、新町通り柳町付近からの出発に変更された。しかし祭りが高潮するとハネトであふれかえるためゴール地点は常に渋滞し、祭りそのものがなかなか終了しないという問題は相変わらずであった。
そこで2001年、あらかじめ周回コース全体に均等にねぶたを配置し、花火の合図で一斉に動き出し、花火の合図で一斉に離脱する一斉スタート・ 一斉解散方式が採用された[2]。ただし一斉スタート・一斉解散方式でも遅延は発生し、コースを一周できない団体もあり、審査員席にたどり着けなかったり、有料観覧席で見ている観客から目当てにしていたねぶたが来ないなどの不満が出ることもある[2]。そのため2005年の特別検討委員会は将来的には以前の方式(吹き流し方式)に戻すべきとしたが、粗暴なハネトがいるとして当面は一斉スタート方式を継続することとした[2]。
なお最終日の7日に限り、現在でもねぶたが1台ずつ出発している(吹き流し方式)。
先述のように祭りのメインである山車、ねぶたを作る制作者のことをねぶた師という。明治時代ごろまでは、ねぶたが町内単位での運行であったため、有志が制作していたが、ねぶたを企業などが運行するようになると、次第に名の立つ制作者が注文を受けるようになった。昭和時代になると、雑誌などで制作者のことを「ねぶた師」というようになる。2024年現在、ねぶた師は16人で、それぞれ作風が異なる。
※()内は大型ねぶた制作デビュー年
それぞれの時代において、優れた功績を残したねぶた師には名人位が贈られており、2012年現在で6人のねぶた名人がいる。4代までは名人位認定に対する明確な基準は無かったが、5代と6代が認定されるにあたって実力や実績(制作期間、受賞歴、後継者たる弟子の育成等)に対する基準が制定されている。
代数 | 名前 | 生年月日 | 認定年月日 | 年齢 | 没年月日 | 備考 |
---|---|---|---|---|---|---|
初代 | 北川金三郎 | 1880年12月26日 | 1958年8月22日 | 78歳 | 1960年 | それまで竹で大ざっぱに作っていたねぶたを、針金で丁寧に作り、蝋燭だった照明を電球と蛍光灯に替え、ねぶたに革命をもたらしたため、「近代ねぶた開祖」「青森ねぶた中興の祖」と呼ばれる。 |
2代 | 北川啓三 | 1905年3月21日 | 1985年6月7日 | 80歳 | 1988年4月6日 | 上記初代名人の息子で、父同様優れたねぶたを作り、第1回田村麿賞を獲得した。 |
3代 | 佐藤伝蔵 | 1925年12月26日 | 1986年8月11日 | (61歳)※ | 1986年8月8日 | 上記・北川親子の弟子。骨組みが少ないため平坦な作りであった顔の部分(面)を、針金を多用し、凹凸のある面にし、主流とさせた。華麗な色彩と大胆な構図の作りで、多くの制作者が尊敬の念を抱いている。前人未踏の田村麿賞4連覇の記録を持つ。田村麿賞受賞回数は8回。 |
4代 | 鹿内一生 | 1925年1月30日 | 1990年8月1日 | 65歳 | 1991年3月16日 | 馬のねぶたを得意とし、佐藤が華麗なねぶたを作ったのに対し、荒々しいねぶたで、作りが対照的であった。多くの弟子を育て我生会という一門を作り、結束力を強めた。田村麿賞受賞回数は7回。 |
5代 | 千葉作龍 | 1947年1月25日 | 2012年8月1日 | 65歳 | 存命 | 早くから頭角を現し、26歳での田村麿賞初受賞、28歳29歳での連覇という最年少記録を持つ。いくつもの新たな題材や表現方法に挑み芸術としての幅を広げ続けている。ねぶた大賞(田村麿賞を含む)受賞回数は11回。 |
6代 | 北村隆 | 1948年5月20日 | 64歳 | 北川敬三の弟子。ねぶた大賞(田村麿賞も含む)受賞回数は12回で最多記録保持者。 | ||
7代 | 竹浪比呂央 | 1959年 | 2023年4月27日 | 63歳 | 存命 | 千葉作龍の弟子。ねぶた大賞受賞回数は8回。また、最優秀制作者賞の受賞回数は9回で最多記録保持者。 |
※佐藤伝蔵は没後認定のため享年
かつてねぶた祭が有志による開催だった時代にはねぶた師と呼べるような人物が存在しなかったが、やがて腕の立つ者がねぶた師として制作するようになり、明治に入ると弟子を取る者も現れた。現在ではねぶた師を志向する者はほとんどが特定のねぶた師に弟子入りして手ほどきを受け、制作技術を磨いて一本立ちする。ただし中には特定の師匠を持たず独自に制作技術を身につけるねぶた師もいる。以下にその系列を示す。
千葉作太郎を祖とする系統である。明治のねぶた師・柿崎琴章の流れを汲むとされる。5代名人・千葉作龍を輩出している。
※柳谷優浩(正式な弟子ではない)
明治のねぶた師、坂田金作を祖とする歴史ある系列である。また初代、2代、6代と実に3名の名人を輩出している。
3代名人・佐藤伝蔵を祖とする系列である。佐藤伝蔵は北川親子の弟子であるため北川系の分派とも言える系統である。
川村伯鳳を祖とする系統である。1965年に鹿内一生によって明確に一門とされた。4代名人・鹿内一生を輩出している。
※相馬寿朗[23]
