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スプートニク・ショック(英語: Sputnik crisis)とは、1957年10月4日のソ連による人類初の人工衛星「スプートニク1号」の打ち上げ成功の報により、アメリカ合衆国を始めとする西側諸国の政府や社会が受けた衝撃感、さらに危機意識を指す。
スプートニク計画以前、アメリカは自国を「宇宙開発のリーダーであり、それゆえミサイル開発のリーダーでもある」と信じていた。しかし、スプートニク1号成功の突然のニュースと、それに対抗したアメリカ合衆国連邦政府の人工衛星計画「ヴァンガード計画」の失敗は、アメリカの自信を覆し、全米をパニックに陥れた。
この時期、ソ連が戦略弾道ミサイル搭載潜水艦をアメリカに先駆けて配備し、大陸間弾道ミサイル開発でも先行するなど、軍事技術でアメリカが圧倒される出来事が相次いでいた。スプートニク・ショックを受けて、ソ連の脅威とアメリカの「ミサイル・ギャップ」劣勢を覆すため宇宙開発競争が始まり、科学教育や研究の重要性が再認識されて大きな予算と労力が割かれるなど、危機意識の中でアメリカの軍事・科学・教育が大きく再編された。スプートニク・ショックはアポロ計画、および1969年の月面着陸成功によって収束したが、冷戦の転機となった出来事であった。
スプートニク・ショックはアメリカによる政策提案を、大きなものから小さなものまで連鎖的に引き出した。そのほとんどは国防総省が発議したものだった。
またこの事件によってアメリカ国民の科学に対する興味・関心が高まり、一般人にも解りやすい内容の科学解説書のニーズが急増した。この恩恵を最も受けた人物の1人が、当時ボストン大学を辞して専業作家となったSF作家アイザック・アシモフであり、以後の著作がSFから科学解説などのノンフィクション中心へと移行する契機となった。
日本でも、人類初の人工衛星は話題を呼んだ。文部省ではアメリカと同様に1971年(昭和46年)の学習指導要領改訂で理数教育の、現代化カリキュラムのきっかけとなった。
スプートニク1号打ち上げ成功の直後、日本コロムビアはレコード「人工衛星空を飛ぶ」(作詞:丘灯至夫、作曲:古関裕而、歌:岡本敦郎)を発売した[1]。この曲は「あこがれの郵便馬車」「高原列車は行く」「自転車旅行」と続いた『乗物シリーズ』と同じ作詞・作曲・歌手の組み合わせによって制作されたものである[1]。
評判にあやかり、大判焼を「人工衛星饅頭」と称して発売した店もあった。当時クランクアップ直前だった東宝の特撮映画『地球防衛軍』は、スプートニク1号打ち上げ成功の報を受け、急遽、映画のラストに人工衛星の登場シーンを追加した。
米ソの軍事的パワーバランスが逆転したとの見方が広がり、翌月の毛沢東による「東風が西風を圧した」との宣言やソ連の対日工作も相まって、党内左派に押された日本社会党は反米路線を鮮明にしていった。このことが後の安保闘争の遠因の一つとされる[2]。
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