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菊池 章子(きくち あきこ、1924年1月28日[1] - 2002年4月7日[2])は、東京市(現東京都)出身の歌手である。本名は菊池 郁子[1]。妹は歌手の多摩幸子。義子に大久保直彦、孫にcaminoのKIKUとBREATHのメンバーだった菊池一仁がいる。
1924年(大正13年)1月28日(月曜日)、東京市の下谷に生まれる。1927年(昭和2年)畑秀水の門下生となり琵琶を習う[1]。1930年(昭和5年)6才で免許皆伝となり、菊池錦祠を襲名する[1]。のちに菊池祠水となる[1]。
その後、歌謡曲に興味を持ち、九段にあった「大村能章歌謡学院」に入った。日華事変が起こった後は、学院の生徒と共に軍の病院などで慰問活動を行う。女学校の低学年にもかかわらず、彼女が唄うと、アンコールの声が鳴り止まなかった。1937年(昭和12年)コロムビア入社し[1]、翌年「アイアイアイ」でデビューするも、同作は発売中止となる[1]。1939年9月「お嫁に行くなら」で本格デビュー[1]。「相呼ぶ歌」や「愛馬花嫁」がヒット[1]。その中でも、松竹映画『湖畔の別れ』の主題歌「湖畔の乙女」は大ヒットした[1]。
戦後、テイチク移籍後の1947年(昭和22年)には、娼婦に身をやつした女性の心情が綴られた「星の流れに」を歌う。最初はレコードが全く売れなかったが、娼婦らに口ずさまれるようになりロングヒットとなった[3]。また、母物栄花シリーズの主題歌「母紅梅の唄」などが大ヒット[1]。1948年(昭和23年)、作曲家の大久保徳二郎と結婚(1956年に離婚)。1954年(昭和29年)、若尾文子映画デビュー作品の主題歌「春の舞妓」[1]、息子が乗っていると信じて引揚船を待ち続ける母の姿を歌った「岸壁の母」がヒット。1957年(昭和32年)にビクターへ移籍するも[1]、ヒット曲には恵まれず、歌手業から遠ざかり、渋谷の道玄坂でレコード店「キクチ」を経営する。
1967年(昭和42年)にテイチクレコードに復帰し[1]、懐メロ番組などに出演する。1977年(昭和52年)、ディック・ミネプロデュースによる「沖縄の母」発売[1]。
このうち、第6回・第8回はラジオ中継の音声が現存する。
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