昭和20年代より、ねぶたを豪華絢爛にすべく審査制度が設けられた(古くは戦前にも審査は存在した模様だが現存する資料は確認できていない)。当初は「優秀」「優良」「佳良」などの名称であったが、審査に偏りがあるなどの理由から、1960年からは中止された。しかし審査を廃止した結果制作の手を抜くねぶた師が出るようになり、2年後の1962年より青森ねぶたの最優秀作を決める「田村麿賞」(現「ねぶた大賞」)が制定された。その後、「田村麿賞」に次ぐ賞がいくつか設けられ、また製作者賞(制定当時の表記)などの部門賞も設けられた。ただし、1964年のみ田村麿賞を受賞したねぶたが無い。祭り4日目の運行終了後に審査の集計が行われ、夜11時ごろに各賞が決定、翌日の表彰式で受賞した団体に賞の額が贈られ、ねぶたに飾り付けられる。なお、額の形状は、黒い枠の上段に「贈」、右上に「祝 ねぶた祭」、左上に団体名、左下に「青森ねぶた祭実行委員会」、下段にその年の西暦が記されている。
ねぶた本体・運行はねと・囃子の総合評価で最優秀のねぶた運営団体には「(令和○年)ねぶた大賞」が贈られる[24]。
またこの賞は1962年より「田村麿賞」の名称で制定されたが、坂上田村麻呂は東北地方からみると征服者であり逆賊ではないか[25]との見解により「賞名に征服者の名前を冠しているのはおかしい」「史実の坂上田村麻呂は青森までは来ていない」[26]との批判を受け、各界各層の意見や世論を踏まえた結果として1995年より現在の賞名に変更された。2012年時点での通算最多受賞記録は北村隆の12回。連続受賞記録は佐藤伝蔵の4年が最高(翌年伝蔵は他界)。
青森ねぶたは、大型化にともない町内会だけで費用をまかないにくくなり、ほぼすべての団体が大手企業、官公庁、大学等がスポンサーとなり運行している。しかし、企業名や官公庁の名がある団体でも、すべての関係者がその企業の社員や職員ではないことがある。また、ねぶた愛好会や私たちのねぶた自主製作委員会の様に特定のスポンサーをつけず、市民の手だけで製作・運行している団体もある。
ほか多数
北海道の七夕行事である「ローソクもらい」は青森県のねぶたの準備が起源で入植者によって伝えられたといわれている(ただし佐渡起源説もある)[29]。
1980年代に入ると逆行や喧嘩騒ぎなどを起こす一部のハネトが報じられるようになった[2]。そして1986年あたりから全身が黒装束の「カラスハネト」「カラス族」が現れた[2]。警察の道路使用許可条件にはハネトはすべてひき綱の中に入れることとされ、当初はこれらの者を隊列の外に追いやるような状態が続いたが、もみあいになり運行委員がけがをすることもあった[2]。
1996年にはカラス族の喧嘩で割れた一升瓶の破片が観光客の首に刺さって全治1ヶ月の大けがを負う事故が発生し、青森県は1997年からカラス族を最後尾のロープ内に取り囲んで監視する対策を行った[2]。しかし、最後尾に居場所を作ったために、かえってカラス族は増加し、2000年には延べ11000人に達した[2]。
青森県は「青森県迷惑行為等防止条例」を2001年7月1日から施行したが、この条例の検討中に問題が発生したため、第4条に「祭礼における迷惑行為」を明記することになった[2]。この条例に基づき2001年の青森ねぶた祭には、延べ3000名の警察官と1131人の警備ボランティアが動員され、出没したカラス族(カラスハネト)は6日間の総計で延べ1770人にまで減少した[2]。2001年の青森ねぶた祭では迷惑行為等防止条例で3人、暴行罪で3人の計6人が逮捕された[2]。
2023年8月、ねぶたを先導する役割の青森青年会議所(JC)の運行支援担当2名(会員1名、ボランティアスタッフ1名)が、曳手6人(会員1名、ボランティアスタッフ5名)の顔や頭を、腕を振りま回しながら、手慣れた感じで[30]うちわや平手で殴打する暴力行為があったことが、観客が様子を撮影したとみられる暴力動画がSNS上に公開されたことで発覚した。加害者らは、運行中にねぶたが道路標識にぶつかったため、「(殴ったのは)曳手6人の気合を入れ直すためだった」と弁明したとされる。
SNS上では「暴力は犯罪」、「明らかな暴力行為で警察沙汰になってもおかしくない」、「何故警察に逮捕されないの?」など声が殺到する中[30]、この件に関し、青森ねぶた祭実行委員会は「暴力行為が二度とないよう厳正な対応を約束し、再発防止に努める」、青森市長の西秀記は「実行委員会と共に、祭りの全期間を通じて、こうした暴力行為が二度と発生することのないよう、再発防止および健全な祭りの運営に努める」とのコメントをした[31][32][33][34][35]。
被害者の無抵抗ぶりに「暴力が常習化?」との憶測もある中、青森青年会議所側は日頃更新されている形跡のほとんどない公式サイト上にて、「当事者間においては既に謝罪がなされ、それを受け入れられております」との謝罪文を素早く公開し、すでに円満解決したとされる[30]。
2018年7月中旬、青森県青森市の住宅から明治時代の青森ねぶたの様子が撮影された1枚の写真が発見された。写真は、青森まちかど歴史の庵「奏海(かなみ)」に寄贈され、2018年8月26日まで「奏海」で開催中の「懐かしの昭和のねぶた」で公開されている。写真には8メートル程度とみられるねぶたを囲むように、鉢巻き姿の男性や子ども達が写っている。写真の裏には「七夕祭ネブタ 青森 塩町 若者連 莨町ニテ」と記載されており、現在の青森県青森市青柳付近で撮影されたものと思われる。尚、写真は1891年に撮影されたと見られ、青森ねぶたの様子が撮影された最古の写真と見られるという[41]。
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