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小説家 (1898-1964) ウィキペディアから
尾崎 士郎(おざき しろう、1898年(明治31年)2月5日 - 1964年(昭和39年)2月19日)は、日本の小説家。新聞連載小説『人生劇場』がヒットし、流行作家になった[1]。
愛知県幡豆郡横須賀村宮前(現・西尾市吉良町上横須賀宮前)に生まれる[2]。尾崎が生まれた年に父の嘉三郎は自宅で三等郵便局を開業した[3]。1904年(明治37年)8月、神奈川県横浜市野毛町(現・中区野毛町)で耳鼻咽喉科医院を営む田島藤一郎(母の兄)の養子となる。1905年(明治38年)、心臓疾患とホームシックを理由に離籍、生家に戻った[2]。
1910年(明治43年)、横須賀尋常高等小学校(現・西尾市立横須賀小学校)卒業[4]。同年、愛知県立第二中学校(現・愛知県立岡崎高等学校)に進学した[5][注 1]。額田郡岡崎町(現・岡崎市)内にある親戚の糟谷家に寄宿した[2]。尾崎が入ったCクラスの主任は英文学者の繁野天来だった[7]。
1911年(明治44年)、数学と体操の点数不足で留年し、大須賀健治、美甘義夫[注 2]、杉山新樹らと同級生になった[2][9]。なかでも大須賀と最も親しくなった。大須賀の叔母の里子は上京後、社会主義運動に触れ[10]、1908年(明治41年)に山川均と結婚し、赤旗事件で夫ともに検挙され、運動家として知られていた。1911年(明治44年)1月に大逆事件(幸徳事件)で有罪判決を受けた幸徳秋水らの死刑が執行されると、山川均はそれからのちしばらく、大須賀の藤川村(現・岡崎市藤川町)の実家で病気療養した。山川が大須賀の家に残していったものの中に、『共産党宣言』、ピョートル・クロポトキンの『パンの略取』(翻訳:幸徳秋水)、「平民新聞」の綴込み、堺利彦が創刊した月刊誌「へちまの花」[11]の合本などがあった。尾崎は大須賀の家でこれらの書物や雑誌をむさぶるように読み、思想的影響を大きく受けた[12][13][14]。
1915年(大正4年)4月、『学友会雑誌』に「徳川家康公論」を寄稿し、徳川家康を批判した[2]。6月、雑誌『世界之日本』の懸賞論文に「いかにして選挙権を拡張すべき乎」を寄稿。これが評者の早稲田大学教授の永井柳太郎の目にとまり、第三席に入選。永井の薦めにより早稲田大学進学を志すようになった[15]。中学校には6年間在籍し[15]、1916年(大正5年)に卒業した。
1916年(大正5年)年4月、早稲田大学高等予科政治科に入学。在学中に社会主義運動にかかわる[1]。1917年(大正6年)9月、早稲田大学本科政治経済科に入学。この頃から学校に嫌気がさし、石橋湛山の好意で東洋経済新報社に勤める[2]。
1918年(大正7年)6月、父親から郵便局長を継いだ長兄の重郎が公金横領の末、ピストル自殺した。これにより破産し、一家は自宅を手放して東京に移った[2][15]。8月頃、東洋経済新報社を退社し、大逆事件真相解明の目的で売文社に入社。同社を本拠に活動していた高畠素之を追って国家社会主義に身を投じる。
1921年(大正10年)に時事新報の懸賞小説で、大逆事件を取材した『獄中より』が第二席で入選し、以後本格的に小説家として身を立てるようになる。
1923年(大正12年)5月、宇野千代と結婚した。1930年(昭和5年)8月、別居していた宇野と正式に離婚し、2年前に知り合った古賀清子と結婚した[16]。
1933年(昭和8年)、都新聞の文芸部長の上泉秀信から連載小説の依頼を受ける。同年3月18日から『人生劇場』の連載開始。4月、長女の一枝が誕生[16]。8月、愛知県立第二中学校の同窓会に招かれ、講演をした。
