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日本の漫画家、アニメーション作家 (1909-2001) ウィキペディアから
横山 隆一(よこやま りゅういち、1909年5月17日[1][2] - 2001年11月8日[1][4][5])は、日本の漫画家・アニメーション作家。高知県高知市[1]出身。
政治風刺漫画が主流だった1930年代日本の漫画界において、簡略な絵柄と明快なギャグによる欧米流の「ナンセンス漫画」を志向した若手グループ「新漫画派集団」を結成し[6]、やがて戦中・戦後初期の漫画界をリードした。戦後にはアニメーション制作会社「おとぎプロダクション」[3]を設立したほか、広告・絵本のイラストレーションや、油彩画を描いた[1]。
高知市堺町[2][4][5]に生まれる。公式の誕生日(戸籍上の生年月日)は5月17日であるが、横山自身は母から、名付けの遅れのために届け出が遅れ、本当の生まれた日付は5月10日であったことを伝え聞いているという[7]。6人きょうだいの第2子[7]で長男[1]。もとの生家は裕福な生糸問屋であった[7]が、14歳のときに父親が死去。一家は没落し、母親が出稼ぎのために高知市を離れたため、きょうだいは複数の親類宅に離れ離れに預けられ、その後横山が経済的に成功するまで、長らく離散状態となる[8]。このころ、似顔絵や、チョークに裸婦像を彫刻したものを同級生に売って小遣いを稼いでいた[8]。
1927年[4]、旧制高知県立高知城東中学校(のちの高知県立高知追手前高等学校)卒業[1][2]の翌日より[5]、就職を目指すため横浜市の叔父(父の弟)宅に寄寓し、中学時代の経験から美術家をこころざすも、東京美術学校の受験に2回[1][6]、また東京高等工芸学校の受験にも失敗する[9]。横浜職業補導所へ通い、大工の技術を学ぶかたわら、関東学院英語科夜間部に通った[9]。やがて、いとこが美術モデルをしていた関係で、画家・高橋虎之助と知遇を得て、1928年[1]、高橋の教えを受けて川端画学校に合格[10]。同年暮れには同郷の新聞記者・澤本孟虎(澤本江南)の紹介[11]で、やはり同郷の彫刻家・本山白雲に弟子入り[1]。
この頃、居候生活から逃れるために入り浸った図書館で、雑誌に多く掲載されていた海外のナンセンス漫画にはじめて接し[9]、それまでの日本の風刺漫画などと異なり「描かれた線がきれいで」「内容がわかりやすく、くり返し見てもおかしく面白かった」と大きな衝撃を受ける[12]。また当時、日本の漫画界では山本鼎、石井柏亭らファインアートの画家による「コマ画[13]」制作が盛んな時期であり、これらの持つ叙情性やユーモアにも大きな影響を受ける[12]。居候生活の脱却を目指した横山は、1929年頃[5]からギャグを志向した1コマ漫画の投稿を開始する[9]。叔父宅を離れ、本山宅に住み込むようになると、『アサヒグラフ』『新青年』[1]など本山のもとに届く大量の雑誌の懸賞漫画に次々と応募するようになり、より広く作品が採用されるようになる[11]。体力に乏しかった横山は、重労働である銅像制作の現場に不向きと判断され、東京の本山の本邸を離れ、神奈川県鎌倉郡片瀬村(のちの藤沢市片瀬)にあった本山の別邸の管理をまかされるようになった[14]が、本山は横山の漫画の腕に理解を示し、投稿活動の継続を許す[14]。横山は買い出しに訪れた鎌倉郡鎌倉町(のちの鎌倉市)の書店で新創刊の『月刊マンガ・マン』を知り、投稿常連となる[14][6]。やがて横山は、本山に漫画家への転身をすすめられて堤寒三を紹介され、堤の門下に[1]、のちに岡本一平の門下に転じる[2]。また、若手投稿家のグループ「漫画研究会」に入会するも、プロレタリア漫画が主流のグループで、会合はほとんど政治論争となって「ペンの話」にならなかったため、すぐにグループを離れる[15]。
1930年、いとこ(上記とは別人)が東京・大塚に書店を開業し、手伝いを請われたため、本山の元を離れる[16]。かつての投稿先である『新青年』で、1931年2月号より掲載小説の挿絵の担当を開始し、実質的なプロデビューを果たす[17]。また同年、ピー・シー・エル映画製作所に入社し、アニメーション技術の習得と研究に従事する[18]。挿絵画家としての活動と並行し、『アサヒグラフ』連載のジョージ・マクマナス『ジグス(親爺教育)』の書き文字の日本語リライトを担当した(翻訳は中里富次郎)[19]。
