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かつて存在した日本の鉄道会社 ウィキペディアから
東京市内の御茶ノ水を起点として、飯田町や新宿 を経由して多摩郡を東西へ横断し、国分寺や立川等を貫いて八王子に至る鉄道を保有・運営していた。
1870年(明治3年)に玉川上水の船運が開業したが、船員が上水に放尿する等の夥しい違反行為により2年後に禁止された。代替路線として、その堤防沿いに新宿 - 羽村間に馬車鉄道(甲武馬車鉄道)敷設が企画されたことが同社の始まりである。発起人は服部九一、岩田作兵衛、井関盛艮(元・神奈川県知事)であった。
しかし、堤防沿いの鉄道は認可を得られなかったため経路を変更し、1886年(明治19年)11月に新宿 - 八王子間の敷設免許を得た。
一方、同時期に本路線の競合となり得る岩谷松平らが蒸気鉄道を出願し、また武蔵鉄道が川崎 - 八王子間蒸気鉄道を出願していたため、直ちに動力を馬車で無く蒸気に変更して出願したことで競願者を退けた。
そして資本金を30万円から60万円に増資する必要から大隈重信へ協力を求めた結果、平沼専蔵らから出資を得ることが出来、1888年(明治21年)3月免許状が下付された[2]。
ところがその後、井関らと大隈派で対立を生じ、大隈派は株を売却、甲信鉄道へ投資してしまった。
その際登場したのが雨宮敬次郎だった。雨宮は安田善次郎らから資金提供を受け暴落した甲武鉄道株を買いあさり、資本金60万円のうち38万円相当の株を獲得し経営の実権を握ることになる。1888年5月2日の株主総会において役員を選出した。(社長)奈良原繁、(常議員)雨宮敬次郎、(常議員)井関盛艮、(常議員)指田茂十郎、(監査役)安田善次郎、(監査役)岩田作兵衛。そして6月9日に副社長となった大久保利和が10月31日の株主総会において社長に就任する。奈良原は常議員となる[3]。
1889年(明治22年)4月に新宿 - 立川間、8月には 立川 - 八王子間が開通した[4]。
新宿から東京市内への路線延長は、当初は甲州街道沿いが計画されたが、青山練兵場や三崎町の工廠の後押しもあり、1889年5月に申請、7月に仮免状[5]が下付されたもので、1894年10月には新宿 - 牛込が、1895年4月に牛込 - 飯田町が開業している。これは更なる延長が計画され、1890年(明治23年)に飯田町 - 万世橋を出願、1900年(明治33年)には当時計画中の東京縦貫高架鉄道(現・上野 - 新橋間のJR鉄道路線)の接続を条件に免許状が下付され、このうち1904年(明治37年)12月に御茶ノ水までの延長が完成した。
開業から1891年(明治34年)までは新宿で路線が接続し、また創立委員長奈良原繁が社長を務めた日本鉄道が営業管理を行っていた。
また、東京市内区間での旅客が増えたことから1904年8月21日に飯田町 - 中野間を電化し[6]、日本の普通鉄道では初めて電車運転を行った。車体長10m程の二軸車ではあったが、総括制御を採用し重連運転も可能で、郊外電車として十分な性能を備えていた。詳しくは甲武鉄道の電車を参照されたい。この電車運転区間は複線化されていた。
現在も中央本線が走っている、本路線のうちの東中野駅(甲武鉄道時代は柏木) - 立川駅を結ぶ約27.4 kmの直線経路は、1964年の新幹線の開業までは日本全国で3番目に長いものであった。東西方向へほぼ完全な一直線であることから、東京の地図や空中写真を見ても目につくものとなっている。
この東京都心の新宿から西へ延びて武蔵野(多摩)とを結ぶ路線は、同地域を結ぶ街道であり江戸時代には基幹道路であった甲州街道や、庶民に利用された青梅街道からは離れており、多摩地域の要衝として発展していた府中等の既存の都市を通らない経路であった。
このような当時の主要街路とは異なる路線を建設された理由に関して、本路線を継承した東日本旅客鉄道(JR東日本)の広報部は「諸説あることは認識しているが、社内で根拠を持って話せる人はいない」と述べている[18]。
