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鉄道への政治介入 ウィキペディアから
鉄道と政治(てつどうとせいじ) 本項では日本における鉄道に関する政治的な介入などの事例を紹介する。
明治時代後期から大正期にかけて、政界では鉄道のレール幅を現行の狭軌(1067mm)か世界標準軌(1435mm)にするかで論争が繰り返されていた。全線を標準軌に改軌し幹線に全国に大型で高速で走れる列車を導入したい(=「改主建従」)鉄道院派と、早く地方に鉄道を通し日本全国をつなげていきたい(=「建主改従」)地方議員派に分かれていた。[要出典]「我田引水」をもじった「我田引鉄」という言葉は、この頃の論争が由来であるといわれている[注 1]。後藤新平の指示により島安次郎が国有鉄道改軌計画を立案した。
この時期に造られたトンネルには、政変によって工期途中で規格が変わった遺構が見られる。結局、その後の鉄道敷設は、都市部の一部私鉄を除いて、狭軌によって行われることになる。
昭和に入ると日中戦争などの輸送力増強が目的で、東海道本線・山陽本線の線路増設計画が持ち上がった。しかし大日本帝国陸軍の希望は、更なる高速鉄道化であったため、標準軌による新線建設案が出された。これを『弾丸列車計画』と名づけ、予算を計上し計画チームを立ち上げた。
第二次世界大戦激化と敗戦による計画凍結や停滞があったものの、戦後に島安次郎の息子島秀雄らが主導する『新幹線プロジェクト』として再生し、日本国有鉄道の標準軌鉄道として「東海道新幹線」が結実し、続いて全国への新幹線伸延と一部並行在来線の廃線・第三セクター化(=事実上の改軌)が進行している。
我田引水ならぬ「我田引鉄」と呼ばれる行為は、戦前からしばしば問題視され、現在でも新線計画や新駅設置を巡ってその様な事が話題に上る事がある。
特に第二次世界大戦前は、まだ自動車が普及しておらず、道路も脆弱だったため、鉄道が陸上交通の要であった。そのため経路に選ばれるかどうか、鉄道駅が設置されるか否かが、地域の盛衰を直接左右する生命線になった[注 2]。
このため、衆議院議員総選挙の度に政党(特に立憲政友会)によって、地域への鉄道敷設と引換に、その地域の票を獲得しようとする政治工作が行われ、この集票手法は戦後まで継承される事になる。現在の日本の高速道路・整備新幹線建設に関わる政治問題の根本と言われることもある。また、大都市周辺の日本の地下鉄の郊外延伸線構想を巡っては、現在でも政治家が選挙公約に掲げる事例がある(Osaka Metro今里筋線など)。
現在では新幹線駅などと同様に、高速道路のインターチェンジでも、開通・設置の際にその名称を巡って同様の名称争奪戦が発生する事が少なからず見られ[注 11]、最終的に妥協案として近隣自治体名を繋げた名称となるものも少なからず見られている。また、大都市圏などの駅名を巡っても、同様の事態が発生する場合がある。
鉄道創成期に線路を敷設する際、様々な理由で「住民が線路を市街地に通すことに反対したため、鉄道が、従来から存在していた町を無視するようなルートになったり、鉄道の線路や駅が市街地や村落の中心部から離れた場所に設置されてしまった」などという話が全国各地に残されている。これらの話は、各地の地誌や市町村史類に記載されていることも多い[24]。
しかし、その例として挙げられるものの多くは、新聞、署名、沿線住民の日記などといった当時の文献からは、当局と交渉するほどの反対運動は確認できない[24]。それどころか逆に各地で誘致運動があったことは当時の文献から確認されている[24]。青木栄一などの鉄道史研究者は、鉄道忌避は否定的要素が強いと指摘している[24][25]。
