トップQs
タイムライン
チャット
視点
山本嘉次郎
1902-1974, 映画監督、俳優、脚本家、随筆家。 ウィキペディアから
Remove ads
山本 嘉次郎(やまもと かじろう、1902年(明治35年)3月15日[1] - 1974年(昭和49年)9月21日[2])は、日本の映画監督、俳優、脚本家、随筆家である。脚本を書く際や、俳優としてデビューした当初は、平戸延介、平田延介名義を使用することも多かった。
略歴
要約
視点
東京市[1]銀座采女町で生まれる。父の嘉太郎は天狗タバコの総支配人であった。
慶應義塾大学部理財科時代に偶然から映画に出演することとなり、1920年に製作された『真夏の夜の夢』で岡田嘉子と共演して俳優デビュー。慶應義塾を中退して映画界入りをする[3]。しかし、このことが原因で親から勘当され、その手切金で[要出典]1922年「無名映画協会」を設立し[1]、自ら出演した。
その後、日活に入社して[1]助監督を務めるかたわら脚本も書き、田坂具隆監督の『春と娘』(1932年、初のアフレコによる全発声映画として有名)の脚本などをてがけた。
関東大震災後には関西で結成された「早川プロダクション」で『熱火の十字球』(1924年)を監督した。これが監督デビュー作である[4]。1934年、P.C.L.に移籍し[1]、エノケン映画を数多く監督。中でも『エノケンのどんぐり頓兵衛』(1936年)『エノケンのちゃっきり金太』(1937年)は、エノケンの持ち味の音楽ギャグを生かした、数あるエノケン映画の中でも屈指の傑作と言われている。
1938年、高峰秀子主演で『綴方教室』を監督、1941年には黒澤明を助監督に『馬』を制作した。この2作品は従来扱われていなかった世界を扱った佳作として高い評価を受けた。
第二次世界大戦中の1942年、円谷英二が特技監督を務めた『ハワイ・マレー沖海戦』を東宝映画で制作する。この映画は海軍省の至上命令で制作されたが、日本の航空母艦の資料提供を一切受けられなかった。このため米国の航空母艦資料(写真等)を基に甲板セットを組んだところ、海軍同席の完成試写で宮家の激怒(米国空母と類似している為)を買い、あわや封切り差し止めとなりかけた。無事公開できたことについて山本は戦後、「誰がどうやってあの場を収め、公開にこぎつけられたか未だにわからない」と語っている。
1944年には陸軍省後援の『加藤隼戦闘隊』を東宝で制作・公開。藤田進を主演(加藤建夫戦隊長役)に、特技監督は前作と同じく円谷英二を迎えた。一式戦闘機「隼」をはじめとする実物機や陸軍落下傘部隊を多数動員するなど陸軍全面協力のもと撮影が行われ、本作は同年の興行収入のトップを記録した。
フィリピンのマニラへ「三人のマリア」という映画を撮影に赴き、そのまま戦火に巻き込まれて帰れなくなる。フィリピンの捕虜を収容した一般キャンプへ。キャンプでは慰問演劇団の大顧問に。キャンプの演劇団は大盛況だった[5]。
戦後、東宝争議により東宝を離れるが、1951年に復帰[1]。同年に高千穂ひづるのデビュー作『ホープさん』、翌々年1953年には、東宝で初のカラー映画『花の中の娘たち』を作り、健在をアピールした。
1955年女優・松山 恵子(柴田きく代)と結婚。長男・山本一雅(柴田一雅)が誕生するが2年後に離婚した。
晩年は、監督作品には恵まれなかったが、脚本を多数執筆。「カツドウヤ」を自称する小粋な生き方は多くの文化人をひきつけた。また、1960年代には東宝の俳優養成所の所長を務め後進の指導にあたった。時には自ら指導を行なう真摯な態度は研修生たちに慕われ、尊敬の念をもって「ヤマカジ先生」と呼ばれた。
Remove ads
人物
非常に好奇心が強く、博学で、グルメでもあったため、姓名をもじって「ナンデモカジロウ」とあだ名された。著書も多い。また徳川夢声司会のラジオ番組『話の泉』にも、サトウ・ハチロー、堀内敬三らと出演。その博学ぶりを披露した。
本多猪四郎、谷口千吉、黒澤明、高峰秀子などを育て、三船敏郎を映画界に送り出したことでも知られ[7][1]、また榎本健一ともっとも息の合った監督でもあった。本多は山本から映画監督としてのものの見方などに影響を受けたといい[8]、東宝の俳優であった記平佳枝は山本のモダンで紳士的な部分は本多が最も受け継いでいたと述べている[9]。
