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東京都渋谷区の町名 ウィキペディアから
代々木(よよぎ)は、
歴史的な地名としての代々木とは、旧代々木村一帯のことである。すなわち、東は明治神宮、西は大山町、北は甲州街道、南は富ヶ谷や上原に囲まれた地域が該当する。代々木郵便局や代々木上原駅、代々木八幡宮などがあり、現代でもこれら地域全体が「代々木」として認識されることが多い(NTTドコモ代々木ビルなど、代々木駅の東口(千駄ヶ谷)も代々木に含まれることがある)。
1906年に開業した代々木駅(所在地の現行町名は代々木一丁目)は旧代々木村ではなく旧千駄ヶ谷村の区域にあるが、開業当時旧代々木村の町域には路線・駅がなかったことから、「代々木駅」と名づけられた経緯がある[注釈 1]。
「代々木」の由来は諸説あるが、明治神宮の御苑東門の近くにモミの大木が代々あったことからとされている[5]。大木は高さ54メートル、幹の周囲は11メートルと推定され、江戸時代から旅人の目印として有名な大木だったが、明治中期に枯れ、1945年5月の空襲で米軍機が樹上に墜落し焼失した[5][6]。
代々木の北東部(2丁目・3丁目)は、千駄ヶ谷(渋谷区)とともに新宿駅と隣接していることから、渋谷区であるにもかかわらず、新宿エリアの一部として南新宿駅や新宿サザンテラスなど「新宿」の名を冠する施設や店舗も多い。
住宅地の地価は、2024年(令和6年)1月1日の公示地価によれば、代々木4-36-7の地点で126万円/m2、代々木5-30-1の地点で163万円/m2となっている[7]。
「代々木村」の名は古く戦国時代の書状にも認められ、江戸時代には大名・旗本の屋敷地があった[8]。
1878年(明治11年)、郡区町村編制法施行により代々木村は南豊島郡に属した[9]。1889年(明治22年)市制町村制の施行により代々木村は幡ヶ谷村と合併、代々幡村となる。(この時、現在の渋谷区に相当する地域として他に渋谷村と千駄ヶ谷村)1896年(明治29年)、これら「渋谷3村」は南豊島郡が東多摩郡と合併して誕生した豊多摩郡に引き継がれた。1915年(大正4年)、代々幡村は前述の渋谷3村の中で最後に町制を施行した。
1932年(昭和7年)、代々幡町は渋谷町、千駄ヶ谷町と合併、東京市渋谷区(大東京35区の一つ)となった。渋谷区は1943年(昭和18年)の東京都政への移行、1947年(昭和22年)の東京23区への再編においても区域は変わらず現在に至っている。
現行の町丁区分に基づく各地区の様子は次の通りである。
代々木駅があり、駅前には飲食店や事務所などが入居する雑居ビルが多い。代々木ゼミナールはかつて、本部校を含めて多くの建物をこの地に有していたが、2008年(平成20年)に新本部(代々木二丁目)が完成した後には、一丁目の建物や機能は大幅に移転・縮小された。
住居表示実施以前には、代々木駅から南西に向かって、「千駄ヶ谷五丁目」(代々木駅を含む)、「千駄ヶ谷四丁目」、「代々木山谷町」という町域になっていた。
北部は新宿駅南口に近く、オフィスや商業施設が多くを占める。1990年代中盤以降、JR東日本本社ビル(1994年(平成6年))、新宿マインズタワー(1995年(平成7年))、小田急サザンタワー(1998年(平成10年))などの超高層ビルが次々に完成した。
住居表示実施以前には、町域の大半が「千駄ヶ谷五丁目」に含まれていた。
住宅街が大半を占め、北より、甲州街道沿いには文化服装学院や文化学園大学がある。住居表示実施以前には、町域の大半が「代々木山谷町」であった。
明治神宮や代々木公園に隣接し、西参道と小田急小田原線、山手通りに囲まれた町域である。地形は起伏に富んでおり、高台部分を中心に住宅街が形成されている。また、各国の大使館も点在する。
現在は暗渠化されているがここに河骨川(こうほねがわ)という小川が南北を貫き、西原から流れてくる宇田川と代々木八幡付近で、渋谷の宮下公園付近で渋谷川と合流して東京湾に注いでいた。唱歌「春の小川」は、この河骨川を見て作詞されたとされており、記念碑が建てられている。
住居表示実施以前には、四丁目の大部分は「代々木山谷町」、五丁目の大部分は「代々木初台町」の町域に含まれていた。
