中村覚
日本の江戸時代末期(幕末)~大正時代の武士・軍人・男爵 ウィキペディアから
中村 覚(なかむら さとる、安政元年2月20日(1854年3月18日) - 大正14年(1925年)1月29日)は、日本の陸軍軍人、華族。階級は陸軍大将従二位勲一等功二級男爵に昇る。
経歴
彦根藩士中村千太夫の二男として生まれる。藩徒士を経て、陸軍教導団に入る。西南戦争に出征。日清戦争時には東宮武官・侍従武官を務めた。日露戦争に出征し旅順攻囲戦で「白襷隊」の指揮官として負傷し、勇名を馳せた。
日露戦争
中村の部隊は、第3軍に編入された。南山の戦闘に参加後、旅順攻略に参加する。
旅順攻略戦は、既に2回の総攻撃を仕掛けていたがいまだ陥落せず、次の第3次総攻撃に大きな期待が集まっていた。11月26日に総攻撃を行うことが作戦会議で決定。中村は会議で別働隊による奇襲攻撃を提案したが却下、それでもあきらめずに司令官の乃木希典に了解を得て[1]、奇襲攻撃に準備が進められた。
無謀とも云えるこの作戦の指揮を取ることになった中村は、部下に
- 「大勢の兵士が死んでいる。そろそろ上(将官階級)の者が死なないと申し訳が立たないではないか」
と述べたと伝えられる。
編制された特別隊は、3000人の規模で要塞に対し夜襲を行うこととなった。所属兵士全員が夜間の味方識別のため白襷を掛けていたことから、この部隊は後に「白襷隊」と呼ばれた。出撃に際し中村は、
- 「若し我倒れたら、指揮は渡辺大佐に代われ、渡辺が倒れたら大久保中佐が指揮を取れ、各部隊とも順次変わる者を決めておけ。ゆえなく後方に留まったり、隊伍を離れる者があれば斬れ!」
と云う壮絶な訓示を行っている。26日午前8時から攻撃を開始し、午後には歩兵部隊の突撃が始まったが、通常攻撃では陥落させることが出来なかった。夜になり中村の部隊が奇襲を開始したが、途中、兵が地雷を踏み奇襲攻撃が露呈。ロシア軍は探照灯を使用して白襷隊に集中砲火を浴びせた。死者2300人。この戦闘で中村も負傷し、内地に送られる。
年譜
- 明治5年(1872年)7月 - 陸軍教導団に入る。
- 明治6年(1873年)11月 - 陸軍教導団卒。陸軍伍長任官。
- 明治7年(1874年)
- 明治8年(1875年)1月 - 歩兵少尉任官
- 明治10年(1877年)
- 明治12年(1879年)3月 - 参謀本部管西局員
- 明治14年(1881年)4月 - 歩兵大尉
- 明治19年(1886年)5月 - 歩兵少佐・歩兵第10連隊大隊長
- 明治20年(1887年)4月 - 参謀本部第2局員
- 明治21年(1888年)5月 - 第1師団参謀
- 明治22年(1889年)12月 - 陸軍大学校教官
- 明治24年(1891年)
- 明治25年(1892年)9月 - 歩兵中佐
- 明治27年(1894年)
- 明治29年(1896年)10月 - 侍従武官
- 明治30年(1897年)4月14日 - 歩兵第46連隊長
- 明治31年(1898年)10月1日 - 東部都督部参謀長
- 明治32年(1899年)9月 - 陸軍少将
- 明治33年(1900年)4月25日 - 台湾総督府陸軍幕僚参謀長
- 明治35年(1902年)3月 - 歩兵第2旅団長
- 明治37年(1904年)3月 - 日露戦争出征
- 明治38年(1905年)
- 明治39年(1906年)2月 - 教育総監部参謀長
- 明治40年(1907年)
- 明治41年(1908年)12月29日[2] - 岡沢精の後を受け、第2代侍従武官長に就任。
- 大正2年(1913年)8月 - 東京衛戍総督
- 大正3年(1914年)9月 - 関東都督
- 大正4年(1915年)1月 - 陸軍大将[3]
- 大正6年(1917年)7月 - 軍事参議官
- 大正8年(1919年)2月 - 後備役
- 大正14年(1925年)1月29日 - 薨去。墓所多磨霊園(22-1-27)[4]。
栄典
- 位階
- 1875年(明治8年)7月20日 - 正八位[5]
- 1880年(明治13年)1月31日 - 従七位[5]
- 1881年(明治14年)6月30日 - 正七位[5]
- 1886年(明治19年)7月8日 - 従六位[5][6]
- 1892年(明治25年)3月28日 - 正六位[5][7]
- 1895年(明治28年)2月28日 - 従五位[5][8]
- 1899年(明治32年)11月14日 - 正五位[5][9]
- 1904年(明治37年)12月16日 - 従四位[5][10]
- 1907年(明治40年)3月11日 - 正四位[5][11]
- 1910年(明治43年)4月30日 - 従三位[5][12]
- 1915年(大正4年)2月20日 - 正三位[5][13]
- 1919年(大正8年)3月10日 - 従二位[5][14]
- 勲章等
- 1878年(明治11年)8月28日 - 勲六等単光旭日章[5]
- 1885年(明治18年)4月7日 - 勲五等双光旭日章[5][15]
- 1889年(明治22年)11月29日 - 大日本帝国憲法発布記念章[16]
- 1893年(明治26年)5月26日 - 勲四等瑞宝章[5][17]
- 1895年(明治28年)
- 1900年(明治33年)5月31日 - 勲三等瑞宝章[5][20]
- 1905年(明治38年)5月30日 - 勲二等瑞宝章[5][21]
- 1906年(明治39年)4月1日 - 功二級金鵄勲章・勲一等旭日大綬章[5]・明治三十七八年従軍記章[22]
- 1907年(明治40年)9月21日 - 男爵[5][23]
- 1915年(大正4年)11月10日 - 大礼記念章(大正)[24]
- 1916年(大正5年)4月1日 - 金杯一組・大正三四年従軍記章[25]
- 1920年(大正9年)11月1日 - 金杯一組・大正三年乃至九年戦役従軍記章[26]
- 1925年(大正14年)1月29日 - 旭日桐花大綬章[27]
親族
- 父 中村千太夫 - 彦根藩士
- 妻 外千代 - 彦根藩士・小林松太郎の妹
- 長男 中村謙一 中村の後を継ぎ、鉄道省建設局長に進んだ。
- 次男 中村謙二 陸軍士官学校(18期)卒。陸軍大佐に進む。
- 三男 森村謙三 - 6代目森村市左衛門の異母弟・森村豊の娘婿。東京高等商業学校卒業後三井物産入社、その後渡米して森村ブラザーズの事業に携り、ナシヨナル・バンク・オブ・コンマースで銀行事務を硏究、帰国後第一銀行日比谷支店支配人を経て森村同族会社幹部[28]。長女・和子の舅に稲田三之助。相婿に長與又郎
- 四男 多羅尾謙四郎 - 大阪海上火災保険社長・多羅尾源三郞の娘婿[29]
- 五男 小林謙五 海軍に入り、海軍中将・旅順方面特別根拠地隊司令官まで昇進。
- 娘・節 - 児玉国男(子爵・児玉源太郎四男)の妻[30]
- 娘・いさを - 伯爵・伊東靖祐(伊東祐亨長男)の妻[30]
登場する作品
脚注
参考文献
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