PCLで助監督募集の審査部長を務めていた時、最後の3人まで絞られた中の黒澤明を上層部の反対を押し切って採用に結びつけた。黒澤は当日ボロボロの格好をして面接態度も芳しくなかったが、黒澤の絵画の話だけには強い情熱心を感じた山本は会社に黒澤を強く推したという。戦後、三船敏郎の採用面接の際には、東宝撮影部の山田一夫の強い依頼もあったが、「ああいう風変わりな人間が一人くらいいてもいいだろう」と、彼の粗暴な態度に辟易していた他の面接官の猛反対を押し切って採用させ、更に後々渋谷で靴磨きをしていた黒部進に身元保証人になるからニューフェイス試験を受けるよう促すなど好奇心旺盛な人柄ゆえに先見の明があった。
助監督を採用する条件は、「酒が綺麗に呑めることと、トリッペルに罹ったことがあること」と冗談めかして公言していた。助監督たちには、「先生」や「監督」呼ばわりさせず、「ヤマさん」と呼ばせた[10] [8]。
葬儀は撮影所で友人葬が執り行われ、かつて山本が見出した俳優、三船敏郎が世話役の一人として、かいがいしくその任にあたったという。
Remove ads
監督作品
要約
視点
Remove ads
その他の作品
- 『受難者の群』(1923年6月14日公開、細山喜代松監督)脚色
- 『毒塵』(1923年10月12日公開、細山喜代松監督)脚本
- 『海国男児』(1926年10月14日公開、溝口健二監督)原作、脚色
- 『大陸の彼方』(1926年12月10日公開、若山治監督)脚本
- 『鉄腕記者』(1927年1月3日公開、田坂具隆監督)脚本
- 『正義の勇者』(1927年1月14日公開、田坂具隆監督)原作
- 『競走三日間』(1927年2月9日公開、内田吐夢監督)原作、脚本
- 『A38号室』(1927年4月17日公開、木藤茂監督)原作、脚色
- 『東洋武侠団』(1927年7月15日公開、内田吐夢監督)脚本
- 『しゃぼん娘』(1927年10月21日公開、田坂具隆監督)原作、脚本
- 『砲煙弾雨』(1927年12月31日公開、内田吐夢監督)原作、脚本
- 『二階の大将』(1927年公開、伊奈精一監督)原作、脚本
- 『幸運』(1928年2月23日公開、木藤茂監督)原作
- 『無鉄砲時代』(1928年3月15日公開、田坂具隆監督)原作
- 『愛の町』(1928年8月31日公開、田坂具隆監督)脚色、翻案
- 『思ひ出の水夫』(1928年10月5日公開、田坂具隆監督)脚本
- 『光』(1928年10月19日公開、内田吐夢監督)脚本
- 『砂漠に陽が落ちて』(1928年11月16日公開、木藤茂監督)原作、脚色
- 『響宴 第一篇』(1929年3月15日公開、田坂具隆監督)脚本
- 『日活行進曲 工場記活劇篇』(1929年7月7日公開、田坂具隆監督)原作、脚本
- 『愛の風景』(1929年9月7日公開、田坂具隆監督)脚本
- 『浮名ざんげ』(1929年10月11日公開、三枝源次郎監督)脚色
- 『雲の王座』(1929年10月25日公開、田坂具隆監督)原作、脚色
- 『刀を抜いて』(1929年10月25日公開、高橋寿康監督)脚本
- 『木馬の悲劇』(1930年1月7日公開、木藤茂監督)脚本
- 『雪の救援列車』(1930年3月21日公開、木藤茂監督)脚本
- 『撃滅』(1930年4月15日公開、小笠原明峰監督)脚色
- 『佐渡おけさ』(1930年5月1日公開、木藤茂監督)原作、脚本
- 『太洋の心』(1930年8月29日公開、徳永フランク監督)脚本
- 『海の祭』(1930年9月5日公開、伊奈精一監督)原作、脚色
- 『恋のストップまゝならぬ』(1930年11月31日公開、徳永フランク監督)脚本
- 『吹けよ春風』(1931年1月8日公開、田坂具隆監督)脚色、潤色
- 『花婿百万両』(1931年1月30日公開、徳永フランク監督)脚本
- 『かんかん虫は唄ふ』(1931年5月8日公開、田坂具隆監督)脚色
- 『密偵』(1931年7月1日公開、伊奈精一監督)脚本
- 『金は天下の廻り持ち』(1931年7月31日公開、徳永フランク監督)脚本
- 『五人の愉快な相棒』(1931年8月14日公開、田坂具隆監督)脚色
- 『鳩笛を吹く女』(1932年3月3日公開、田坂具隆監督)脚本
- 『おいらの世界』(1932年3月25日公開、徳永フランク監督)脚本
- 『春と娘』(1932年6月17日公開、田坂具隆監督)原作、脚色
- 『海燕』(1932年7月1日公開、長倉祐孝監督)脚色
- 『恋人満開』(1932年7月29日公開、田口哲監督)原作、脚本
- 『エノケンの江戸っ子三太』(1936年12月31日公開、岡田敬監督)原作、脚色
- 『江戸っ子健ちゃん』(1937年5月1日公開、岡田敬監督)脚本
- 『エノケンの猿飛佐助 ありゃありゃの巻』(1937年12月31日公開、岡田敬監督)脚本
