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日本の作曲家 ウィキペディアから
古賀 政男(こが まさお、1904年(明治37年)11月18日 - 1978年(昭和53年)7月25日)は、昭和期の代表的作曲家であり、ギタリスト。国民栄誉賞受賞者。栄典は従四位、勲三等瑞宝章、紫綬褒章。明治大学商学部(旧制)卒業。本名は古賀正夫(読み同じ)。
少年時代に弦楽器に目覚め、青年期はマンドリン・ギターのクラシック音楽を研鑽しつつ、大正琴を愛した。その後は、プレクトラム音楽家の「古賀正男」から流行歌王の「古賀政男」になり、昭和期を代表する国民的作曲家としての地位を確立し、数多くの流行歌をヒットさせた。生涯で制作した楽曲は5,000曲ともいわれ、「古賀メロディー」として親しまれている。
1904年(明治37年)、福岡県三潴郡田口村(現・大川市)に8人きょうだいの6番目として誕生。近くには水の都柳川があり、その風景は後年の『誰か故郷を想わざる』のモチーフになった。5歳のときに父が他界し、母と姉、弟とともに7歳で故郷を離れ、働いている長兄がいる朝鮮に渡り感情起伏の激しい少年時代を過ごした。故郷喪失の悲しみは『人生の並木路』のモチーフとなった。朝鮮では最初は仁川に、その後は京城で暮らした。従兄弟から大正琴をもらったのもこの頃である。古賀政男が初めてマンドリンを手にしたのは中学3年(京城善隣商業学校)のときで、一番仲の良かったすぐ上(4番目)の兄からマンドリンを贈られた[1][2]。この時期から音楽家への道を志すようになる。
善隣商業学校を出て大阪の商店に勤めたのち、1923年(大正12年)に明治大学予科に入学し、明治大学マンドリン倶楽部の創設に参画した[3]。当時の明大マンドリン倶楽部では、ボッタキアーリ、ラウダス、バッチなどのマンドリンの大曲が演奏されていたが、古賀自身も難曲「幻想的狂想曲」(ロマーノ)を独奏するなどの活動が見られている。1928年(昭和3年)夏には旅先の青根温泉付近の山中で剃刀自殺を図るが、同行していた友人の発見により未遂に終わる[4]。そのときに見た蔵王の夕暮れから名曲『影を慕いて』の詩が浮かんだといわれている。1980年に同地に『影を慕いて』の歌碑が建立された[5](関連:青根洋館)。1928年の秋の定期演奏会は同年春に開館したばかりの明治大学記念館講堂で開催されたが[6]、このとき佐藤千夜子の知遇を得た。また、この頃「音楽は和也(なり)」の理念が生まれた。
1929年(昭和4年)春の大学卒業後は指導者となり音楽活動を続けた[4]。6月、明大マンドリン倶楽部の定期演奏会で『影を慕いて』(ワルツ・ギター合奏)を発表。その年の暮れには、佐藤千夜子の歌唱とマンドリンオーケストラを率いて、『文のかおり』など自作品をビクターで吹き込んだ。1930年(昭和5年)秋にはビクターで、『影を慕いて』と『日本橋から』を佐藤千夜子の歌唱によって吹き込む。このときは、まだマンドリン・ギター演奏家「古賀正男」だった。また、この歌は宮城県川崎町の風景をモチーフにしたといわれている。当時、死の淵に追われた古賀が川崎町の森林を歩いているうちに我に返りこの歌を書いたという。1931年(昭和6年)1月、新譜でレコードは発売されたが、売れ行きは芳しくなかった。尚、『影を慕いて』の創作過程については、菊池清麿の『評伝古賀政男 青春よ永遠に』に詳細に記されている。
1931年、日本コロムビア専属となった。当初は作曲に自信がなく文芸部の社員を希望していたが、結局、作曲家として契約した。このとき、東京音楽学校在籍中の藤山一郎と出会ったことが古賀政男の人生を大きく変えることになった。藤山一郎の歌唱表現が古賀政男の才能を開花させたのである。『酒は涙か溜息か』『丘を越えて』『影を慕いて』の3曲がSPレコードで発売され、以降多くのヒット曲を世に出した(なお、藤山は東京音楽学校卒業後、ビクター専属となる)。
1933年(昭和8年)には、松平晃が歌唱した『サーカスの唄』がヒットしたが、直後に離婚騒動などもあって体を壊し、1933年の晩秋から翌年にかけて伊東で静養した。翌1934年、コロムビアからテイチクに移籍。ビクターから迎えた藤山一郎、ディック・ミネ、楠木繁夫、美ち奴などを擁し、『緑の地平線』『二人は若い』『東京ラプソディ』『あゝそれなのに』『青い背広で』『人生の並木路』などのヒット曲を発表した。
