「二百三高地」(にひゃくさんこうち)は、1980年製作の日本の戦争映画。
キャスト(映画)
記載順、漢字表記はエンディングクレジットに準じる[注釈 3]。なお、本作では配役は示されておらず、俳優名のみとなっている。
太字の人物は、単独クレジットになっている俳優である[注釈 4]。
- 第三軍関係
- 政府関係
- 大本営関係
- 民間人関係
- ロシア軍関係
- オスマン・ユスフ(祈りを捧げる司祭)
- 大月ウルフ(尋問されるロシア軍人)
- ジョセフ・グレース
- ピーター・ウイリアムス
- ドナルド・ノード
- ジャック・デーヴィス
- ルック・マイヤー
- パトリック・スワード
- ダニエル・クラスラフスギー
- ジェリー・ククルスキー
- ペギー・デジュイーガー
- ジェームス・ゴードン
- ジョージ・ロバーツ
- アレキサンドル・カイリス
- バートン・ターナー
- エメリオ・ピドソーラ
- ジャクリーン・ラノーエ
- ダクラス・ブルックス
- ジョン・フインク
- ディヴィッド・バトラー
- ニコライ・ミューリン
- 満洲軍関係
- 皇室関係
- 三船敏郎(明治天皇)
- 松尾嘉代(皇后=昭憲皇太后)
※制作当初は、伊吹吾郎(上泉徳弥)、長門勇(高橋是清)らもキャスティングされていた。
製作の経緯
脚本の笠原和夫は「岡田茂東映社長(以下、役職は全て当時)が東映企画部長・天尾完次に明治天皇(の映画)をやろう」と指示を出し企画がスタートしたと話している[4]。東映東京撮影所長・幸田清は著書などで、1977年に天尾と幸田で「日本の近代史を映画にしたい」「まず日露戦争からやろう」という話から始まったと述べている[5][6]。日露戦争の映画は戦後だけで東映以外に新東宝の『明治天皇と日露大戦争』など、5本創られてきたが創り方が難しい素材といわれていた。未だ原案がまとまらぬ段階で幸田らは岡田に意向を尋ねると、「今時、日露戦争の映画を観に来る者はほとんどいない。当たらないからやめとけ」と却下された。しかし再々度、制作を打診すると「そうだなあ。乃木大将を中心に創ってみたらひょっとしていけるかな。今まで、乃木将軍を描いた映画はないだろう」との岡田の何気ない一言を切っ掛けに、幸田を中心に天尾、太田浩児、瀬戸恒雄らプロデューサー3名で検討を開始するも、良い切り口がなくプロのシナリオライター1名を加える。しかし未だ企画は承認されておらず流れてしまうとギャラも払えない。駄目元で当時はフリーになっていた笠原和夫に依頼すると「日露戦争には興味がある」とのことで承諾された、題名を『乃木大将と日露戦争』と付けて本社会議にへ企画案を提出するも、「日露戦争の映画は当たらない」と営業関係から猛反対され一人の賛成論もなかったが、「出来上がったシナリオを読んで考えよう。シナリオ作成だけ承認しよう」との岡田の一言で一転、全員一致で承認され、出来上がった笠原のシナリオは会議でも賞賛された、などと幸田は話している[5][6]。
笠原は「日露戦争をやってくれ」と天尾が電話してきたので、「岡田さんはどういう風に考えてるんだ」と聞いたら「社長は『明治天皇と日露大戦争』みたいな感じではなくて、もっと正面から日露戦争を描くやつをやりたいと言っています」といわれ「そういうことだったら承知した」と脚本を引き受けたと話している[7]。最初は乃木希典を中心にした旅順戦とスウェーデンに行った明石元二郎、イギリスに行った高橋是清、アメリカに行った金子堅太郎の三人の活動を含めて脚本を書き、岡田に提出したら「長い、せめて3時間におさめてくれ」と言われ、海外に行った三人の話は削り、旅順戦に絞った本を提出したら岡田からOKが出たという[4]。