即ち反対運動の結果でルートが変わったと言われているケースは信憑性の希薄な俗説にすぎず、ほぼ全てが技術的・経済的理由により最初から計画されたルートで建設されているだけであり、住民運動が鉄道建設にもたらす影響はほとんどの場合、計画されたルート上における駅の位置の変更程度に過ぎないと考えられている[26]。
実際にルート変更があったケースでは、上記の大船渡線の例のように誘致運動や政治力でルートが変わってしまったものがほとんどである。ただし、旧ルート案に少なからずとも反対者はいるため、あたかも反対運動の結果で通らなかったと「鉄道忌避」が半ば当然のように語られてしまう例がほとんどである。[要出典]
以下の文章は「鉄道忌避伝説」の典型的な例である。
鉄道建設用地の確保に際して、農民に対しては補償金や代替地で対応した。しかし、旧東海道沿道の宿泊業者と前近代的な陸運業者(駕籠屋、馬子など)や、京都から大阪の淀川沿いの水運業者は鉄道の開通によりその職を失うため、彼らによる鉄道建設反対運動は激しいものとなり、測量や工事の妨害、通信用ケーブルの切断など実力行使を伴う反対運動も繰り広げられた[27]。
「鉄道忌避」が実際にあった例として、唯一検証できるとされているのは、日本での最初の鉄道開業区間の一部である新橋駅 (初代)—品川駅間である。大久保利通を始めとする薩摩藩などの反対により、用地買収の不要な当時海中だった土地に鉄道を通している。とはいえ、その大久保も鉄道に試乗して「まさに百聞は一見に如かず。愉快に耐えず。鉄道の発展なくして国家の発展はありえない」と日記に綴っている。
その薩摩藩も1866年(慶応2年)に藩士五代才助をヨーロッパに留学させており、五代は同年12月の帰国に際して知己となったベルギー人の実業家シャルル・ド・モンブランに書簡を送ったが、その中には鉄道建設計画に関することが含まれていた[28]。
一方で仙台市では「鉄道忌避」とは逆に「街中心部に線路を通さなければ伊達政宗公以来の仙台は滅ぶ」と、地元側の猛烈な誘致活動の末、当初ルート(現在の宮城野貨物線ルート)を変更して現在地に仙台駅が設置された[29][30][31][32]、更に東北新幹線も同様に仙台駅を通るルートに変更させている。似たような事例が東海道新幹線の京都駅や北海道新幹線札幌延伸で並行在来線分離予定の函館駅[33]でも起こっている。
また、東京メトロ日比谷線が反対運動の結果、麻布十番駅を経由せずに六本木駅が設置されたという説がある。しかし、関東大震災直後にまだ地下鉄が1本も開通していない頃、当時の東京市が計画した地下鉄路線網には恵比寿から六本木を経由して虎ノ門へのルート案が存在しており、戦後に帝都高速度交通営団がそれを踏襲しただけであるため、麻布十番付近でルート変更をした事実は確認されていない。
新幹線の路線や駅の建設についても、その時々の政治家の腕力に左右された事が多かったと見られている。そのため、新幹線の駅ができた場合でも、周辺が殆ど整備されないまま放置されている例も存在する。これらの背景には、新幹線の開業は沿線に大きな利害をもたらすため、地元住民の賛否両論が建設前から噴出するためといわれる。また新幹線の建設費に関しても疑惑が存在する(後述)。
一般に政治家の影響を受けたと評される路線・駅を列挙する。
東海道新幹線の建設費を捻出するため、日本国有鉄道は世界銀行から、8,000万米ドル(融資時は1米ドル=360円の固定相場制)の融資を受けていたが、これと並行して、東京-大阪間を5時間半で結ぶ「貨物新幹線」の運行構想が計画当初から存在した[34]。しかし、インフレーションの影響で、建設費用が当初の2倍近くに膨れ上がったことを理由に、国鉄は用地の買収と一部の工事を実施した後、計画自体を断念した[35]。
これに関しては、世界銀行から資金を調達する際、貨物が鉄道輸送の主力となっていたアメリカの理解を得るためのダミー構想であり、最初から新幹線での貨物輸送を行う予定はなかったとの説があるが、計画立案者の石井幸孝は、噂話を完全否定している[35]。