- 『エノケンの猿飛佐助 どろんどろんの巻』(1938年1月7日公開、岡田敬監督)脚本
- 『でかんしょ侍』(1938年1月14日公開、大谷俊夫監督)脚本
- 『ロッパのガラマサどん』(1938年3月16日公開、岡田敬監督)脚色
- 『エノケンの風来坊』(1938年3月24日公開、大谷俊夫監督)原作
- 『ロッパのおとうちゃん』(1938年11月9日公開、斎藤寅次郎監督)脚本
- 『幡随院長兵衛』(1940年5月29日公開、千葉泰樹監督)脚色
- 『エノケンのワンワン大将』(1940年6月23日公開、中川信夫監督)脚本
- 『明朗五人男』(1940年11月30日公開、斎藤寅次郎監督)構成
- 『親馬鹿大将』(1948年5月2日公開、春原政久監督)脚本
- 『エノケンのびっくりしゃっくり時代』(1948年7月5日公開、島耕二監督)脚本
- 『歌ふエノケン捕物帖』(1948年12月31日公開、渡辺邦男監督)脚本
- 『銀座カンカン娘』(1949年8月16日公開、島耕二監督)脚本
- 『エノケンのとび助冒険旅行』(1949年9月20日公開、中川信夫監督)脚本
- 『脱線情熱娘』(1949年12月8日公開、大庭秀雄監督)脚本
- 『歌うまぼろし御殿』(1949年12月27日公開、小田基義監督)原作、脚本
- 『肉体の白書』(1950年7月4日公開、志村敏夫監督)脚本
- 『指名犯人』(1950年9月2日公開、久松静児監督)脚本
- 『夜の未亡人』(1951年7月27日公開、島耕二監督)脚本
- 『三太物語』(1951年9月21日公開、丸山誠治監督)脚本
- 『三等重役』(1952年5月29日公開、春原政久監督)脚本
- 『三太と千代の山』(1952年9月18日公開、小田基義監督)脚本
- 『浮気天国』(1953年11月17日公開、滝沢英輔監督)脚本
- 『初笑い底抜け旅日記』(1955年1月3日公開、青柳信雄監督)脚本
- 『ちゃっきり金太』(1958年6月2日公開、青柳信雄監督)原作、脚本
- 『続ちゃっきり金太』(1958年7月8日公開、青柳信雄監督)原作、脚本
- 『八百屋お七 江戸祭り一番娘』(1960年8月9日公開、岩城英二監督)脚本
- 『六本木の夜 愛して愛して』(1963年1月29日公開、岩内克巳監督)製作
- 『私のベレット』(1964年公開、大島渚監督)企画監修委員
- 『坊ちゃん社員 青春は俺のものだ!』(1967年4月1日公開、松森健監督)脚本、潤色
- 『坊ちゃん社員 青春でつっ走れ!』(1967年5月20日公開、松森健監督)脚本、潤色
- 『コント55号 人類の大弱点』(1969年8月13日公開、福田純監督)脚本 ※平戸延介名義
Remove ads
出演作品
- 『未来の大名優』(1922年、平田延介名義)
- 『愛の導き』(1923年、平戸延介名義)
- 『山語らず』(1924年、平戸延介名義)
- 『輝ける扉』(1925年)
- 『男児快諾』(1926年)
- 『名士』(1926年)
- 『港の謙吉』(1926年)
- 『楠公の唄』(1926年)
- 『国境の血涙』(1926年)
- 『二人の女性』(1927年)
- 『陽炎の舞』(1927年)
- 『金の卵 Golden Girl』(1952年)
- 『恐妻党総裁に栄光あれ』(1960年)
- 『遠くへ行きたい』(1971年4月11日、日本テレビ)- 「伊丹十三の親子丼珍道中」に本人役で出演
著書
- 『馬』大元社、1940年
- 『カツドウヤ紳士録』大日本雄弁会講談社、1951年
- 『カツドオヤ人類学』養徳社、1951年
- 『カツドオヤという名の人類』東成社、1953年
- 『カツドウヤ水路』筑摩書房、1965年
- 『東京横浜300円味の店』有紀書房、1965年
- 『新・東京横浜300円味の店』有紀書房、1966年
- 『洋食考』すまいの研究社、1970年
- 『東京周辺500円味の店』有紀書房、1970年
- 『春や春カツドウヤ』日芸出版、1971年
- 『のれん』はとバス興業 1971年
- 『カツドウヤ自他伝』昭文社出版部、1972年。復刻・大空社「伝記叢書」、1998年
- 『日本三大洋食考』昭文社出版部、1973年
- 回想
- 『カツドウヤ女房奮闘記 故・山本嘉次郎』朝日ソノラマ、1983年。夫人(再婚した)による回想
脚注
参考文献
関連項目
外部リンク
Wikiwand - on
Seamless Wikipedia browsing. On steroids.
Remove ads