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日本の歌手 (1924-2012) ウィキペディアから
岡本 敦郎(おかもと あつお、1924年〈大正13年〉12月25日 - 2012年〈平成24年〉12月28日)は、小樽市出身の歌手。武蔵野音楽学校(現・武蔵野音楽大学)声楽科卒業。日本コロムビア所属。
1946年にラジオ歌謡のホームソング「朝はどこから」でデビューした。この曲は当時、敗戦直後の日本を励ますために朝日新聞が企画した懸賞応募曲である。明るいその曲調から、広く親しまれ愛唱された曲である。抜群の伸びのある美声と正統派の歌唱で、戦後の歌謡界で活躍した。1949年の「街の艶歌師」の小ヒットを皮切りに流行歌のヒットが増えていった。ちなみにこの曲の作曲者は八洲秀章で、岡本敦郎にしては珍しい演歌である。
そして、「白い花の咲く頃」の大ヒットや「チャペルの鐘」「あこがれの郵便馬車」などのヒットを経て、1954年にリリースした「高原列車は行く」は爆発的ヒットとなり現在までの岡本敦郎の代表曲となった[1]。その後も「ピレニエの山の男」「自転車旅行」「若人スキーヤー」などさまざまなヒットを飛ばした。多くのラジオ歌謡を吹き込んだことから、ミスターラジオ歌謡の異名を持つ。
NHK紅白歌合戦に7回出場している(詳細は下記参照)。
舟木一夫の大ヒット曲「高校三年生」は岡本の吹き込みを想定して作られたものである。また、歌手活動の傍ら音楽教師としても活躍。1980年から84年には日本歌手協会の理事長を務めた。
1995年には戦後50年及び自身のコロムビア専属50年を記念し、同じく専属50年の並木路子・池真理子と共に新曲を発売し、日比谷公会堂でジョイントコンサートを行った。
80歳を超えても「思い出のメロディー」(NHK)やテレビ東京の懐メロ番組へ出演。2007年9月18日に脳梗塞のため入院するも早期発見が幸いして投薬治療で回復。翌2008年1月21日放送の「ラジオ深夜便」で仕事復帰した。2010年頃からは心臓の不調もあり仕事から遠ざかっていたが、2012年8月10日放映の「懐かしの昭和メロディ」(テレビ東京)へ出演。約2年半ぶりのテレビ出演となったが、これが生涯最後の仕事となった。
2008年、第50回日本レコード大賞で功労賞を受賞。
2012年12月28日、脳梗塞のため東京都内の病院で死去[2]。88歳没。孫はシンガーソングライターの坂井志帆。
年度/放送回 | 放送日 | 会場 | 回 | 曲目 | 出演順 | 対戦相手 | 備号 |
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1952年(昭和27年)/第2回 | 1月3日 | NHK東京放送会館第1スタジオ | 初 | あこがれの郵便馬車 | 08/12 | 轟夕起子 | |
1953年(昭和28年)/第3回 | 1月2日 | 2 | 青春のファンタジア | 03/12 | 平野愛子 | ||
1953年(昭和28年)/第4回 | 12月31日 | 日本劇場(日劇) | 3 | 白い花の咲くころ | 09/17 | 三条町子 | |
1954年(昭和29年)/第5回 | 日比谷公会堂 | 4 | 高原列車は行く | 01/15 | 宮城まり子(1) | トップバッター(1)[3] | |
1955年(昭和30年)/第6回 | 産経ホール | 5 | リラの花咲く頃 | 09/16 | 宮城まり子(2) | ||
1956年(昭和31年)/第7回 | 東京宝塚劇場 | 6 | 自転車旅行 | 01/25 | 荒井恵子(1) | 先攻トップバッター(2) | |
1958年(昭和33年)/第9回 | 新宿コマ劇場 | 7 | 若人スキーヤー | 01/25 | 荒井恵子(2) | 先攻トップバッター(3) |
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