1935年(昭和10年)3月25日、『人生劇場』の青春篇が竹村書房より刊行。大ベストセラーとなり、翌1936年(昭和11年)には内田吐夢監督によって映画化もされた。文芸懇話会賞を受賞。以後20年以上執筆し続ける大長編となった。戦前は、雑誌『文芸日本』、戦後に『風報』を主宰した。
1943年(昭和18年)4月、日本文学報国会の常務理事に就任[18]。軍国主義鼓吹の小説や著作を多く書いた。
1948年(昭和23年)3月30日に公職追放となる。政治的発言と行動の禁止、執筆制限などを受けた[18]。以後は文壇から距離を置き、実業家などとのつきあいが多かった。川端康成とは関東大震災の翌年1923年(大正12年)に出会って以来からの変わらぬ親友であった[19][20][21]。
また『石田三成』『真田幸村』『篝火』などの歴史小説も書いたほか、相撲にも詳しく、長編小説『雷電』など相撲関係の著作もあり、横綱審議委員を務めた。酒豪でもあった。
1963年(昭和38年)3月、東映映画『人生劇場 飛車角』が公開[22]。登場人物の一人である飛車角を主人公に据えた本作は大ヒットし、ヤクザ映画ジャンルの嚆矢となった[23]。
1964年(昭和39年)2月19日、東京都大田区山王の自宅で、直腸癌により死去。66歳没。その直前に闘病記を遺した。戒名は文光院殿士山豪雄大居士(今東光の撰)[24]。文化功労者が追贈された。弔辞は川端康成が読み哀悼の意を表した[25]。
生地である幡豆郡横須賀村は、江戸時代から街道沿いに商家が連なる小さな村で、士郎の生家「辰巳屋」も煙草の製造や木綿の卸などで財を成した商家だった[3]。父の嘉三郎は明治20年に上横須賀郵便局長となり[26]、士郎が生まれた明治31年に自宅で三等郵便局を開業し、没後は長兄の重郎が郵便局長を引き継いでいたが、父の代からの公金横領を苦にして重郎がピストル自殺をし、尾﨑家は借財返済のために1918年に家屋敷を手放して村を離れた[3]。士郎が大学在学中に起こったこの一件は、短編『三等郵便局』(1926年)のほか、代表作の『人生劇場 青春篇』をはじめ多数の作品に取り上げられ、士郎の作家人生に大きな影響を与えた[3]。次兄の昇は毎日新聞社出版局次長などを務めた出版人[27]。
尾崎が『獄中より』で第二席を取った時事新報の懸賞小説で、第一席だったのが宇野千代の『脂粉の顔』である。受賞の翌年、中央公論社で偶然会った2人は、宇野のひと目惚れによってその日から同棲を始めた。宇野は後年のインタビューで、「尾崎は人に非常に好かれる人で、尾崎自身もまた好かれたがる人だった。それが彼の人生を駄目にした」と語っている[28]。
川端康成を通じて伊豆湯ヶ島温泉で知り合った梶井基次郎とは、馬込文士村において、妻の宇野千代を巡って関係が険悪となり[19][20][29]、その後尾崎と千代は離婚となった[19][20][29]。夫婦の仲はすでにぎくしゃくしていたが、宇野に好意を寄せる梶井とそれを憎からず思う宇野との親しい関係に対してわだかまりを感じていた尾崎は、友人宅で開かれたパーティで偶然居合わせた梶井の態度が気に入らず、梶井の顔に火のついた煙草を叩きつけるという事件を起こしてしまったのである[30][31][32]。
宇野と別れたのち、カフェー・ライオンの17歳の女給古賀清子と知り合って1930年に結婚し、一枝という娘をもうけた[32][33]。尾崎一雄にも同年配の一枝という娘がおり、いずれも早稲田大学へ入ったためよく混同された。のち士郎の娘は中村汀女の息子と結婚、一雄の娘も結婚して古川と姓が変り、共著を出している[34]。相撲好きな尾崎らしく長男には「土俵の士」を意味する「俵士(ひょうじ)」と名付けた[33][35]。
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