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日本の俳優・スタントマン・殺陣師・司会者 ウィキペディアから
きくち 英一(きくち えいいち、1942年8月21日[1] - )は、日本の俳優、スタントマン、殺陣師、司会者。本名および旧芸名:菊池 英一(読み同じ)[1]。アイティ企画所属。東京都世田谷区経堂出身[3]。育英工業高等学校[4]、日本大学芸術学部演劇学科卒業[5]。
父は牧師で、二人兄弟の次男[3]。高校時代に役者を志すようになり、3年生当時に日活のニューフェイスを受験するが不合格となる[4]。しかし、役者の夢を捨てきれず日本大学芸術学部演劇学科に進学する[6]と、同校の「殺陣同志会」に入会して1962年の『脱線トリオ大江戸三人男』にアルバイトで出演し、これが映像関係での初仕事となる[7]。大学4年生当時には、新橋演舞場で舞台『切腹』に出演した[7]。
1964年、日大OBが製作する東北新社『戦国群盗伝』(フジテレビ)に出演した際、新東宝などで活動していた俳優の渡辺高光と知り合う[6]。大学卒業時には、渡辺からアクションチーム「ジャパン・ファイティング・アクターズ」 (JFA) の創設に誘われ、同期の数人とともにこれに参加する[6]。1965年には『国際事件記者』に出演し、初めて役名がつく[7]。
1966年、『マグマ大使』で敵役のルゴース2号を演じ、これが被り物をつけたスーツアクターとしての初仕事となった[8]。1967年、『ウルトラセブン』第14話・第15話で上西弘次の代役スーツアクターとして、ウルトラセブンを演じる[9][10]。一方、俳優としての仕事も多数こなし、『007は二度死ぬ』『燃える戦場』などの外国映画にも参加する[11]。1970年には、東映映画『新宿の与太者』に菅原文太の舎弟役として準主演格で出演した[11]。
1971年、円谷プロからの依頼で『帰ってきたウルトラマン』でウルトラマン(後年でいうところのウルトラマンジャック)のスーツアクターを務める[12]。
1974年、渡辺との意見の相違から[13]JFAは解散してフリーとなる[14]。その直後の『電人ザボーガー』では俳優と殺陣師を兼任し、同作のためにJFAの元メンバーを集め、1年間擬斗を担当した[14]。殺陣師としては「菊池英一」名義とし、俳優としてはこの作品以降は「きくち英一」に改名している[14]。『ザボーガー』終了後、倉田保昭らが所属する事務所を経て1978年に東映俳優センター所属となり、1982年には『大戦隊ゴーグルファイブ』にイガアナ博士役でレギュラー出演したが、同作とは元々1クールでの契約だったため、第15話をもって降板している[15]。
2004年より、専門学校東京ビジュアルアーツで殺陣の講師を務める。
父は、きくちが三歳のときに亡くなったため、六歳年上の兄が父親代わりだった[3]。兄は剛柔流空手八段の腕前でもあり、特に兄弟ゲンカをした記憶もないという[3]。
日大では、芸能界入りのきっかけとなった殺陣同志会のほか、落語研究会も掛け持ちしていた[16][6]。落語の腕は、『電人ザボーガー』などでも披露している[16]。
2016年6月には知人を通じ、熊本地震に被災した熊本市立本荘小学校の児童たちに激励メッセージ色紙を贈ったうえ、2017年5月には同校を訪れてスペシウム光線のポーズを指導して全校児童50人と交流した[17]。
『帰ってきたウルトラマン』への出演を依頼された際には、『ウルトラセブン』での経験から激務になることが予想されたため、一度は辞退して代わりにJFA所属の中岡慎太郎を推薦した[12]。しかし、後日には主役が団次郎に決まったうえ、「団と中岡では体格が違いすぎる」という理由で再びきくちに依頼が来ることになる[12]。この時も乗り気ではなかったきくちは、体よく断るために「出演料を中岡に提示された額の1.5倍にする」「MAT隊員など顔出しの役でも出演する」という条件を出した[12]。ところが、前者はあっさり承諾され、後者も「隊員役はもう決まっているので無理だが、何か役を考える」と善処する旨の返事をされ、断る理由がなくなってしまったという[12]。結果的に後者は一部のエピソードにゲスト出演するのみに留まったが、これについては、ウルトラマンだけでも大変だったことから、後に「それでよかった」と語っている[12]。
『帰ってきたウルトラマン』への出演当初は「嫌々やっていた時期もあった」というが、やがて「菊池さんのウルトラマンには表情がある」と渡辺高光の夫人から言われたり[18]、1日に何通も子供たちから「東京都世田谷区帰ってきたウルトラマン様」という宛先でファンレターが届くようになり演じるのが楽しくなったという[19]。第2話の撮影では、特撮プールでの待機中に誤ってプールに電気が流れてしまい、危うく感電死しかけた[20]。
『帰ってきたウルトラマン』への出演当時、スタミナをつけるためにニンニクの醤油漬けや、レモンの砂糖漬けを毎日のように摂取していた[21]。その結果、ニンニクの摂り過ぎで胃を荒らしたこともあった[21]。また、ウェットスーツ製の衣装でアクションを演じる関係上、大量の汗をかくため、食事も毎日大量に塩を振りかけた生野菜をバリバリ食べていた[22]。「さすがにこれは身体に悪いのではないか」と思ったが、実際にはそれでも追いつかないほど立ち回りで塩分を消費していたらしく、番組終了後には医者から「塩分不足」と診断されたという[22]。
次作の『ウルトラマンA』も依頼されたが、ウルトラマンのアクションは激務であり、体力的に限界ということで辞退している[22]。円谷プロからは記念品としてウルトラマン関係の小道具をいくつか譲られており、2002年5月7日にテレビ番組『開運!なんでも鑑定団』に出演した際には、それらの品をまとめて披露し、合計211万円の評価を受けた[注釈 1]。
1980年代には、紳士服販売の「ROC(流通卸売センター)」のテレビCMでモデルを担当。
『電人ザボーガー』以降、芸名を「きくち英一」と改名したのは、よく「菊地」と間違えられたことと、「芸名にひらがなが入っていると、出演クレジットで目立つので名前を覚えてもらえるから」だと語っている[23]。また、字画にくわしい知人の薦めもあったという[14]。
『電人ザボーガー』では、当初は殺陣師として参加を依頼されたが、きくちは殺陣師ではないとのこだわりから俳優としての出演を希望し、中野刑事役を得て殺陣師と兼任することとなった[16]。クレジットには両方が記載されているが、きくちは「殺陣師はサービスで」としたため、中野刑事役としての分しかギャラを受け取っていない[16]。
『電人ザボーガー』への出演当時のアクショングループは仲間うちで、「菊池英一とその残党」と半ば冗談で呼び合っていたという[24][16]。
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