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少佐(しょうさ)は、軍隊の階級の一。佐官に区分され、中佐の下、大尉の上に位置する。北大西洋条約機構の階級符号ではOF-3に相当する。
主要先進国の軍隊では、大尉から少佐への昇進時に特別な専門教育を受ける。個人の能力以外に「現場での集団への指揮能力」を認められた者に与えられる役職である。そのために昇進することができず最終階級が大尉で除隊する者が多い。
自衛隊
自衛隊では、3等陸佐・3等海佐・3等空佐(略称は3佐)に当たる。陸上自衛隊においては、連隊・群・大隊の中隊長職他、司令部(陸上総隊・方面総監部・師団・旅団)の班長及び付隊長、連隊本部・群本部の科長、大隊本部の係主任等に就いているのが一般的である。大隊長職に就く場合もある(2佐に昇任予定の3佐・大隊長職にあたる2佐の充足不足等)。警察では警視に相当し、中央官庁では本省係長に相当する[40]。
3等陸佐及び3等空佐以上の正帽の目庇には飾りが付されるが、3等海佐には付されない。海上自衛隊において正帽の目庇の飾りは艦長相当職以上の証であり、原則として3等海佐は艦長には任じられない[注釈 20]ためである[41]。
注釈
1870年6月1日(明治3年5月3日)には、横須賀・長崎・横浜製鉄場総管細大事務委任を命ぜられた民部権大丞の山尾庸三に対して、思し召しにより海軍はイギリス式によって興すように指示している[8]。
少佐は中国の古典語には存在せず清末以前の文献からも見つけられないため、日本語による造語である可能性が高いと推測される。
荒木肇は、律令制の官職名が有名無実となっていたことを踏まえて、名と実を一致させる。軍人は中央政府に直属させる。などの意味合いから衛門府・兵衛府から佐官の官名を採用したのではないかと推測している[11]。
初めて任官するときにあってはすべて本官相当の2等下に叙位することになっていたため、正六位相当の少佐は2等下の正七位を叙位した[12]。
明治3年11月27日に伊東二郎を海軍少佐に任じており、そのときの沙汰では海軍少佐に任じてから伊東海軍少佐に正七位を叙位し[注釈 6]、伊東海軍少佐に龍驤艦副艦長を命ずる辞令を個別に出しており、海軍少佐の階級と正七位の位階[注釈 6]と副艦長の職とをそれぞれ区別している[13]。
少佐に任官するときに「任 何藩陸軍少佐」と記された宣旨を作成することになった[16]。
明治4年2月17日に柳楢悦を海軍少佐に任じており、このときの達でも先ず海軍少佐に任じ、海軍少佐の柳楢悦に正七位を叙位し[注釈 6]、海軍少佐の柳楢悦に春日艦艦長を命ずる辞令を個別に出した[17]。
明治4年4月18日に真木長義を海軍少佐に任じ、同じく石井忠亮を海軍少佐に任じており、このときの沙汰では両名とも海軍少佐への任官の辞令に「艦長如故」と付記されており、海軍少佐も艦長も官職名として扱われているように見える。なお、両名とも海軍少佐に任じた上で正七位を叙位されている[注釈 6] [18]。
明治4年5月25日に柴誠一(員邦)を海軍少佐に任じており、このときの沙汰でも先ず海軍少佐に任じ、海軍少佐である者に正七位を叙位している[注釈 6]。柴誠一は海軍少佐に任ぜらたときに乾行艦長代であったが「艦長代如故」のような記載はない[19]。
陸軍では服役年の始期は明治4年8月を以って始期とするため、その以前より勤仕の者であったとしても総て同月を始期とした[20]。
海軍では服役年の始期について、准士官以上は明治4年8月以前は服役年に算入しない[21]。
明治4年8月5日に兵学少教授の近藤真琴を海軍少佐兼少教授に任じ、兵学大助教の田中義廉を海軍少佐兼大助教に任じ、同じく兵学大助教の本山漸を海軍少佐兼大助教に任じた[24]。
明治4年12月調べの職員録によれば海軍少佐として10名、陸軍少佐として29名が掲載されている[25]。
これまでの順席では海軍を上、陸軍を下にしていたが、明治5年1月20日の官等表から陸軍を上、海軍を下に変更した[27]。
少佐心得はその本官の職を取る。本官とは、少佐は大隊長の職を取る[33]。
准席はすべてその官相当の職を取っていたもの。即ち少佐は大隊長[33]。
一等士官は少佐相当であってその職を取っていたもの[33]。
前項の一等士官に等しいものであってその職を取っていたもの[33]。
1873年(明治6年)5月以前に用いられた各種名義の軍人について、当時の官制に於いて規定した明文がないものの、例えば心得、准官のような名義の者であっても当時は戦時に際して上司の命令を以て実際に軍隊・官衙等に奉職しその任務を奉じたことから、明治25年5月に陸軍大臣の請議による閣議に於いてこれらを軍人と認定しており[31] [32]、これらのうち少佐に相当するものには明治3・4・5年の頃の少佐心得[注釈 13]、明治2・3・4年の頃の准少佐並び職務[注釈 14]、明治2・3・4年の頃の少佐准席[注釈 15]、明治元年以降、明治4年頃までの一等士官[注釈 16]・准一等士官[注釈 17]などがある[34] [33] [32]。