過去三年間1本も赤字を出していない舛田利雄に監督を打診したところ「こんなに良くできたシナリオは読んだことがない。ぜひとも私に撮らせて欲しい」との回答を得た。シナリオは賞賛されるも、当時は3~5億円で映画を作っていたが本作は20億円を要すると言われ製作は大反対された[8]。予算を削りに削っても15億円が精一杯で、それ以下ではちゃちな映画にしかならず、何がなんでも創りたいと執念を燃やす幸田は、岡田さえ説得できれば映画は創ることが出来ると、あえてうそがばれるような13億5000万円の予算を作成し、岡田に最後の希望を託した[8]。岡田はうそはすぐに見抜いたが製作を了承するも、「前売券を10万枚、撮影所だけで売ること」と条件を出した[8]。後にその金額が差額の1億5000万円分だったと分かったという。幸田は、岡田でなければ『二百三高地』は撮れなかったと話している[9][10]。企画立案からクランクインまで2年余を要した[11]。正確を期すためシナリオ作成時から、岡田が瀬島龍三、原四郎、千早正隆に監修を要請し[12][13]、シナリオの間違いの訂正の他、撮影にも何回か立会ってもらい、指摘を受けた部分の撮り直しも行われた[12][11][14]。笠原は岡田社長がどこからかクレームが付いた場合を考えて瀬島に監修を頼んだ[15]、すると瀬島が「俺よりもっと頭が凄いやつがいる」と原を紹介した、千早は別ルートからの要請ではないかと話している[15]。
製作期間3年。また当時の日本映画としては破格の製作費15億円を投入して制作され[出典 3]、各社で立て続けに戦争映画が作られる戦争大作映画ブームを起こした[出典 4]。
作品の評価
- 本作は脚本を担当した笠原和夫が、当日の天気まで記した巻物のように長い年表を作成した上で、当時の時系列や状況を徹底して調査・取材を行い、膨大な資料を収集した上で脚本を執筆した[注釈 7]。
- 旅順攻囲戦を作品の舞台としながらも、主人公を著名な軍人・政治家の描写や活躍に終始せず、戦場で戦う将兵の思いや葛藤に対しての細かい描写がなされた。
- 東宝から招かれた特撮監督中野昭慶による特撮や戦闘シーンは、中野が得意とする派手な爆発や炎上シーンに加え、現地を緻密に取材したうえ忠実に再現したセットが非常にリアルであるとして話題を呼んだ。特撮シーンの撮影は、東映の大泉撮影所ではなく、東宝の東宝スタジオ第9ステージで行われた[19]。特撮美術の井上泰幸は、山のミニチュアセットに木がないため、砲台から旅順港を見るカットで距離感やスケール感を出すのに苦労したといい[19][20]、本作品を最も苦労した作品として挙げている[19]。
- 公開当時、企画協力に瀬島龍三が参加していることなどから、制作の背景に如何わしいものがある作品ではないかという疑いをかけられたうえ、日本から外国へと出向いて戦争を仕掛けておきながら、どんなに犠牲が出ようと自衛のため開戦はやむを得ないとか、悲惨な戦争だが結果は勝利だ、という内容であったため、戦争肯定映画であるという風評が公開前から広まってもいた。これらのことから、一部の教育者や評論家、また日本共産党の機関紙・「赤旗(現・しんぶん赤旗)」や朝日新聞から、後年公開の『大日本帝国』(1982年)と同様、「戦争賛美映画」「軍国主義賛美映画」「右翼映画である」と批判された[16]。ただし、そうした映画の内容は、あくまで戦争に突き進んでしまった当時の風潮を描いたのであって、それが正当とされてしまった当時の政治についてまでは肯定しておらず、むしろそうした時代および日本の体制に対して批判の意図が込められていた。これは後に制作される『大日本帝国』にも共通しており、これについて笠原和夫はその著書の中で、天皇の戦争責任に言及している。