この頃、『月刊マンガ・マン』の投稿者から社員に転じていた吉田貫三郎と親しくなった[16]ことをきっかけに、『月刊マンガ・マン』の寄稿者で、岡本門下だった近藤日出造や杉浦幸雄らと知り合った[1]。昭和初期の漫画界は文壇・画壇をもじって「漫画壇」とも呼ばれ、新聞や雑誌は少数のベテランが独占しているような状態で、横山ら若手はプロとしての発表の場がなかなか得られなかった。横山・近藤・杉浦の3人を中心に「漫画市場に若手が結束して売り込もう」「殴り込みをかける」といった意見が高まり[6]、1932年[1][4]に「新漫画派集団」の結成にいたった。同年には[17]、北澤楽天が横山の漫画に惚れ込み、時事新報社の自身の部屋に横山を招き、面会をしている。この経験は横山に自信を与えたという[6]。
「線を大胆に簡略化した絵と奇抜な発想[6]」で抜きん出ていた横山は、「新漫画派集団」の中で最初に名が売れていった。杉浦は横山の作風を「昭和のピカソ」と評し、「奇想天外の発想はだれもついていけなかったのに、みんながマネをしようとして失敗した」と語っている[6]。
経済的に余裕が出た横山は、離れ離れになっていた母や妹を東京・本郷に呼び寄せ、同居を再開する[20]。1935年10月、郷里の知人の妹と結婚[20]。1936年1月、朝日新聞東京版朝刊に『江戸っ子健ちゃん』を連載開始。サブキャラクターのフクちゃんに人気が集まったため、同年に『フクちゃん』と改題。掲載媒体を変えながら1971年まで連載が継続し、横山の代表作となった。1937年、一家で鎌倉に移住する[21]。
開戦後の1942年1月[22]、陸軍報道班員として、小野佐世男、大宅壮一、武田麟太郎[23]らとともにジャワ島へ派遣された。ジャワへ向かう際、バタビア沖海戦に巻き込まれ、乗っていた輸送船・佐倉丸が沈没するも、九死に一生を得る。復員後の1945年3月末、空襲の激化にともない、母と妹を郷里の高知に、妻と子供を近藤日出造の世話で長野県小県郡神科村(のちの上田市)に疎開させる[24]。横山も5月に神科の妻子のもとに合流するが、8月2日に妻が病死[25]。ほどなく終戦となり、失意のうちに鎌倉に戻るも、心労や栄養失調のために腎臓を病む[25]。多くの漫画家たちが応召や疎開のために東京を留守にする中、鎌倉在住で仕事場や画材が焼けなかった横山がいち早く病を押して仕事を再開し[25]、清水崑、矢崎武子、田河水泡らとともに『新夕刊』漫画部の嘱託となる[26]。10月、横山らは「新漫画派集団」を「漫画集団」に改組[26]。戦後初期から昭和中期を通じ、新進の漫画家を多く世に出すことに貢献した[6]。
やがて、毎日新聞の専属[27]となり、『ペ子ちゃん』『デンスケ』[5]をへて、『フクちゃん』の連載を再開。また、戦前から横山の仕事場を手伝っていた前妻の兄の娘(義理の姪)と再婚する[28]。1951年、毎日の特派員団の一員としてサンフランシスコ講和会議取材のためアメリカ合衆国に長期滞在[27]。その際、戦前からの念願であるアニメーション制作の参考のため、ウォルト・ディズニー・アニメーション・スタジオを見学。その際にウォルト・ディズニー本人とも会談を果たした[29]。
1956年[5]、アニメーション制作会社「おとぎプロダクション」[3](おとぎプロ)を設立。自主上映の短編アニメ、劇場用アニメ映画、テレビCM用のアニメ素材[30]のほか、1961年に、日本初の連続テレビアニメシリーズ『インスタントヒストリー』を制作した[31]。
1971年の『フクちゃん』連載終了後は連載漫画家としての活動を控え、児童文学の挿絵や絵本の制作を手掛けた。
2001年11月8日[5]、脳梗塞[4]のため鎌倉市内の病院で死去[3]。翌年に「横山隆一記念まんが館」が開館することが決定していたが、開館を待たずに亡くなった。
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