新横浜駅は東海道新幹線開業から長らく「こだま」しか停車しなかった。開業当初は駅周辺が開発途上で利用者が少なかったこともあり、地元からは抗議運動は起こらなかったものの、駅周辺の発展が目立つ様になると、横浜市会や横浜市民、地元財界の長年の要望に応える形で、次第に停車列車本数を増やし、2008年3月15日のダイヤ改正で品川駅(2003年に新幹線ホームが開業)と共に、全列車停車駅となった[注 12]。
東海道新幹線の最優等列車である「のぞみ」であるが、静岡県内には停車しない。
これについて静岡県庁は不快感を示しており、静岡県知事の石川嘉延は、2002年(平成14年)12月9日の静岡県議会・本会議で「県内素通りの『のぞみ号』に対して通行税を取る」と発言し、物議を醸した[36][37]。しかし実施されることなく川勝平太に交代したため、発言も話題にされなくなった。
戦前の新幹線建設計画である通称「弾丸列車計画」が浮上した際、名古屋 - 大阪間を当初は関西本線に沿いながら鈴鹿山脈を越えて、滋賀県野洲市の三上山(近江富士)近傍で東海道本線の野洲駅に再び沿うルートで計画されていたものの[38][注 13]、後に工期や技術の問題で米原経由[39] ルートを検討するようになった。
戦後の東海道新幹線建設計画においても、再び鈴鹿山脈越えルートが検討されていたが、鈴鹿峠を挟んでの三重県側と滋賀県側との高低差が大きく、それを緩和するためには鈴鹿山脈に20kmを超える長大トンネルを掘削する事が必要となり、それが大きな技術的障害や建設費用でも問題になる事などがあり、結局は名古屋から一旦北上して大垣市の南部を通り垂井町の垂井駅付近で東海道本線と並行しそのまま米原へ抜けるルートに落ち着く。また、ルート決定にあたっては北陸方面との連絡の利便も考慮されたことから、米原駅が設置された。
「名古屋-京都間を直線で結べば標高1,000m級の鈴鹿山脈越えとなるのであるが、(中略)工期的に非常な難点のあることが明らかになった。一方関ケ原附近も地質的には鈴鹿越えと大差はないが、ずい道が比較的短くすむこと及び北陸との連絡に至便なことから、結局ここが最終案として本決まりになった。こうして全線の基本ルートが定められ、33年8月幹線調査事務所の発注によって航空写真測量が開始されたのである。」[40] とするように、関ヶ原経由が決定したのは、東京オリンピック開催が決定された1959年(昭和34年)よりも前である。国鉄副総裁磯崎叡も、1964年(昭和39年)6月2日の衆議院予算委員会[41] において、同様に1958年(昭和33年)に現在のルートを採択した旨の答弁を行っている。また、新幹線の工期5年は、1958年(昭和33年)7月の国鉄幹線調査会の答申で定められており、これも東京オリンピック開催決定前のことである。
関ヶ原ルート決定後、設置予定駅の第一報では名古屋駅の次は米原駅とされていたが、3日後には羽島市への駅設置が報じられた[42]。岐阜市や大垣市では駅を誘致する運動が展開され、特に岐阜県の政財界では岐阜市寄りの北回りルートが要望された[42]。産経新聞「戦後史開封」取材班(ISBN 459402694X)によると、その岐阜県の要望に対して国鉄側は、予定ルートよりも線路を大幅に北側へ迂回する必要があり、建設予算や名古屋駅以西の区間の所要時間が伸びる関係上、難色を示した[43]。これに岐阜県や地元自治体側は激しく反発し、一時、国鉄は岐阜県内での測量が出来ない状態に陥った。この為、国鉄が地元選出の当時の有力国会議員であった大野伴睦に斡旋を依頼し、新幹線路線を迂回させる必要がない羽島市内に岐阜羽島駅を設置することで妥協案を成立させるというのが用意された筋書きである[43]。「政治駅」とも指摘されたが、大野は「新幹線は国家的問題で、岐阜県の都合だけで左右することはできない」と述べていたとされ、むしろ政治力で決定されていたならば駅は岐阜市になっていたとも指摘されている[42]。