- さだまさしは主題歌を依頼された際、音楽監督の山本直純に「二百三高地の何を描くんですか。要するに”勝った、万歳”を描くんですか?」と尋ねており、「そうじゃない。戦争の勝った負けた以外の人間の小さな営みを、ちゃんと浮き彫りにしていきたい。そういう映画なんだ」と答えが返ってきたことを受けて依頼を快諾したという逸話がある[8][21]。
- 製作発表以来、「アナクロ」「極右」などとマスコミに叩かれ、出演を断る俳優が相次いだといわれる[11]。
- 乃木希典を主役とした映画は、戦前に何度も製作されたが、戦後は全て脇役扱いであった[注釈 8]。本作品での仲代達矢の熱演によって、ようやく乃木はスクリーンの主役に返り咲いた(乃木希典#乃木を取り扱った作品)。ただし、物語上の主役は小賀武志を中心に描かれている。
- 本作は後にテレビドラマ化するほどの大ヒットを飛ばし、各社で立て続けに戦争映画が作られる戦争大作映画ブームを起こした[出典 5]。
- 東映の戦争映画は、1950年の岡田茂初プロデュース作『きけ、わだつみの声』が原点[11]。本作『二百三高地』の大ヒットに手応えを掴んだ岡田茂東映社長は[16]、1980年代に角川やアニメ映画の取り込みと合わせ[22][23]、ヤクザ戦争や時代劇復興からホンモノの戦争へ大転換させた[16]。
エピソード(映画)
- 主役の乃木将軍役には、早い段階で仲代達矢を想定して企画が進められていたが、仲代が渋り、フジテレビのドラマ『アマゾンの歌』(1979年10月6日放送)で、ブラジルに長期ロケに行くのでと断わられた[11][24]。やむなく乃木将軍役を天尾、幸田、舛田監督の3人で丹波哲郎に話を持っていったところ、丹波はやる気まんまんで「是非とも」と快諾した。ところが岡田茂に話しに行ったら「なんで丹波が乃木になるんだ! お前ら、何を考えているんだ!」と頭ごなしに怒鳴られ却下される[注釈 9]。結局、丹波には侘びを入れた後、「脚本を読むと児玉源太郎が面白いね」と言っていたのを覚えていた舛田が、その場で丹波に児玉役をキャスティングした[24]。肝心の乃木将軍役の仲代の替りを一生懸命探していたが、岡田が「仲代が戻るまで待とう。封切りを伸ばせ」と鶴の一声で仲代に決定した[11]。トラブルはさらに続き、仲代が日本に戻りようやく撮影に入ろうとした矢先に、黒澤明の影武者騒動が起きた。勝新太郎の降板で仲代が武田信玄を演ることになったのだが、仲代は黒澤との義理があり断ることは出来ず、『二百三高地』も『影武者』もスケジュールがギリギリの状態となってしまう。この騒動によって調整をつけるのが大変なものとなったところに「『二百三高地』の方が先口だったから」と黒澤が仁義を通し、『二百三高地』の撮影を優先させてくれた[24]。
- 脚本の笠原が岡田から最終的に脚本の了承をもらった際に、岡田から「一ヶ所直してくれ。あとは全部、お前の考えでいいから」と言われた[25]。その訂正を指示された箇所とは乃木が明治天皇に旅順戦の軍状報告をするラストシーンだった。世間では乃木が泣いたという話になっているが、実際に調べたら、関係将官が全部囲んで厳かに淡々と天皇の前で報告を行うことは一番神聖なセレモニーであり、そんな時に泣いたりしたら笑われるどころではなく、乃木は報告の途中で言葉をつまらせたが、明治天皇も冷たい顔をして聞いていたというのが事実と分かった。笠原はこの通りシナリオに書いていたが、岡田に「世間でよく言われている通り、乃木がヨヨと泣き崩れると、天皇陛下が席をお立ちになって、「乃木よ、泣くな」と乃木の肩の手をお当てになられた、に変更しろ。そういうふうにしないとお前、客は来んぞ」と言われ、指示通り直した[25][26]。この岡田の指示で大号泣のラストシーンとなった[17]。宮中正殿のセットは東映の現有の力を結集し3000万円かけて製作した[11]。
- さだまさし歌唱の主題歌「防人の詩」は、音楽監督・山本直純が主題歌の挿入を提案し、山本の推薦により、さだが起用されたもの[27]。