1938年(昭和13年)秋、外務省の音楽文化親善使節として渡米し、ハワイ、アルゼンチンを訪問。渡米直前にコロムビアに復帰した。1939年(昭和14年)秋、アメリカNBC放送で古賀の作品が取り上げられ、全世界に向けて15分間にわたって放送された。帰国後は『誰か故郷を想わざる』『目ン無い千鳥』『新妻鏡』『なつかしの歌声』などがヒット曲となった。
太平洋戦争後の1948年(昭和23年)に近江俊郎が吹き込んだ『湯の町エレジー』がヒット。同年には「古賀ギター歌謡協会」(後の古賀ギター学院)を設立した。
1960年代には過去に自らの前で『悲しき竹笛』(万城目正作曲の『悲しき口笛』とは異なる)を歌った美空ひばりの歌の作曲を手がけた。1964年(昭和39年)発表の『柔』は190万枚を売り上げ、1965年(昭和40年)の第7回日本レコード大賞を受賞。翌1966年(昭和41年)発表の『悲しい酒』も145万枚を売り上げるミリオンセラーとなった。
作曲活動の傍らで1958年(昭和33年)には日本作曲家協会を創設し、初代会長となる。この翌年に服部良一らとともに創設したのが日本レコード大賞である。
1965年(昭和40年)以降は大正琴の普及にも努め、自作曲の大正琴レコード、オリジナルブランドの改良大正琴「KOGA TONE(古賀トーン)」を販売した。
1974年(昭和49年)には平和への祈りを込め、広島平和音楽祭の実行委員長を引き受けた[7]。第4回広島平和音楽祭に際して、島倉千代子のために製作した「ひろしまの母」が最後のレコードになった[7]。
1978年(昭和53年)6月17日、明治大学マンドリン倶楽部・第102回定期演奏会(杉並公会堂)で指揮者を務めたのが、古賀自身最後の公の姿となった。
それから約1か月後、1978年7月25日の午後1時15分、東京・代々木の自宅で急性心不全により死去、享年73。その死から10日後の同年8月4日、前1977年(昭和52年)の王貞治(プロ野球選手)に次ぎ史上二人目、また、作曲家としては初となる国民栄誉賞を贈られた[注釈 1][注釈 2]。
1998年(平成10年)7月には、日本コロムビアから16枚組CD-BOX『古賀政男大全集』が発売され、3,000セットを売り上げた[8]。
古賀政男記念館 | |
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施設情報 | |
延床面積 | 367㎡ |
開館 | 1982年3月1日 |
所在地 |
〒831-0026 福岡県大川市大字三丸844 |
プロジェクト:GLAM |
古賀政男が誕生した福岡県大川市によって1982年に開設された記念館。古賀に纏わる写真のほか、『影を慕いて』の直筆楽譜や国民栄誉賞など顕彰された盾・トロフィー類が展示され、隣接地に復元した生家が構えている。
古賀政男が1932年から自邸を構えた渋谷区上原の敷地に一般財団法人古賀政男音楽文化振興財団によって1997年に開設された。建物は日本音楽著作権協会(JASRAC)が本部を構えるオフィスビルと博物館付属のコンサートホール「けやきホール」と一体化している。建設にあたってはJASRACから財団への融資で費用を賄い、JASRACが入居するオフィスビルの賃料を柱とする財団の事業収入から返済に充てる形態が採られている[9]。
館内には古賀の来歴紹介や自邸のモックアップ、「大衆音楽の殿堂」受賞者のレリーフの展示、古賀作品と「大衆音楽の殿堂」顕彰者の楽曲音源がビデオオンデマンド方式で試聴することができるタッチパネル式のPCや、音楽関連図書を配架した音楽情報室が設置されている。
一般財団法人古賀政男音楽文化振興財団 は、古賀の没後の1979年に設立された一般財団法人である。古賀作品の継承・振興を図るための活動や各種歌謡曲関連イベントの主催・共催などによる支援活動を行っている。古賀政男音楽記念館が開館してからは、同館の運営が主たる事業となっている。
古賀政男の偉功を偲ぶとともに、大川市の音楽文化振興と古賀メロディー継承を願って開催される歌謡コンクール。
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