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近藤 伊與吉(こんどう いよきち、1894年8月17日[1] - 1944年)は、日本の俳優、脚本家、映画監督である。村田実らの起こした新劇の劇団「踏路社」を振り出しに、映画俳優になり、映画も監督し、無声映画時代のスター俳優となったことで知られる。
その後上京し、1917年2月17日に村田実、青山杉作、関口存男、木村修吉郎らの起こした新劇の劇団「踏路社」(1917年 - 1920年)に参加し、俳優として舞台を踏む。1919年、25歳のとき、「天然色活動写真」(天活)の社員であり映画理論家として知られる帰山教正の「映画芸術協会」設立に、村田実、青山杉作らとともに参加、設立第一作『深山の乙女』および『生の輝き』にそろって出演する。両作は、同年9月13日に同日公開された。
1920年には、同協会の第3作目『熱球』を津田秀水とともに共同監督し、早くも26歳にして監督デビューを果たす。11本の映画に出演するかわたら、1921年には同協会の提携先である松竹キネマでやはり田中欽之との共同監督で『極光の彼方へ』を演出、翌1922年には平田延介を主演に『未来の大名優』を撮り、初めて単独で映画監督として立った。平田は、のちに山本嘉次郎と名乗り、映画監督となった黒澤明の師匠である。
「映画芸術協会」が活動を停止した1924年には京都に移り、日活京都撮影所第二部に入社、基本的には俳優として活動しながら、2本の映画を監督した。翌1925年後半にはマキノ・プロダクションに移籍、同社の京都の「マキノ御室撮影所」や東京の「マキノ東京撮影所」で出演、1926年には「マキノ東京」で『名士』を監督・脚本・主演をする。マキノが東京から引き上げても吾嬬撮影所に残り、同所を本拠地とする「タカマツ・アズマプロダクション」で主演もし、監督もした。同年内に松竹蒲田撮影所に移る。同年9月8日に42歳の若さで亡くなった映画監督トーマス・栗原への追悼文を、雑誌『映画時代』11月号に書く[2]。
1927年早々に京都に舞い戻り、「阪妻・立花・ユニヴァーサル聯合映画太秦撮影所」でつぎつぎに出演、監督もする。翌1928年、「自由俳優運動」を主唱して「マキノ御室撮影所」で脚本を書き、出演もした[3]。このころはすでにフリーランスであり、京都市外嵯峨角倉文化村(現在の右京区嵯峨天龍寺角倉町)に居を構えていた[3]。
1932年、大阪毎日新聞社の製作で、日活向島撮影所でアニメ短篇をつくっていた北山清太郎とともに、『円』という線画アニメを監督した。これが映画監督としては遺作になる。
その後、満洲映画協会で俳優学校教師[4]を勤めるなど不遇の時代を過ごし、のち系列の満洲演芸協会に飛ばされて、最後は満州の片田舎にあった一映画館の分金とりとして生涯を終えた[5]。1944年、本渓湖市にて死去[6]。50歳没。
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