- 俳優のエンディングクレジットが「第三軍関係」仲代達矢..「政府関係」森繁久彌..「満洲軍関係」丹波哲郎..「皇室関係」三船敏郎 .. となっているのは、森繁久彌・丹波哲郎・三船敏郎という三人の大物俳優の名前を表示する順番に苦慮して考案された、「グループ別」という前例のない方法である[28]。なおポスターでは丹波が中軸、森繁がトメ前、三船がトメである。
- 劇中において日本兵が使用する三八式歩兵銃は、アップシーンに備えて30丁ほどの模造銃が製作された。しかし日露戦争当時、日本軍が使用した小銃は三十年式歩兵銃であった。三十年式と三八式は遠目にはほぼ同一だが、機関部では細かな形状が異なり、これは明らかな考証ミスである。映画公開時、毎日新聞の取材に対し東映は「小銃の種類についてはあまり詳しく調べなかった。まあ、当時なかったえい光弾も映画の中で使っている。ドラマだから、今ふうでいいんじゃないですか。」と回答している[29]。
- 同じく日本兵が着用する暗色の軍服は大陸の黄土ではひどく目立つため、日露戦争中にカーキ色の軍服が制定された。史実では旅順攻略戦までに全て入れ替わっていたが、撮影では旧来の暗色服のままで撮影されている。考証上分かってはいたが予算上の都合で史実通りに出来なかった。後のNHKスペシャルドラマ『坂の上の雲』では、この点は史実通りとなった。
- 日露戦争当時は冬季に戦闘が行われたが、映画の撮影は真夏に行われ、しかも旅順要塞の屋外セットが伊豆大島に作られたために[2]、俳優陣は炎天下に冬服を着込んでの撮影を強いられ、非常に体力を消耗したという[8]。児玉源太郎役の丹波哲郎によると「汗が目立たない様に、顔に汗抑えをたっぷり塗って演技していたが、衣装の中は汗でベタベタになり、ワンシーン終るたびに裸になって汗を拭いていた」とのこと。なお、冒頭の銃殺シーンに出演した役者陣は非常に和気あいあいとした雰囲気の中、撮影に臨んだという。
- 大島のセットは大成建設が非常に安い値段で作ってくれたが、舛田が思い描いている物は予定された製作費では作れず、何度も降りようとした[30]。
- ビートたけしは「チョイ役で出た。エキストラの中に入れられて、きったねえ服着せられて弁当食ってたら『はい、日本兵集まって』と言われた。監督から『お前、一番最後から走ってけ』と言われて、しょうがねえからカメラ横を通り抜けるとき、立ち上がってコマネチポーズを横走りしながらやったら、監督が『そこのお前っ、何でお前は手をこうやるんだっ』って怒ってね。監督は俺のコマネチギャク知ってるかと思ったら、知らないんだ、マジだから(笑)。ほいでほとんど出番無かったの」などと述べている[31]。
- 2003年、全国で開催された夏目雅子を偲ぶ「永遠の夏目雅子展」を訪れた岡田が「ウチの映画(東映の夏目出演映画)は、まだDVDになっとらんのか」と"ツルの一声"を発し、急遽本作と夏目が6代目マドンナを演じた『トラック野郎・男一匹桃次郎』、『大日本帝国』が同年12月初DVD化された[出典 6]。
- 当時、東映製作のスーパー戦隊シリーズ『電子戦隊デンジマン』が放送されており、その中の一挿話には撮影スタジオの場面があって、『二百三高地』の看板や大道具の前で、デンジマンが戦う。これは映画版『デンジマン』にも挿入されている。
- 日曜洋画劇場では1982年4月11、18日に前後編に分けて放送された。
映像ソフト
- 『二百三高地』(2003年12月21日、東映ビデオ)
- 『二百三高地』【期間限定】(2011年8月24日、東映ビデオ)
- 『二百三高地』【期間限定プライスオフ版】(2014年7月11日、東映ビデオ)
- 『二百三高地』【Blu-ray】(2015年8月5日、東映ビデオ)