「当初は甲州街道あるいは青梅街道沿いのルートを予定していたが、住民の反対運動により当時は田園・林野だった場所を一直線に突っ切る現路線に変更された」と言った言説が各自治体史や朝日新聞『中央線』などと言った戦後の文献に掲載されており、馬車鉄道の計画の際に「自然作物の成長が阻まれる」「街道がさびれる」(明治18年8月の南豊島郡9村、9月の和田村外3村の陳情)と言った反対の声があったことは確認されている。
また、甲部鉄道開業を担当する工部省の官僚であった仙石貢(後の鉄道大臣)が独断で即決したと言う説もある。鉄道ジャーナリストの青木槐三の著書「鉄道黎明の人々」(1951年発行)の記述によれば、「雷親父の仙石が『武蔵野の原だ、これでいい』と地図上にグーンと太い鉛筆の線を引いた」と言う[18]。
反対運動説に対して、「鉄道忌避伝説」を唱える立場からは、全国のそう言った言説を調査して『鉄道忌避伝説の謎〜汽車が来た町、来なかった町』を著した地理学者の青木栄一は「馬車鉄道から蒸気鉄道への動力変更に当たって、建設が鉄道局に委託されたため、(平坦・効率的な最短の)武蔵野台地上の一直線ルートが考えられたと思う」と指摘している。
また、JR東日本の鉄道博物館の副館長であった荒木文宏も「勾配など地理的条件、コスト面などから、20km以上の直線は作る側にとって最も理想なルート」と説明した[18]。
さらに、江戸東京博物館の学芸員として中央線を研究した真下祥幸は、「蒸気機関車の能力、燃料供給、土地買収などから地理的に最も合理的なルートを選んだ」と分析した。真下は次の理由から推測した[18]。
また真下は、「住民の反対運動のせいと言う説や、仙石貢が独断で決めたと言う説は、いずれも考えづらい。」と指摘した。真下は次の理由から2説を否定している[18]。
現在の西武国分寺線及び新宿線の東村山 - 本川越である川越鉄道、及び青梅線である青梅鉄道は、甲武鉄道の支線に当たる。いずれも甲武鉄道が東京市内への延長線建設に追われていたため、地元の資本を利用して設立したもので、その株主は甲武鉄道の主要株主と沿線在住者で構成されていた。特に、軌間が同じである川越鉄道とは、直通運転等が実施されていた。
しかし、1906年の鉄道国有法制定によって甲武鉄道が国有化されると、川越鉄道と青梅鉄道は独立した存在となった。特に川越鉄道は、鉄道国有法原案では、甲武鉄道とともに国有化される予定となっていたが、これは貴族院での審議によって修正され、川越鉄道は民営鉄道としての独立を保ったという経緯があった。
甲武鉄道からの分離後、都心に接続するルートを断たれた川越鉄道は都心乗り入れを目指し、いくつかの合従連衡を経て、西武鉄道という社名になった後、1927年、山手線高田馬場駅に至る村山線を開通させた。これは、後の西武新宿線に当たる。さらに終戦直後の1945年9月には、後の西武池袋線となる路線を保有していた武蔵野鉄道との合併により、現在の西武鉄道のネットワークが形作られることとなった。
一方、青梅鉄道は、当初免許が下付された青梅町までのルートからさらなる延伸を地道に続け、青梅電気鉄道への改称を経て、1929年には御嶽駅までの延伸を果たす。しかし、戦時中、青梅電気鉄道は、戦時買収私鉄の一つに数えられてしまい、1944年国有化を迎える。さらに国有化の直後には後の奥多摩駅である氷川駅までの全通を果たし、日本国有鉄道傘下となった1950年代には、中央線に直通する青梅―東京間の電車が定期化されることとなり、現在の青梅線の運転形態が形作られて言った。
また、これらとは別に、雨宮が1889年3月八王子 - 甲府間山梨鉄道設立を出願したが、甲信鉄道との競願の末に却下された[19][20]。実際に八王子と甲府が接続されるのは、官設鉄道によって工事が行われた1903年のことであり、これも1906年に甲武鉄道が国有化されると、旧甲武鉄道線と一体化した運転が行われるようになった。
『鉄道80年のあゆみ 1872-1952』、日本国有鉄道、1952年、61頁
開業時は1日4往復うち1往復は新橋 - 新宿 - 立川間を直通した[8][21]。八王子延伸時にも1日4往復うち1往復は新橋 - 新宿 - 八王子間を直通した[21][10]。1894年牛込開業時には牛込 - 八王子間6往復、牛込 - 新宿間6往復[22]