(よよぎかみぞのちょう):明治神宮と代々木公園の所在地の町名である。面積は120万m2以上に及ぶが、神社・公園以外の建物や居住者はごくわずかである。
(うえはら、にしはら、おおやまちょう):一般に「代々木上原」と括られる住宅地である。富ヶ谷も含め、隣接する渋谷区、目黒区、世田谷区の住宅地へと続く。かつて付近には紀州徳川家の徳川頼倫侯爵の屋敷があり、昭和初期には「徳川山」の名で分譲開発された。上原、西原、大山には戦後、アメリカ軍関係者の邸宅と思われるプールやテニスコートがあり広い芝生の庭つき住宅が点在した。昔の写真によると、この辺りは牧場が広がっていたらしい。
『江戸名所図会』などによると、現在の明治神宮境内の御苑東門(旧彦根藩井伊家下屋敷)近くに代々樅の巨木があり、「代々大きな木があった」という意味でこのように呼ばれるようになったとされる。二代目歌川広重も『絵本江戸土産』に「代々木村の代々木」を描いている。この木は幕末には品川沖の外国船の偵察に利用されたといわれている(通説であって証拠は示されていない。戦前は代々木西原から隅田川の花火が見えたといわれるが、品川沖まで見通せた証拠はない)。その後枯死し、さらに太平洋戦争末期の1945年5月、アメリカ軍による空襲の際、高射砲で撃墜されたB-29が直撃し焼失した[10]。焼失前の1920年頃に撮影された写真が発見され、2017年6月10日から白根記念渋谷区郷土博物館・文学館で公開される予定である[11][12]。
現在、その御苑東門近くには樅の大木と共に次のような立て札が掲げられている。
代々木
この地には昔から代々樅の大木が育ち「代々木」という地名が生まれました。この前の名木「代々木」は昭和二十年五月の戦禍で惜しくも消失しましたのでその後植継いだものであります。
また別の説として、この地で代々皀莢(サイカチ)を栽培していたからともいわれる。
2023年(令和5年)1月1日現在(東京都発表)の世帯数と人口は以下の通りである[1]。
国勢調査による人口の推移。
国勢調査による世帯数の推移。
区立小・中学校に通う場合、学区は以下の通りとなる(2023年3月時点)[19]。
丁目 | 番地 | 小学校 | 中学校 | 調整区域による変更可能校 |
---|---|---|---|---|
代々木一丁目 | 5~11番 | 渋谷区立代々木山谷小学校 | 渋谷区立代々木中学校 | 渋谷区立原宿外苑中学校 |
その他 | 渋谷区立原宿外苑中学校 | 渋谷区立鳩森小学校 渋谷区立代々木中学校 | ||
代々木二丁目 | 全域 | |||
代々木三丁目 | 18~20番 | |||
1〜17番 21〜59番 | 渋谷区立代々木中学校 | 渋谷区立原宿外苑中学校 | ||
代々木四丁目 | 1~31番 34〜35番 40番 47~50番 | |||
32〜33番 36〜39番 41〜46番 51〜62番 | 渋谷区立幡代小学校 | |||
代々木五丁目 | 13~36番 43~47番 49~53番 | |||
42番、48番 54~60番 | 渋谷区立代々木山谷小学校 | 渋谷区立原宿外苑中学校 | ||
1〜12番 37〜41番 61〜67番 | 渋谷区立富谷小学校 | 渋谷区立上原中学校 | 渋谷区立代々木中学校 |
2021年(令和3年)現在の経済センサス調査による事業所数と従業員数は以下の通りである[20]。
丁目 | 事業所数 | 従業員数 |
---|---|---|
代々木一丁目 | 1,117事業所 | 14,190人 |
代々木二丁目 | 1,170事業所 | 35,512人 |
代々木三丁目 | 349事業所 | 11,344人 |
代々木四丁目 | 300事業所 | 4,749人 |
代々木五丁目 | 214事業所 | 1,781人 |
計 | 3,150事業所 | 67,576人 |
経済センサスによる事業所数の推移。
経済センサスによる従業員数の推移。
なお、代々木郵便局は渋谷区西原にあり、昔の代々木本町に近い。また代々木警察署は現在は代々木地域外の渋谷区本町にあるが、かつては甲州街道南側の代々木地域内にあったものが、1953年(昭和28年)に甲州街道を渡って北側の現在地に移転したものである。
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