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マキノ映画製作所(マキノえいがせいさくしょ、1923年 設立 - 1924年 合併)は、かつて存在した日本の映画会社である。1920年代(大正末期)の日本映画において活動し成功した、初期の独立プロダクションである。俳優だった衣笠貞之助を監督としてフル稼働し、大部屋俳優であった阪東妻三郎をスターにし、20代前半の若者たちを脚本家・寿々喜多呂九平、映画監督・二川文太郎、井上金太郎としてデビューさせた。
1923年(大正12年)6月1日、先駆的映画監督である牧野省三が設立した[1]。
牧野が1919年(大正8年)に設立した「教育映画」の製作会社「ミカド商会」は、牧野の独立に脅威を感じた横田永之助によって日活に吸収された。牧野もいったん日活の一監督に戻るが、ふたたび1921年(大正10年)に「牧野教育映画製作所」を設立、大活出身の20代の若者たちや国活の人材を得て、さらに俳優・衣笠貞之助を映画監督としてデビューさせ、「教育映画」の枠も取り払った自主製作・自主配給の力をつけ、満を持してこの「マキノ映画製作所」に改組した。牧野は本格的に監督および映画プロデューサーとしての仕事を続行した[2]。また牧野は「マキノ青司」の名も使用した。撮影所は「牧野教育映画製作所」として1921年に京都市北区等持院北町の等持院境内に設立した「等持院撮影所」をひきつづき稼動、配給は「浅草大東京」をトップにひきつづき自主配給を行った。
改組第1回配給作品は、市川幡谷主演の『三好清海』、牧野省三監督の『弥次と北八 第一篇』、そして衣笠貞之助監督の現代劇『二羽の小鳥』の3本立て興行で同年6月1日に封切られた。3か月間フル稼働で毎週2-3本のプログラムを供給していたが、同年9月1日に起きた関東大震災で浅草を中心に興行ラインが壊滅、作品がストップした。日本全国でも9月に作品を供給できたのは松竹蒲田撮影所と帝国キネマ(帝キネ)だけの5本きり、松竹は蒲田から下加茂へと移転すべく建設を開始した。混乱に乗じた日活の横田が、大手他社によびかけ、マキノを中心とした独立プロ排撃の動きに出た[3]。マキノは東京府下豊多摩郡淀橋町角筈成子坂下(現在の新宿区西新宿8丁目)の「成子不二館」をトップに公開するようコンバート、年内をしのぎ、さらに同年11月には「マキノキネマ株式会社」を設立[4]、西陣に直営館マキノキネマをオープン、独自のチェーンを組み始めた。
年末12月31日公開の正月映画として、金森万象監督の『青春の悲歌』を「成子不二館」に、おなじく金森監督の『祇園情話 蕾のまゝ』と後藤秋声監督の『男が妻を選ぶ時』の2本立て番組を復興後の浅草に建った「浅草オペラ館」にきっちり供給した。さらには明けて1924年(大正13年)の正月、1月2日、牧野省三・沼田紅緑監督の『恐怖の夜叉』で復興した「浅草大東京」に復帰した。平行して不二館・オペラ館番組も供給し続けた。同月、日活・松竹・帝キネ・マキノの4社で、検閲の統一や配給制度の確立、引き抜き防止等を目的に「日本映画製作者協会」を設立した[4]。
1922年(大正11年)春、横浜の大活にいた知人山内英三(のちの映画監督)のツテで牧野監督の『実録忠臣蔵』の試写を観た22歳の寿々喜多呂九平は、いきなり京都入りして「牧野教育映画製作所」の文芸部に入社した。同じ下宿にいた阪東妻三郎、二川文太郎、井上金太郎ら俳優と映画論を戦わせ、まだ無名だった阪東を牧野に推薦する。翌年の「マキノ映画製作所」設立の翌月には、牧野・金森共同監督による市川幡谷主演作品『紫頭巾浮世絵師』で、牧野は寿々喜多を脚本家としてデビューさせた。同社で24作の脚本を量産、寿々喜多のニヒリスティックな脚本は、阪東を一躍スターにした[5]。
同社は「牧野教育映画製作所」開業と同時に入社した横浜・大活出身の俳優二川文太郎、井上金太郎をそれぞれ監督としてデビューさせた。二川24歳、井上21歳のときであった。1924年4月4日封切の浅草大東京の番組は、二川・井上そして後藤監督、寿々喜多呂九平脚本による短篇大会となった。また国活の角筈十二社撮影所長を辞めた桝本清に1本監督させ、国活脚本部にいた23歳の志波西果に数本の脚本・助監督を経験させたあと監督としてデビューさせ、長尾の助監督村田武俊、高松豊次郎の「活動写真資料研究会」の俳優兼監督井上麗三にも1本監督させている。
また1924年4月、新進作家直木三十五(当時「直木三十三」)が書いた小説『心中きらゝ坂』が、大阪プラトン社の雑誌『苦楽』に掲載されているのを読んだ牧野は、たまたま同月撮影所に招待したプラトン社の小山内薫と川口松太郎に同伴した直木に映画化を要望、「マキノ青司」名で自ら脚本執筆、『雲母阪』のタイトル、阪東の主演で映画化、2か月後の6月20日には完成、公開された。以降、直木は映画に傾倒し、翌年3月には奈良で映画制作プロダクション「連合映画芸術家協会」を旗揚げすることになる[6]。
1924年(大正13年)7月、牧野は東亜キネマとの合併を呑むが、その後の1925年6月、マキノ・プロダクション(1925年 設立 - 1932年7月 解散)を設立、完全に独立する。
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