実際は、1958年(昭和33年) - 1959年(昭和34年)に国鉄は岐阜県内の駅設置の必要性を認識して計画を進めていた。岐阜県知事が要請した大野と国鉄との交渉の際、国鉄は駅を作ることをあえて伏せ、「一駅作るなら地元を説得しよう」と大野にいわせて顔を立て、羽島市内に駅を設置することで妥協案が成立したように見せかけたのである。
国鉄職員だった須田寬によると関ヶ原ルートに決定されたとき豪雪地帯を通るため、除雪車の待機基地を設置できる駅の候補地として羽島が選定されたと述べている[42]。羽島に設置することで広大な駅用地を用意でき、名古屋駅など通常の中間駅が4線なのに対し、除雪車が待機する岐阜羽島駅では6線設けることができた[42]。また、大垣は市街地に近く除雪車が待機するだけの駅用地が確保できず羽島に選定されたことで立ち退きが少なくて済んだと述べている[42]。須田は大野の影響について「駅名に『岐阜』を付けてほしいとは言ったようですが、伴睦さんが羽島に駅を造らせたということは絶対にない」としている[42]。
なお、岐阜羽島駅前には大野夫妻の功績を顕彰する銅像が建てられているが、これは開業の4ヶ月前に逝去した大野の支持者が造立したものである。
滋賀県栗東市下鈎地先、東京駅起点452km050m付近(米原から約43.8 km、京都から約24.3 km)に設置が計画された東海道新幹線の新駅。設置されると東海道新幹線としては18番目の停車駅となるはずだった。この駅が計画された米原駅 - 京都駅間は68kmあり、駅間の距離が平均30kmの東海道新幹線の中では一番駅間距離が長い区間である。
2002年4月、滋賀県・栗東市・促進協議会と東海旅客鉄道株式会社の四者で、東海道新幹線(仮称)びわこ栗東駅設置にかかる『基本協定書』を締結し、新駅設置が正式決定した。2005年12月にはこの関係四者で「東海道新幹線米原・京都間新駅設置に関する工事協定書交換式」を行い、2012年度の開業を目指し2006年5月に着工した。
しかし、2006年7月に実施された滋賀県知事選挙で、新駅の「限りなく中止に近い」建設凍結を掲げた嘉田由紀子候補が、当時現職で新駅建設推進派だった國松善次候補を破って当選したのをきっかけとして建設工事は中断となった。 滋賀県知事および滋賀県議会の多数派は建設凍結の立場であり、一方、栗東市長および栗東市議会の多数派は建設促進の立場だった。しかし、2006年の栗東市長選や2007年の市議会議員選挙では凍結派+中止派の票数が推進派の票数を上回り、市民の意見が分かれた。 最終的には地元合意締結の期限である2007年10月28日の促進協議会で、凍結・中止を求める滋賀県と建設続行を求める栗東市長の意見はまとまらず、10月31日を期限としていた地元意見の集約が図れないため、JR東海との工事協定は白紙となり建設中止が決まった。
東海道新幹線の京都府内のルートは、弾丸列車計画の時代から様々な案が検討されてきた。戦前の計画では、比叡山をトンネルで通過し京都市の北西部に駅を設ける案、東山の南側を通過し伏見付近に駅を設ける案、現京都駅に併設する案などが比較された[44][45]。
東海道新幹線の建設に際し新幹線京都駅をどこに設置するかについては、計画段階では3つの案があった。1つ目は京都駅の南約2kmの奈良線稲荷駅北方付近に設置する「南案」、2つ目は現駅に併設する「併設案」、3つ目は京都駅の北約1.5kmの五条通地下を通し烏丸五条(現烏丸線五条駅)付近に設置する「北案」である[46]。これらは交通連絡、周辺環境、用地取得費、工事費などの観点から検討された。建設費は南案が最も安価で用地取得件数も少なく済むと評価されたが、最終的には地元の強い要望および用地買収への協力もあり、1960年4月に京都駅へ併設する案が採用された[47][48]。
