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日本の劇作家・作詞家(1908−1973) ウィキペディアから
菊田 一夫(きくた かずお、1908年3月1日[1] - 1973年4月4日)は、日本の劇作家・作詞家。本名:菊田 数男。元妻は女優の高杉妙子。娘の菊田伊寧子は作曲家。
神奈川県横浜市生まれ[1]。生まれてすぐ養子に出され、生後4ヵ月で両親(西郷姓)に連れられて台湾に渡ったが、まもなく捨てられ、転々と他人の手で養育された末、5歳のとき菊田家の養子になった[1]。台湾城北小学校に入学したが、学業半ばで大阪の薬種問屋に売られ、年季奉公をつとめた[1]。その後神戸の元町の骨董店で丁稚奉公を務めながら、夜間の商科実業学校(現・神戸市立神港高等学校)で学ぶ[1]。この時期に文学に興味を抱き、1923年結成の「元五青年団」の機関誌『桜草』の編集人を務めた[1]。
1926年(大正15年)に上京して印刷工となる傍ら、萩原朔太郎やサトウハチロー、林芙美子、小野十三郎らと出会い、サトウの世話で浅草国際劇場の文芸部に入る[1]。そののち、1933年(昭和8年)に古川ロッパらにより、浅草常盤座で旗揚げされた劇団「笑の王国」に座付き作家として迎え入れられ[1]、劇作の道に入った。1935年(昭和10年)ロッパが退団して東宝に所属すると、翌1936年に菊田も東宝に移籍して東宝文芸部の嘱託となる[1]。この間、「ロッパ若し戦はば」「ロッパと兵隊」「道修町」「花咲く港」などの名作を書き人気を集めるが、舞台への厳しい姿勢と激しやすい性格からロッパと衝突し、1943年(昭和18年)にロッパ一座を去る。戦時中は岩手県江刺市(現・奥州市)に一時疎開した[1]。
戦後間もなく、作曲家の古関裕而とコンビを組み、数々のラジオドラマ、テレビドラマ、映画、演劇、ミュージカルを手がけ、多くのヒット作品を世に送り出した。特にミュージカルにおいては、戦後の日本ミュージカルの草分けといわれている。2人の代表作は、ラジオドラマ・映画では「鐘の鳴る丘」、「君の名は」シリーズ、「あの橋の畔で」シリーズなど。舞台では「敦煌」、「暖簾」、「がしんたれ」、「放浪記」、「風と共に去りぬ」など。楽曲では「イヨマンテの夜」、「雨のオランダ坂」、「フランチェスカの鐘」など、多岐にわたる。特にラジオドラマ『君の名は』は大ブームを巻き起こし、映画化もされた[1]。
1955年(昭和30年)東宝社長小林一三に迎えられ、東宝取締役(演劇担当役員)に就任する[1]。1957年には芸術座を開館。東宝演劇部の総帥としての仕事のかたわら、映画や帝劇・宝塚歌劇などの舞台の原作・脚本・演出をはじめ、小説の執筆にも精力的な活躍を続け、数々の名作を世に送り出した[1]。ミュージカル「マイ・フェア・レディ」の上演権を獲得し、日本で初めてブロードウェイ・ミュージカルを舞台に乗せた[1]。以後、日本のミュージカルの世界は大きく羽ばたくことになる。また、「がめつい奴」「がしんたれ」「暖簾」「花のれん」「丼池」「道頓堀」など、大阪を舞台にした作品により「大阪ものは菊田一夫」と賞賛された[要出典]。
1960年『がめつい奴』の脚本・演出により第8回菊池寛賞受賞[1]、第11回芸術選奨文部大臣賞(文学・評論部門)受賞[1]。同年、東宝のプロデューサー池野満の企画により[2]、劇作家の生活向上を目的として、川口松太郎、中野実、北條秀司、菊田一夫で「劇作家四人の会」を結成[3]。菊田は民社党の支持者でもあり、1962年(昭和37年)4月23日に開かれた「学者・文化人による民社党をはげます会」に尾崎士郎・徳川夢声・平林たい子らと共に出席、「民社党におくる」・「忘れるな大衆の願いを」と題した二篇の詩を送った[4][5]。1966年『風と共に去りぬ』を世界で初めて舞台化[1]。
1973年(昭和48年)4月、数年患っていた糖尿病に脳卒中を併発し[1]、慶應義塾大学病院で死去した。享年66。墓所は世田谷区浄真寺。戒名は久遠院法晶日夫居士[6]。ライバルでもあった劇作家の北条秀司は、「菊田ほど仕事の好きな男を私は知らない。その仕事好きが彼を大成させ、そして彼を殺した」と記している[要出典]。
1975年(昭和50年)、菊田の功績を記念し、演劇界の発展を願って、東宝により菊田一夫演劇賞が創設された[1]。大衆演劇の舞台ですぐれた業績を示した芸術家に対し、毎年4月に菊田一夫演劇賞が贈られている。
本町靑年会の機関紙が潰れた菊田は黒薔薇という同人誌の神戸支部長を務めていた、同じ神戸にいる1歳上の造船会社社長令嬢が奈良美也子を由来とする古川美也子名義で手紙を送ってきた、丁稚小僧であることを恥じた菊田は主人名義でやり取りをしていたが、古川の同級生が奉公をしていた本町にある呉服屋の娘だったことから正体がバレて謝罪することになった、この古川こそが菊田と宝塚を引き合わせた人物である、なお上京時に待っていると言われ結婚しないで待っているということかと思ったらさっさと結婚してしまったと、初めて仲良くなったこの異性について菊田は回想している[7]。
今もなお、格言として語り継がれる菊田の名文句は、1961年(昭和36年)4月~6月にかけて読売新聞に掲載された随筆に拠っている。
芸能界ほど浮沈の激しいところはない。そしてまた浮沈ともどもに、それなりの理由が、芸能界ほどはっきりしたところはない。〝浮〟を見るのはひとごとながら楽しいが〝沈〟は胸がしめつけられる。あすはわが身の上であるかもしれない。と感じるからでもあろうか。しかも浮き沈み、それぞれの理由と原因はいろんな形で身のまわりにうろうろとうろついている。努力をしながら、その足を力みすぎて踏みすべらせてころぶ人があり、反省過剰で考えこみすぎて暗夜のアナぼこに落ちる人もある。努力してうまい芝居をやりながら、落ち目になることもあるのが芸能の道なのである。が、なによりも珍しいコトワザは「役者殺すにゃ刃物はいらぬ。ものの三度もほめりゃよい」。
私は興行師として、私の担当のもとにいる役者が世間から無条件にチヤホヤされることが一番恐ろしい。うまい役者に出演料を居直られることはなんでもない。ギャラをあげてやればそれでいいのだ。それでなくても浪費好きの私である。恐ろしいのは無条件にほめられ、チエをつけられて頭でっかちとなった人間が、頭の重みに耐えかねて、足を踏みすべらせることである。寄ってたかってほめて落とすのは他人だが、立ち上がるのは自分一人である。 — 菊田一夫「演劇余話 芝居づくり」[8]
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