平田昭彦

日本の俳優(1927−1984❳ ウィキペディアから

平田昭彦

平田 昭彦(ひらた あきひこ[出典 1]1927年昭和2年〉12月16日[出典 2] - 1984年昭和59年〉7月25日[出典 3])は、日本俳優。本名は小野田 昭彦(おのだ あきひこ)[出典 4]

概要 ひらた あきひこ 平田 昭彦, 本名 ...
ひらた あきひこ
平田 昭彦
平田 昭彦
本名 小野田 昭彦(おのだ あきひこ)
生年月日 (1927-12-16) 1927年12月16日
没年月日 (1984-07-25) 1984年7月25日(56歳没)
出生地 日本統治下朝鮮 京城府
死没地 日本 東京都千代田区神田駿河台
身長 173 cm
血液型 O型
職業 俳優タレント
ジャンル
活動期間 1953年 - 1984年
活動内容 1953年 東宝に入社
配偶者 久我美子(1961年 - 1984年)
著名な家族
主な作品
映画
テレビドラマ
その他
ぴったし カン・カン』※レギュラー出演
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映画『ゴジラ』で平田が演じた芹沢博士

主に東宝映画、テレビドラマで活躍[9]特撮分野の名優としても知られる。吉江企画に所属していた[7]

夫人は女優久我美子[出典 5]。実兄に映画監督小野田嘉幹[2][11]、義姉(嘉幹の妻)に女優の三ツ矢歌子[2]、実妹に女優の音羽美子がいる。

来歴・人物

要約
視点

日本統治時代の朝鮮京城[注釈 1]生まれ[出典 6][注釈 2]東京都[7]中野区出身[8]東京陸軍幼年学校陸軍士官学校(60期)、旧制第一高等学校を経て、東京大学[7][2]法学部[8][1]政治学科卒[5]

陸士での同期には中條高徳がいた。また、東大での親しい同期には児島襄松下康雄らがいた[5]。東大では演劇部に所属[5]。母親が世田谷で映画関係者のよく利用する旅館を営み、兄が映画界に就職したこともあり、映画界への興味を抱き、大学在学中は新東宝で助監督のアルバイトをやっていた[2]

1950年に大学を卒業すると東京貿易[注釈 3](現三菱商事)に入社[2]。しかし、映画界への興味は捨てきれず、女優の山口淑子からの勧めもあって、俳優への転身を決意[2][5]1953年、第5期東宝ニューフェイスとして東宝に入社し[出典 7]、同年、マキノ雅弘監督『抱擁』でデビューする[出典 8]。同年、宝塚映画の『鉄腕涙あり』で映画初主演[2]

端整なマスクと知的で気品のある雰囲気で東宝の若手スターの1人となり[出典 9]、文芸作品から、アクション、時代劇戦争映画コメディまで数多くの映画に出演した[11]岡本喜八福田純本多猪四郎稲垣浩らの監督作品の常連である。戦争映画における士官役や、アクション映画の殺し屋やインテリヤクザ役などで、堂に入ったダンディぶりを発揮した。特に1959年正月映画『暗黒街の顔役』で鶴田浩二の頼れる兄貴分、翌年正月『暗黒街の対決』では一転して鶴田と三船敏郎を苦しめる悪徳弁護士(殺し屋斡旋業で隊長でもある)は見事なキャラクター使い分けで、殺し屋役では、岡本脚本、福田監督の『100発100中』で純白のスーツに身を固めた硫酸魔など、自分の体にこぼして最期をとげる間抜けさも含め、平田ダンディズムの代表的演技となっている。

さらにクレージーキャッツ主演『無責任遊侠伝』では中国の商人谷啓をいじめるギャンブルの名人でもある暗黒街の顔役で登場、犬塚弘に第二次世界大戦で敵前逃亡した元日本兵という正体を見破られた際のオタオタ演技、イメージとは大きく異なる役にチャレンジする意欲を見せ『無責任清水港』『殴り込み清水港』では一転し次郎長一家きっての頼りになる兄貴分 大政を演じる変幻自在ぶりを発揮。