新幹線開業前の計画では、東京-新大阪間の「超特急」(後の「ひかり」)の停車駅は名古屋駅1ヶ所だけであり。京都駅には停車しない予定だった。しかし、この計画に対し京都市長高山義三、京都市会、京都商工会議所など政財界は停車させるよう強く陳情した。1963年7月には運輸大臣綾部健太郎も超特急の京都駅停車を支持した。その後も検討が続けられ、開業まで1ヶ月少々となった1964年8月18日に、ようやく超特急の京都駅停車が正式決定した[49]。
中央新幹線(リニア中央新幹線)の建設については、基本計画路線時点では「奈良県奈良市附近」を主要な通過地とされていた。これに対し京都府や京都市は、同ルートは東海道新幹線のバイパス路線として計画されたものであり、リニア中央新幹線は京都を通過するルートが適切であるとして、1990年(平成2年)に「京都府中央リニアエクスプレス推進協議会」を設立して誘致活動を行っている[50]。しかし、JR東海と日本国政府は否定的な考えを示している[51]。また、三重県、奈良県、大阪府など周辺自治体からも支持を欠いている[52]。
事業および建設主体となるJR東海の柘植康英社長は2016年7月20日の記者会見で「国の整備計画が基本にあり、これに基づいて作業を進めていく」と、奈良市付近を通って新大阪駅に至る路線で進める考えを明らかにしており、京都駅を経由する可能性は無い[53]。産経新聞による関係者への取材によれば、京都市を経由するとカーブがきつくなり、走行速度が落ちるなどの弊害が出るとして、否定的な見解が示されているという[54]。
西明石駅同様、相生駅は当初山陽新幹線で予定されていた「夜行新幹線運転構想」に備えて(線路保守のために夜間は低速の単線運転とするため、適当な間隔で交換駅が必要)設置された[55]。
岐阜羽島駅と同じく運用上の配慮から30 - 40km間隔[注 14]での駅配置が図られた結果、広島駅と徳山駅の中間に当たる位置に新岩国駅が設置された[56]。
当時の国鉄は、自民党議員の圧力により地方へ鉄道を建設し続け、年々赤字が大きくなっていた。そのころ東海道新幹線のバイパス線である「北回り新幹線」が構想された。新宿から松本(長野県)を抜けて北陸に出るというのが当初のルートであった。
ちょうどその頃、自著の「日本列島改造論」で新幹線建設の機運を高めた田中角栄は日本鉄道建設公団法を成立させて日本鉄道建設公団を作り、収益の見込めない地方ローカル線の建設を進め(例:只見線の全線開通)、国鉄による建設がまだ始まっていなかった上越新幹線を着工させた、と言われる。日本鉄道建設公団は日本鉄道建設公団法によって「内閣の指示で建設を行なう」ものとされ、また完成した線路は建設費と共に「国鉄に譲渡できる」とされた(国鉄の予算は国会での承認を得なければ執行できなかったので、内閣の意向と国会の大勢が一致していればまさに「思いのまま」であった)。このことは、国鉄の分割・民営化に際し、永らく田中に仕え「側近」とも言われた秘書の早坂茂三をして「国鉄を愛したはずの『親父』(注:田中のこと)が国鉄に対してなした最大の罪悪」と言わしめた。
このような事情を体現するかのように、田中の選挙区内を経由する上越線の浦佐駅(南魚沼郡大和町→現:南魚沼市浦佐)は、新幹線開業以前は特急「とき」1往復と一部の急行が停車するだけのローカルな小駅だったが、近隣の北魚沼郡 小出町(現:魚沼市)にある小出駅、南魚沼郡六日町(現:南魚沼市 六日町)の六日町駅といった主要駅があるにも関わらず、それらではなく、両町の中間点にあたる浦佐駅が突然新幹線停車駅に決定した。これには地元の住民でさえ奇異の念を抱く者が少なくなく、小出・六日町の両町からも「何故我が町を差し置いて」などと異議を唱える声が上がった。
