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日本の女優 (1920–2015) ウィキペディアから
原 節子(はら せつこ、本名:會田 昌江(あいだ まさえ)、1920年〈大正9年〉6月17日 - 2015年〈平成27年〉9月5日)は、日本の女優[1]。
はら せつこ 原 節子 | |||||||||||
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『画報現代史 第3集』(国際文化情報社、1954年) | |||||||||||
本名 | 會田 昌江(あいだ まさえ) | ||||||||||
生年月日 | 1920年6月17日 | ||||||||||
没年月日 | 2015年9月5日(95歳没) | ||||||||||
出生地 | 日本・神奈川県橘樹郡保土ヶ谷町帷子(現在の同県横浜市保土ケ谷区月見台)[1] | ||||||||||
死没地 | 日本・神奈川県 | ||||||||||
身長 | 165 cm[2] | ||||||||||
職業 | 女優 | ||||||||||
ジャンル | 映画 | ||||||||||
活動期間 | 1935年 - 1963年 | ||||||||||
配偶者 | なし | ||||||||||
主な作品 | |||||||||||
『わが青春に悔なし』(1946年)[1] 『安城家の舞踏会』(1947年) 『お嬢さん乾杯』(1949年) 『青い山脈』(1949年)[1] 『晩春』(1949年) 『麦秋』(1951年) 『めし』(1951年) 『東京物語』(1953年)[1] 『秋日和』(1960年) | |||||||||||
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戦前から戦後にかけての日本映画を代表する女優のひとりで、「永遠の処女」と呼ばれた。『晩春』(1949年)や『東京物語』(1953年)などの小津安二郎監督作品の出演で知られ、ほか『わが青春に悔なし』(1946年)、『青い山脈』(1949年)、『めし』(1951年)などに出演した。
神奈川県橘樹郡保土ヶ谷町帷子(現在の横浜市保土ケ谷区月見台)に於いて、尾上町で生糸商を営む会田藤之助、母・ナミの間に末っ子として生まれた。兄弟は男2人、女5人であった[4]。三番目の姉の子が映画監督の木下亮である[5][6]。保土ヶ谷尋常高等小学校(現・横浜市立峯小学校)から私立横浜高等女学校(現・横浜学園高等学校)[7][8]に進むが、家庭が経済的に困窮していたこともあり、次女光代と結婚していた映画監督の熊谷久虎の勧めに従って映画界に入ることにし[注釈 1]、女学校を二年で中退した[1]。一年の時には、後に小説家となる中島敦から直接の授業を受けている[10]。
1935年4月15日、日活多摩川撮影所に入社し、同年の日活映画『ためらふ勿れ若人よ』(田口哲監督)で映画デビュー。同作で演じた役名「節子」は芸名の「節子」と一致していた[11][注釈 2]。
1936年、第7回出演作品『河内山宗俊』撮影中に見学にきたドイツのアーノルド・ファンク監督の目にとまり、初の日独合作映画『新しき土』のヒロイン役に抜擢される。ファンクは当初、田中絹代も一緒にキャスティングしようとしたが田中が松竹の専属であったためにかなわず、原のみのキャスティングとなった。伊丹万作監督も請われて協力したこの作品は、結果としてファンクが編集した版と、ファンクと対立した伊丹が編集した版の両方がつくられてどちらも公開された。
1937年3月12日、原は義兄熊谷久虎や東和の川喜多長政らと共に下関から海路大連に向かった。そこからシベリア鉄道を利用して3月26日にベルリンに到着。先に帰国していたファンクが一行を出迎え、アドルフ・ヒトラーはじめ、ナチ党幹部がこの映画をすでに見ており、皆から高評価を受けたと伝えた。宣伝省の工作もあって、原はドイツ各地で大歓迎された。この後一行はフランスからアメリカへ渡り、7月28日に帰国した。この『新しき土』における日独合作映画の製作は、11月25日に締結される日独防共協定の交渉と準備のための両国スタッフの往来をカモフラージュするためのものだったという[12][13]。
11月30日に発足した東宝映画株式会社に移籍。『新しき土』への出演によって一躍、銀幕のスターダムに駆け上がった原だったが、「もっと勉強してからスターになるべきだった」と小杉勇が述懐したように、しばしば演技が未熟であるという批判にさらされることになる[14]。今井正によれば、戦中の原は義兄熊谷久虎[注釈 3][15][16]に影響されて「ユダヤ人謀略説」を唱えていたという[17]。太平洋戦争中は、1942年の『ハワイ・マレー沖海戦』をはじめ『決戦の大空へ』、『勝利の日まで』、『望楼の決死隊』などの戦意高揚映画に数多く出演している。終戦後の一時期は、『ハワイ・マレー沖海戦』などの特撮を手掛けた円谷英二の自宅に下宿していた[18]。
1946年9月、終戦の翌年に原は資生堂のイメージガールに起用され、戦後初の多色刷りポスターが街中を賑わせた。さらに黒澤明監督の戦後初の作品『わが青春に悔なし』のヒロインに抜擢される。当時の東宝はいわゆる東宝争議のさなかにあり、そのあおりを受けた原は新東宝映画製作所に移る。
