白襷隊
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白襷隊(しろだすきたい)は、日露戦争の旅順攻囲戦における第3回総攻撃において編成・投入された特別予備隊である。「白襷隊」とは、夜襲の際、味方を識別するために将士ともに白襷を掛けていたことに由来する名称であり、日露戦争後になってこう呼ばれるようになった(従って正式な部隊名ではない)。
1904年(明治37年)11月23日、ロシア帝国陸軍の旅順要塞を攻囲していた大日本帝国陸軍第3軍は、第3回総攻撃の命令を下達した[1]。この際に、後に「白襷隊」と呼ばれることになる、第3軍司令官直轄の特別予備隊(決死隊)が編成された[1]。特別予備隊は、中村覚少将(第1師団 歩兵第2旅団長)の強硬な意見具申を容れて編成されたものであり、第3軍の参謀の多くは反対していたが、乃木希典大将(第3軍司令官)の決断で編成が決まった[1]。発案者である中村少将自身が、特別予備隊の総指揮官となった[1]。
特別予備隊の編成は下記の通り。
第3回総攻撃は11月26日8時の砲兵部隊による準備射撃をもって開始され、同日13時に歩兵部隊の突撃が始まった[1]。同日17時、第3軍は特別予備隊に戦闘加入を命じた[1]。
11月26日18時に前進を開始した特別予備隊は、水師営から松樹山北西麓に進み、26日21時頃に敵堡塁間近の第一線散兵濠に突入したが、地雷の爆発により潰乱し、味方識別のために掛けていた白襷がロシア軍の探照灯照射によって反射し目立ったため大損害を受けた。将校の多くが死傷し、総指揮官の中村少将も重傷を負った[1]。状況を知った第3軍は、27日2時30分に退却命令を発し、死傷者を収容した特別予備隊は、夜明けまでの間に後退を終えた[1]。
特別予備隊の損害は下記の通り(微傷在隊者〈将校4名、下士兵卒119名、計123名〉は含まず)[2]。
桑原嶽(陸士52期、陸軍少佐〈帝国陸軍〉、陸将補〈陸上自衛隊〉)は
という趣旨を述べている[1]。
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