1872年2月20日(明治5年1月12日)に兵部省が定めた外国と国内の海軍武官の呼称によるとコマンドルを少佐に対応させている[35][36]。
出典
内閣官報局 編「第604号海陸軍大中少佐及尉官及陸軍曹長權曹長ヲ置ク(9月18日)(沙)(太政官)」『法令全書』 明治3年、内閣官報局、東京、1912年、357頁。NDLJP:787950/211。
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「孛仏交戦ニ関シ局外中立ヲ布告シ艦隊ヲ編制ス」JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.A15070442900、太政類典・第一編・慶応三年~明治四年・第五十六巻・外国交際・条約(国立公文書館)
「弁官往復閏 7月 官位相当表の義々付上申」JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.C09090036900、公文類纂 明治3年 巻1 本省公文 制度部 職官部(防衛省防衛研究所)
「御沙汰書 7月 小艦隊指揮従6位相当に被定旨御達」JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.C09090036700、公文類纂 明治3年 巻1 本省公文 制度部 職官部(防衛省防衛研究所)
「海軍ハ英式ニ依テ興スヘキヲ山尾民部権大丞ニ令ス」JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.A15070892000、太政類典・第一編・慶応三年~明治四年・第百十四巻・兵制・雑(国立公文書館)
「常備兵員海軍ハ英式陸軍ハ仏式ヲ斟酌シ之ヲ編制ス因テ各藩ノ兵モ陸軍ハ仏式ニ基キ漸次改正編制セシム」JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.A15070892100、太政類典・第一編・慶応三年~明治四年・第百十四巻・兵制・雑(国立公文書館)
「官員ノ初任ニ在リテ位ニ叙スル総テ本官相当ニ二等ヲ下ス」JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.A15070027000、太政類典・第一編・慶応三年~明治四年・第五巻・制度・出版・爵位(国立公文書館)
「御沙汰書 11月 中島四郎外3名任官等達」JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.C09090043800、公文類纂 明治3年 巻3 本省公文 黜陟部(防衛省防衛研究所)(第2画像目)
「各藩ノ常備兵編制法ヲ定ム」JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.A15070861600、太政類典・第一編・慶応三年~明治四年・第百八巻・兵制・徴兵(国立公文書館)(第2画像目から第3画像目まで)
「諸藩陸軍少佐宣旨書式ノ例」JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.A15070310400、太政類典・第一編・慶応三年~明治四年・第三十八巻・官規・文書一(国立公文書館)
「海軍諸達 柳楢悦小佐任官外件に太政官御達他1件」JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.C09090212100、公文類纂 明治4年 巻4 本省公文 黜陟部1(防衛省防衛研究所)(第1画像目から第2画像目まで)
「御沙汰書 真木少佐外1名少佐任叙の太政官御達」JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.C09090216100、公文類纂 明治4年 巻4 本省公文 黜陟部1(防衛省防衛研究所)
「御沙汰書 柴誠一少佐任叙の件太政官御達他3件」JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.C09090218700、公文類纂 明治4年 巻5 本省公文 黜陟部2(防衛省防衛研究所)
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「海軍武官彼我ノ称呼ヲ定ム」国立公文書館、請求番号:太00432100、件名番号:003、太政類典・第二編・明治四年~明治十年・第二百十巻・兵制九・武官職制九
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自衛艦の艦内の編制等に関する訓令」昭和47年5月10日海上自衛隊訓令第17号より