1947年6月、フリーの女優として独立する[19]。フリー第1作は初の松竹出演作品となった『安城家の舞踏会』(1947年)であった。同作のヒットで原は戦後のトップ女優としての地位を確立した。
1949年、『青い山脈』では女性教師役を演じ、服部良一作曲の同名主題歌とともに映画も大ヒットした。初めて小津安二郎監督と組んだ作品『晩春』に出演。1961年、『小早川家の秋』まで小津監督の6作品に出演を果たすことになる。
原は一般的に小津作品での印象が強いが、出演作の中でもっとも多くメガホンをとったのは山本薩夫監督(7本)であり、以下6本で小津、島津保次郎、渡辺邦男、今井正が続く。小津監督は女優としての原節子を絶対的に高く評価し、自らの作品に起用し続けた。
1949年(昭和24年)、『晩春』『青い山脈』『お嬢さん乾杯』の演技が評価され、毎日映画コンクールの女優演技賞を受賞した。ルックス先行の人気、とささやかれてきた原にとって演技面での評価をうけることは長きにわたる宿願であった[20]。1952年の『東京の恋人』以降、しばらく出演作が途絶えたことでマスコミから「伝説の存在」と表現されるようになった(1953年公開の『恋の風雲児』は1945年作品)[21]。原が現場に復帰した1953年、『白魚』の御殿場駅での撮影中に原の眼前で、東宝のカメラマンであった実兄会田吉男が助手の伊藤哲夫と共に列車に撥ねられ不慮の死を遂げるという悲劇に遭った。小津監督と原の代表作になった『東京物語』はこの事件の直後にクランクインしている[22][23]。1954年、原は体調を崩して通院を繰り返すことになり、引退をささやかれるようになった[24]。
体調が回復した1955年公開された『ノンちゃん雲に乗る』では初めて母親役を演じる。
1956年、『婚約三羽烏』が原にとって初のカラー作品となった。
1962年、稲垣浩監督による東宝創立30周年記念作品『忠臣蔵 花の巻・雪の巻』が封切られ、原は大石内蔵助の妻りくを演じた。これが原にとって最後の出演作品となった。
1963年12月12日、小津監督が還暦の誕生日に東京医科歯科大学附属病院で没し、その通夜に出席したのを最後に原は女優業を事実上引退し、以降表舞台には一切姿を見せなくなった[1]。晩年の原は鎌倉市で親戚と暮らしているとされ、近況に関してはほとんど外出しないが元気であったということだけが伝えられた[25]。引退に関しては「老いていく姿を人前に晒したくないと考えていた」「撮影用のライトで白内障を患い、健康上の理由で引退を決意した」「戦前の国策映画に出演していた自分の責任を強く感じており、けじめをつけるべきだと考えていた」といった様々な憶測が飛び交ったが[25]、高橋治は原が「小津の死に殉じるかのように」公的な場から身を引いたと表現している[26]。当時、その理由として「畳の上での芝居がしづらくなったから」と岡田茉莉子に語っている[27]。引退後は好きなだけ海外旅行へ行きたいと語っていたが、海外旅行どころか国内旅行にさえ一切行かず、晩年には外食さえしなかったと言われている[28]。同年に東宝が毎年制作しているカレンダーはこれまで11年連続で原節子が1月を飾っていたが、前年より撮影を拒否し密かに引退を決意していたといわれる[29]。この年の1月は司葉子と藤山陽子だった。
1964年、東京都狛江市の実家から神奈川県鎌倉市の義兄・熊谷久虎宅の敷地内へ引っ越す[30][31][32]。
1965年、これまで東宝には「気に入った作品があれば出る」とお茶を濁していたが[33][注釈 4]、東宝に戻る気がないことを正式に通達し、映画に出なくなってから振り込まれた契約料を返却し、今後は一切振り込まないよう伝えた[34]。一方、1968年ごろまで東宝が年間契約料を払っていたという資料もある[31][注釈 5]。
1968年9月、小津との共同脚本家野田高梧の通夜に出たのを最後に、公の場から姿を消した[36][27]。
1969年、映画監督の成瀬巳喜男が亡くなったとき「会田昌江」名義で供花を送る[37]。
1973年、小津の没後10年を記念して信州蓼科に小津と野田の有縁地碑を建てるとき「会田昌江」名義で寄付をする[38]。
デビュー間もない頃、渡米した際にマレーネ・ディートリヒに頭を撫でられ、えらく感激したという逸話があったため[32]、1974年暮れにディートリヒが来日してディナーパーティをした時、四分六分で出席すると読み、報道陣が大挙押し寄せたが姿を見せなかった[32]。
1993年、笠智衆の通夜前に極秘に訪れ、一部の関係者に気付かれたのが最後の目撃であった[39]。
1994年、東京都内のかつての自宅の土地を売却し、約12億円の所得を得たことで、この年の高額納税者番付で全国の75位で登場し、話題となった[40]。
2015年9月5日、肺炎のため神奈川県内の病院で95歳の生涯を閉じた。原の訃報は、没後約2か月半が経過した11月25日にマスメディアで伝えられた[3][41]。
原節子は明確に引退宣言はしていないので、実質最後の作品になった『忠臣蔵 花の巻・雪の巻』(1962年)以降に限って記す。そのほとんどが隠し撮りであった。
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