1954年、東宝の特撮怪獣映画の第1作『ゴジラ』に芹沢博士役で出演、以降東宝・円谷プロ系特撮作品の常連となる[出典 10]。芹沢博士は苦悩する科学者だったが、以後は主にクールで知的な博士・科学者役を得意とした[出典 11]。テレビでも『ウルトラマン』の岩本博士、悪役としては『レインボーマン』のミスターKなどを演じている[5]

1970年代以降はテレビを活動の中心とし、ドラマだけでなくバラエティ番組にも出演した。人気クイズ番組ぴったし カン・カン』の「ぴったしチーム」レギュラー解答者としても活躍[1]。この番組では、司会の久米宏が休暇中に司会を代行する萩本欽一に替わって「カン・カンチーム」キャプテンを務めたり、ゲストとしても出演したことがある。東宝系を中心に舞台にも数多く出演し、芸術座の『人間の条件』では主演、帝国劇場では山田五十鈴演じる静御前の相手役として、1カ月間にわたり源義経を務めた。

1975年に放送された『鬼平犯科帳』のテレビドラマ第三シリーズで、主人公長谷川平蔵の理解者である若年寄・京極備前守高久を演じ、以後、1980年から放送された第四シリーズにおいても同じく京極備前守を演じた。1984年に平田が亡くなった後、鬼平の原作者池波正太郎は、自身のエッセイ「池波正太郎の銀座日記」において次のように執筆している。 「主役の平蔵が替っても、この人の備前守は私が変えさせなかった。それというのもこの人の身についた気品が、いかに当時の大名にふさわしかったからだ。この次の鬼平は誰が演るか未定だが、平田さんの京極備前守はうごかぬはずだったのである」

1983年にはゴジラ復活に向けてのキャンペーンにも芹沢博士の扮装で参加していたが[16][5]、同年9月ごろ、十二指腸潰瘍を患い手術。回復後はテレビ出演も続け、1984年12月公開の『ゴジラ』では当初、林田信を演じる予定だった[出典 12]が、同年7月15日に呼吸不全となり、駿河台日大病院に入院。その結果、林田役は夏木陽介に譲り、8月の収録で東都日報編集長役[注釈 4]で出演する意欲を示していたが、1984年7月25日午前11時15分、癌性リンパ管症で死去[2][5]56歳没[20]

エピソード

  • 平田自身は、代表作を「なし」と語っていた[21]
  • 『ゴジラ』などで共演した宝田明は東宝ニューフェイスの1期後輩(6期生)であったが、酒やタバコを嗜まなかった平田を宝田が夜遊びに誘い、平田は6期生と遊ぶことが多くなったという[22][23]
  • 同じ東宝出身の佐原健二とは、『空の大怪獣 ラドン』のロケで打ち解けて以来、平田が亡くなるまで親友関係にあった[出典 13]。佐原は、平田について気持ちが優しく人間としてとても立派であったと評しており、他人の噂話などはしなかったと証言している[27]。また、佐原によると、平田は「ボクが『ウルトラQ』で君(佐原)が演じた万城目を演じたかったんだよなぁ」と語っていたという[28][29]。佐原が悩みを相談したとき、平田は東大卒らしく理論的に話を整理して諭してくれたと述懐している[24][26]
  • ゴジラについては、怖さが魅力であったといい、後年のアイドルになったゴジラはつまらないと語っている[30]。ゴジラ以外で印象に残っている作品として『空の大怪獣 ラドン』を挙げており、『さよならジュピター』のような近未来的なSFよりも怪獣ものの方を好んでいた[30]
  • シャンソンを得意としており、佐原は本多猪四郎の家で平田が度々歌っていたことを証言している[25][26]
  • 妻の久我美子とはおしどり夫婦として知られた[5]。久我とは1960年に時代劇大作『大坂城物語』で共演したのが縁で交際が始まった[2]。撮影中は毎朝ロケ地の宿泊先前の喫茶店でデートを重ねたが、スタッフや共演者たちは誰も冷やかさず、週刊誌などにもゴシップとして漏らさなかったのは、平田の日頃からの人柄の良さゆえのことであった。同作品が1961年の正月映画として公開された同年秋に帝国ホテルで結婚式を挙げた[2]。仲人は稲垣浩[2]

出演

映画

テレビドラマ

レギュラー・準レギュラー出演

ゲスト・単発出演

吹き替え

その他の番組

脚注

参考文献

外部リンク

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