田中が選挙区としていた旧新潟3区内には越後湯沢駅、浦佐駅、長岡駅、そして燕三条駅の計4駅が存在する。長岡市は県内第2の都市であり[注 15]、三条市・燕市も周辺に約30万人の都市圏を有する。湯沢町も新潟県を代表するリゾート地のひとつで、1997年に北越急行ほくほく線が開通し、2015年3月に北陸新幹線が金沢駅まで開業するまで、越後湯沢駅は関東地方から北陸地方への重要な乗換駅となっていた。しかし、浦佐駅は現在も、朝夕を別にすれば、広いコンコースやホームは人気が疎らで売店すらなく、がらんとした空間が広がっている(改札外に「NEWDAYS」があるのみ)。
ただし一方で、浦佐駅も地理的には岐阜羽島駅と同じく運用上好都合な30 - 40km間隔の駅配置で、越後湯沢駅と長岡駅との中間地域である。魚野川流域でも最も東寄りになる小出は拠点間ルートから大きく東に外れ、さらに小出駅の構内が狭隘である事、また六日町駅も越後湯沢駅に近過ぎる事や高速運転に障害の大きいトンネル出口近傍に位置するという欠点により、距離的にも比較的妥当で、路線環境面で欠点がない浦佐駅が新幹線停車駅になったとの考え方もある。代わりに関越自動車道のインターチェンジは六日町と小出町には設置されたものの、大和町には長らく設置されなかった(その後大和パーキングエリアにスマートインターチェンジが設置された)。
なお、浦佐駅前には屋根付きで田中角栄の銅像が建てられている。
浦佐駅と逆の政治的意図で採用されたルートとしてこの長大トンネルを挙げる者がある。田中の政敵の福田赳夫が推進していた渋川駅への上越新幹線ホーム設置を阻止するために、高崎駅から直線ルートを採らせて中山トンネルを掘削させたという[要出典]のであるが、一般的な説ではない。ただし、渋川経由では渋川市街地での用地買収に困難が予想され、そして駅間距離が短くなってしまうこともあり、国鉄としても回避する理由となっている。また、沼田ダム計画や上毛高原駅周辺の開発利権の影響を指摘する意見もある。
整備新幹線として指定された路線のうち、北陸新幹線に関しては当初、部分的にミニ新幹線やスーパー特急方式を採用しての建設が予定されていたが、並行在来線問題や費用負担問題などを抱える沿線自治体などから納得いかないとして抗議運動が起こり、結局高崎駅 - 長野駅 - 金沢駅間に関しては全線がフル規格で建設される事になった。
また1997年に長野駅までが暫定開業した際は、北陸地方にはまだ達しておらず利用者の混乱の元になるとして、別の通称を用いる事にしていた。しかし「長野新幹線」とした場合、北陸地方の者に長野で打ち切りにされるという印象を与えてしまうとJR東日本は考え、「長野行新幹線」という名称を当初は用いることになった。だがほとんど定着せず、更に「長野新幹線」の呼称が当初から混合されて用いられたこと、北陸地方への延伸も決定してそのような配慮を行う必要もなくなったことから、間もなく「長野新幹線」に正式通称が統一された。
2015年3月、「長野新幹線」が金沢駅まで延伸されて、正式に「北陸新幹線」になった。金沢駅より先、敦賀駅までは建設に着手されているが、敦賀駅より西方についてはルートが長らく確定していなかった。整備新幹線の計画にある、小浜市を経由する「小浜ルート」のほか、米原駅で東海道新幹線に接続する「米原ルート」、琵琶湖西岸を経由する「湖西ルート」のほか、小浜市から京都駅を経由する「小浜・京都ルート」、さらには小浜市と京都駅の間で舞鶴市を経由する「舞鶴ルート」などの案が取りざたされた結果、与党整備新幹線建設推進プロジェクトチームが「小浜・京都ルート」を採用し[57]、京都駅と新大阪駅の間は京都府南部(学研都市線松井山手駅付近)を経由する「南回り案」を採用している[58]。
