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土家 由岐雄(つちや ゆきお、1904年(明治37年)6月10日 - 1999年7月3日)は、日本の児童文学作家。本名は土屋姓である。
東京都文京区に生まれる。少年時代に図書館に通って巖谷小波の作品を愛読したことがきっかけとなり、児童文学作家を志望する[1]。小学校を卒業してからは三菱の関連会社の給仕のかたわら、児童文学雑誌への投稿を行い、40編あまりの作品が入選を果たした。東京工学校採鉱冶金科卒業後は三菱商事や東京都教育局や少国民文化協会などに勤務しながら数冊の作品を発表していたが、1945年(昭和20年)に小国民文化協会が解散すると、執筆活動に専念する。
戦後は幼年童話の分野でも活動を始め、小学館児童文化賞を受賞した『三びきのこねこ』や、『かわいそうなぞう』が注目を集める[2]。1971年『東京っ子物語』で野間児童文芸賞を受賞し、1975年には児童文化功労者として、日本児童文芸家協会から表彰された。
多くの児童文学作品を発表する一方で、児童を対象にした童句を創始し、複数の作品集を発表した。1992年1月から1999年3月まで、読売新聞日曜版の「童句」欄の選者を務めていた。晩年は埼玉県狭山市に在住していたが、狭山市の智光山公園子ども動物園前には土家の句が刻まれた童句碑が建っている。
1999年心不全のため死去。95歳没。葬儀は故人の遺志で行わなかった。
1940年代に発表された『虹の出帆』は土屋の代表作の1つで、マレー半島を舞台に少年が活躍する長編の少年小説だが、三菱商事のシンガポール支店に勤務した体験が生かされている[2]。
また、野間児童文芸賞を受賞した『東京っ子物語』は土家の自伝ともいえる長編で、職人気質の俳人である父とその息子である少年の生活を淡々と描いた作品である。土家が60代後半まで住み続けた東京の山の手の文化風俗や人情を、童話の形を用いて子供の視点から描いている[3]。
日本人が『ロビンソン・クルーソー』や『宝島』のような冒険小説を執筆したことで面目を果たした[4]として、『虹の出帆』は文部省の児童図書推薦事業にて推薦を受け、文部大臣奨励賞を受賞した。当時の世評も高かったが、識者の間では児童文学の新風として評価する立場と、通俗的な読物に過ぎないとみなす立場とに分かれた[5]。
『かわいそうなぞう』は教育出版と学校図書で、小学2年生用の国語の教科書に採用され、幼年層を対象とする戦争児童文学の代表的な作品として知られるようになった[6]。一方で戦時猛獣処分を軍部の命令とするなど誤った記述も広まることになった(実際は大達茂雄東京都長官の行政命令)。
(その他多数の絵本、再話)
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