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日本の俳優、歌手 (1903-1975) ウィキペディアから
杉 狂児(すぎ きょうじ、1903年7月8日 - 1975年9月1日)は、日本の俳優、歌手。本名は杉 禎輔。旧芸名に杉 京二。
戦前から戦後にかけての映画界で活躍したコメディアンで、戦前はマキノ・プロダクション、河合映画、日活などに出演し、歌手として「うちの女房にゃ髭がある」など映画の主題歌も歌っている。戦後は脇役として東映時代劇等に出演した。宝映テレビプロダクションの創立者でもある。妻は女優の金谷種子、長男の杉義一・次男の杉裕之・四男の杉幸彦は俳優である。
1903年(明治36年)7月8日、福岡県福岡市地行東町に、農林省職員の父・天野藤三郎と母・さつきの3男2女の次男として生まれる[2]。中学を中退後に上京し、新聞配達や給仕をしながら東京音楽学校神田一ツ橋分教場声楽科に学ぶが、同校を中退して松旭斎天勝一座に加わり、有楽座で初舞台を踏む[2]。
1923年(大正12年)、マキノ映画製作所等持院撮影所に入社し、環歌子の付き人となる[2]。翌1924年(大正13年)、マキノが東亜キネマに吸収合併されたため、東亜甲陽撮影所に入り、杉京二の芸名で『血は踊る』に映画デビュー。同年公開の『踊れ若者』で初主演する。1926年(大正15年)、東亜から独立したマキノ・プロダクション御室撮影所に月給30円で入り、杉狂児と改名[2]。同社出演第1作の『或る日の仇討』以降、大男の中根龍太郎とチビの杉のコンビで『糸の切れた風船玉』などに出演し、コメディアンとして注目される。その後井上金太郎監督『おりゃんこ半次』や小石栄一監督『光線を捕へた男』などに主演する。
1928年(昭和3年)2月1日、鈴木澄子とともにマキノを離れて河合映画に入社[3]。その後帝国キネマに入り、高津慶子共演の『躍る幻影』、森静子共演の『嘆きの都』といったメロドラマにも出演。1931年(昭和6年)9月からは新興キネマに所属した[4]が、1932年(昭和7年)には日活太秦撮影所現代劇部に入社。やがて新設の多摩川撮影所に移り、同撮影所第1作の『夫を想へば』に主演。その後は星玲子とのコンビで『わたしがお嫁に行ったなら』『うら街の交響楽』などに主演。1935年(昭和10年)には『のぞかれた花嫁』で題名の主題歌を歌い、人気スターとなった[4]。さらに同名の映画の主題歌「うちの女房にゃ髭がある」と、『ジャズ忠臣蔵』の主題歌「道行シャンソン」を美ち奴と共にテイチクで吹き込み、大ヒットした。1938年(昭和13年)以降は千葉泰樹監督や、監督に転向した島耕二作品で主演に起用された。1942年(昭和17年)の戦時統合で日活が大映に統合されてからは、大映に所属し、千葉監督の『青空交響楽』に主演する。同作の主題歌である『青い牧場』を朝雲照代とのデュエットで吹き込むが、検閲で発売禁止となった(後に藤山一郎・奈良光枝のデュオで再発売)。戦時中の1943年(昭和18年)10月に杉狂児一座を結成し[5][6]、邦楽座で旗揚げ以降、終戦まで軍隊や工場慰問に巡業した[4]。
戦後の1946年(昭和21年)、マキノ正博監督の『粋な風来坊』で映画界に復帰し、1947年(昭和22年)7月に東横映画に入社[4]。1952年(昭和27年)4月からは東横が合併してできた東映の所属となり、とぼけた家老役など、全盛期の東映時代劇にコメディリリーフとして出演した。一方、宝映テレビプロダクションを設立して社長となり、後進の指導と劇団フジの育成に務めた[7]。また、晩年は懐メロブームに乗って、懐メロ番組で変わらぬ歌声を披露していた。
稲垣浩は杉狂児について、「日本の映画史に残る喜劇役者だと、私は思う。いや、思うではなく是非とも日本映画史に残さねばならぬ喜劇役者である」とし、「伴淳や森繁も個人の力はあるとしても、杉狂児の作ったレールを忘れてはならない。日活時代の小唄映画の数々は、今も人々の心のなかに残っている」と喜劇人としての杉を高く評価している[8]。
稲垣が阪妻プロを去ったとき、杉はマキノ映画から河合映画に転じたときであり、元役者だった稲垣は「杉狂児の穴埋めならできそうだ」と考え、マキノに売り込みに行ったのだが、その途上で友人に会い、誘われて衣笠映画聯盟の助監督となったのだという。この意味で杉は稲垣にとって思い出深い人となった。日活で共に働くようになった杉は、いつも「酒席で酔いしれてワケのわからぬ冗談や、手品や、歌を歌っていた」という[8]。
1941年(昭和16年)、『江戸最後の日』を準備中に、杉は珍しく稲垣の所へやってきて、「私の師匠の環歌子さんを使ってもらえまいか」と言った。環は大先輩の女優ということで、稲垣は阪妻の勝海舟の夫人役ならうってつけだとこれを承知した。このとき、杉は日活のスターということを忘れ、環の付き人として終始付き添っていた。これが縁で、杉は阪妻の『無法松の一生』(1943年)に、初めての禿頭で出演してくれたが、このときも「小宮一晃をお願いします」と口添えしたといい、このように杉は人のために力となった苦労人だった[8]。
杉が酔って遊んでいるときも、喜劇で笑わせてくれるときも好きだったという稲垣だが、「人の世話をする杉君はとてもよかった」と語っている。杉が劇団フジの社長となってからは個人的に付き合うようになった。杉が突然亡くなった時、劇団フジから社長代役の話が来たが、稲垣は社長の柄ではないと会長の役を引き受けた。マキノでの杉の代役を思いついたのがこの五十年前のことで、稲垣は「五十年後に彼の代役を引き受けるとは、まったく不思議な因縁である」と杉を偲んでいる[8]。
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