在来線沿線でも新幹線ルートから外れた場所に位置する長野県小諸市は、地元の小諸駅について東京直通の優等列車の停車が無くなり、第三セクターのローカル駅に転落する事などを恐れ、建設構想の段階では行政と観光などの諸団体が一致結束してフル規格化に反対し続け、小諸駅が停車駅となるミニ新幹線案を強硬に主張し、関連省庁への請願などを繰り広げた。しかし、小諸市を避けたルート(佐久市経由)でのフル規格建設が正式決定された。小諸市側は佐久市内に新設される新幹線駅(佐久平駅)の駅名を巡って「小諸佐久駅」という駅名とする事を求めて論争を引き起こしたが、結局、新幹線の駅名に「小諸」を入れる事にも失敗している。新幹線誘致に失敗した小諸市とは対照的に、佐久市では佐久平駅を中心に大型商業施設の開業が相次いでいる。なお、小諸市と佐久市はのちに上信越自動車道と中部横断自動車道のジャンクション名(仮称・佐久JCT)でも対立しており、こちらは「佐久小諸」に決定された。
また同新幹線の群馬県にある安中榛名駅も、現在はJR東日本による施工を中心に住宅開発(びゅうヴェルジェ安中榛名)が進みつつあるが、開業当初は駅前に見える建築物がほとんどなく、秘境駅の一つとして挙げられていた。
九州新幹線鹿児島ルートのうち新八代駅 - 鹿児島中央駅間が先行して飛び地開業したのは、鹿児島本線で需要の高い博多駅 - 熊本駅間に先に新幹線を作れば、採算性に疑問のある熊本駅以南の建設が行なわれるかどうか分からないとの判断のもとで行われた、鹿児島県側からの働きかけによる[59]。また、鹿児島本線の八代駅 - 鹿児島駅間は大半が単線で、しかも線路が海岸線に沿って敷かれている事から線形が劣悪で、高速運転化には抜本的な改良が必要であった。歴史的にも川内駅(薩摩川内市)経由のルートは現肥薩線経由で鹿児島本線を全通させた後で改めて敷設しなければならなかったほどの難所である。
一方で鹿児島ルートにある筑後船小屋駅は、それまでの船小屋駅を約500メートル南に移設し開業したが、移設前の船小屋駅は、駅周辺に小さな温泉街と公園があるだけの無人駅であった(同じく新幹線駅となる久留米駅までの所要時間は各駅停車で約15分程度)。一説には自由民主党幹事長を務めた古賀誠による影響が大きいとされ、「政治駅」的設置として一部週刊誌では報道されている[60]。ただし新幹線開業前、船小屋駅の両隣の瀬高駅と羽犬塚駅はいずれも特急が、全てではないものの頻繁に停車する駅であった。また船小屋駅は各駅停車のみ停車する駅であったが、筑後船小屋駅は開業後、在来線の快速全列車が停車する駅に昇格となり、駅前のHAWKSベースボールパーク筑後に福岡ソフトバンクホークス2軍本拠地が移転している。
なお、新鳥栖駅 - 武雄温泉駅(仮称) - 長崎駅間のいわゆる「九州新幹線西九州ルート」(長崎ルートとも呼ばれる)に関しては、着工認可の条件とされる『並行在来線沿線自治体すべての着工同意』に対して鹿島市などの複数の沿線自治体が不同意を貫いていたが、並行在来線の一部を上下分離方式によりそのままJR九州が運行することで合意にいたり、2008年にようやく一部区間が着工となった。その一方、新鳥栖駅 - 武雄温泉駅間は佐賀県側が開業後の利便性低下などから2022年現在も不同意を貫いている。
超電導リニアによる磁気浮上式リニアモーターカーの山梨実験線が長大なトンネルをうがって建設されているのは、設置場所の選定当時の有力政治家であった金丸信の地元山梨県である。宮崎実験線に代わる実験線の建設地選定にあたっては、当初は札幌 ‐ 新千歳空港間が最有力視されていたので、これも政治介入の結果と言える。
1978年以来旅客者数世界一となっている羽田(東京国際空港)線を抱えている新千歳空港と北日本最大の都市である札幌市とのアクセスは決して良好とは言えず、2018年時点でも新千歳空港駅から札幌駅まで快速エアポートの最速達列車でさえ37分を要する。また、快速エアポートが運航されている千歳線は、積雪期以外でも日常的に遅延が発生し、空港利用客への影響がみられる。しかし、リニアが運行された場合は所要時間は8分とされ、大幅にアクセスが改善されると考えられていた。さらに、山梨県ルートのように実験線の10倍以上もの区間を延伸工事することなく、そのまま営業路線に転用できる点も有力視されていた。