年度 | 乗客(人) | 貨物量(トン) | 営業収入(円) | 営業費(円) | 益金(円) |
---|---|---|---|---|---|
1889 | 272,937 | 17,001 | 77,581 | 30,171 | 47,410 |
1890 | 357,543 | 30,959 | 92,878 | 40,188 | 52,690 |
1891 | 364,004 | 31,127 | 98,024 | 38,985 | 59,039 |
1892 | 417,895 | 52,558 | 111,768 | 35,891 | 75,877 |
1893 | 463,238 | 77,742 | 132,248 | 39,380 | 92,868 |
1894 | 847,930 | 99,686 | 161,957 | 46,811 | 115,146 |
1895 | 2,421,798 | 139,950 | 254,248 | 93,131 | 161,117 |
1896 | 3,668,233 | 151,373 | 312,237 | 119,212 | 193,025 |
1897 | 3,860,976 | 192,843 | 394,525 | 169,148 | 225,377 |
1898 | 4,163,204 | 234,521 | 408,202 | 202,561 | 205,641 |
1899 | 4,486,463 | 280,963 | 489,093 | 199,949 | 289,144 |
1900 | 4,881,973 | 313,729 | 540,493 | 226,674 | 313,819 |
1901 | 5,026,781 | 325,933 | 568,023 | 240,763 | 327,260 |
1902 | 5,197,335 | 315,741 | 596,339 | 240,660 | 355,679 |
1903 | 4,886,442 | 441,364 | 674,070 | 297,461 | 376,609 |
1904 | 5,047,767 | 469,166 | 665,754 | 303,373 | 362,381 |
1905 | 4,904,345 | 493,782 | 770,657 | 380,259 | 390,398 |
国有化時は機関車13客車92貨車316[23]
東京市街線電化用として1904年に製造された、全長10m余りの二軸電車。買収によって官設鉄道籍となり、「国電」の元祖として知られ、デ968 (→ 松本電気鉄道ハニフ1)が鉄道博物館に展示保管されている。
全て木製2軸車
リンク先は国立国会図書館デジタルコレクションの『客車略図 上巻』
1896年飯田町に工場が設けられ客車と貨車の製造がはじめられた。飯田町で製造した油槽車(タンク車)はすべて私有貨車であった。
『貨車略図』明治四十四年、鉄道院(復刻鉄道史資料保存会1990年)
年度 | 機関車 | 客車 | 貨車 |
---|---|---|---|
1889 | 2 | 9 | 20 |
1890 | 2 | 14 | 28 |
1891 | 3 | 14 | 28 |
1892 | 3 | 16 | 48 |
1893 | 3 | 16 | 66 |
1894 | 5 | 28 | 91 |
1895 | 7 | 28 | 101 |
1896 | 9 | 39 | 116 |
1897 | 11 | 39 | 146 |
1898 | 11 | 41 | 156 |
1899 | 11 | 42 | 166 |
1900 | 11 | 55 | 176 |
1901 | 10 | 64 | 176 |
1902 | 11 | 64 | 196 |
1903 | 13 | 64 | 196 |
1904 | 13 | 80 | 216 |
1905 | 13 | 80 | 266 |
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