その一方で、これもトンネル区間が多い方が技術試験を行う実験線としては有効であり、また人口の比較的少ない山梨県で殆どトンネルの区間を建設するだけならば、用地買収や騒音にまつわる問題や手間が少なくて済むとも考えることもできる。同線は将来、リニアモーターカーによる中央新幹線が開業した場合の予定線上に建設されている。トンネル断面は、仮にリニアモーターカー路線計画が頓挫した場合には、大規模な再掘削を行わずに鉄軌道式の新幹線へと転用できるようにという配慮から、リニア車体に対して大き目のサイズで設計されている。しかし、このような配慮は多額の費用を投じて実験を行う上では必要なことであり、実験線が山梨県であろうが、札幌 ‐ 新千歳空港間であろうが同様になされるものと考えるのが自然である。
ただし、中央新幹線のルートについては、JR東海は南アルプスをトンネルで直進・縦断するルートで建設に着手している。しかし長野県と中央本線沿いの地方自治体は、既存の中央本線に沿って南アルプスを北方に迂回する伊那谷経由のルートによる路線敷設と、県内への複数の駅設置を熱望して対立し、JRの計画線上にある飯田市などの下伊那郡の自治体と、長野県の構想線上に位置し駅設置を主張する諏訪地域(諏訪市など)・上伊那郡の自治体もまた路線誘致で争う状態が見られた。
他方では、この問題について伊那谷経由を主張する長野県庁や、当時の長野県知事である村井仁の態度・主張が余りにも頑なであった事などから、噂程度のものとはしながらも、「JR東海が長野県を忌避して、山梨県から南下し南側の静岡県を通過して愛知県に至るルートを採る可能性」、すなわち、いわゆる鉄道忌避とは逆に「鉄道側が地方政治を忌避してルートを選ぶ可能性」について、一時はマスメディアが言及する状況も見られた[61]。そんな経緯もあり、沿線住民の市民団体が連携して「リニア新幹線沿線住民ネットワーク」が2016年5月20日に採算面・安全性・環境面の問題でリニア着工認可の取り消しを求めた訴訟を東京地方裁判所で起こしている[62]。この訴訟や市民団体活動で川崎市長や静岡県知事には明らかな影響が見られている。(中央新幹線#計画についての反対意見・訴訟・行政対応を参照)
新幹線の建設ルートから外され「疲弊した地方」の象徴的な存在といえるのが先述の長野県小諸市のほか、鹿児島県阿久根市が挙げられる[63]。また、新幹線ルート上にあっても駅が設置されなかった自治体では、地域の発展から、自らの自治体が取り残されることを恐れ、新幹線開通後にも地元への駅新設が、市政における大きな課題となることが珍しくない(例:長野県千曲市[64])。
他方では、新幹線開業で大都市への交通が至便となった結果、地方から企業支店・出張所が撤退したり、若年層が流出していくストロー効果も生じつつある(この現象は日本の高速道路の建設でも同様に発生している)。一例としては、福井県鯖江市では北陸新幹線越前たけふ駅から遠くなることを懸念して、「特急サンダーバード・特急しらさぎの存続を実現する会」が活動している[65]。
整備新幹線開業に際しては、並行在来線を第三セクター鉄道として地元負担で維持する必要も生じたが、大きなパイである拠点間輸送が新幹線に移行した結果、ローカル輸送頼みの並行在来線は経営基盤が脆弱化し、各地の地方自治体が多額の費用拠出を強いられるなどして対応に苦慮している[66]。
また、福井県においては原子力行政と絡められ、原子力発電関連施設(敦賀市のもんじゅ)の運転再開への事実上の交換条件として、日本国政府による「北陸新幹線の敦賀駅までの建設決定」という言質を、福井県知事の西川一誠が強硬に要求したことがある[67]。
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