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荒川 清(あらかわ きよし、1893年3月10日 - 没年不詳)は、日本の俳優、映画監督である[1][2][3][4][5]。
1893年(明治26年)3月10日、山形県最上郡戸沢村大字名高に生まれる[1]。
日活向島撮影所に入社し、1918年(大正7年)11月、同撮影所でのサイレント映画『西郷隆盛』で、エキストラとして乗馬将校の役で出演したのが、最初であるという[1]。日活データベース、日本映画データベースによれば、西郷隆盛を主題にした同時代の作品は、同年11月3日に公開された日活関西撮影所による『西郷隆盛』のみである[6][7]。記録に残るものでは、1920年(大正9年)12月12日に公開された『山の老校長』(監督坂田重則)に出演している[3]。1921年(大正10年)10月、同社を退社し、帝国興行の撮影所に移籍[1]、同年、同社が俳優の高勢實(のちの高勢實乘)に協力して設立した高勢映画研究所が製作したサイレント映画『飛行家の妻』の撮影にスタッフとして参加する[1]。1922年(大正11年)11月、高田馬場に撮影所を持つ小松商会に移籍、『熱火の狼』『覚性の男』などに主演したという[1]。
1923年(大正12年)に発行された『現代俳優名鑑』(揚幕社)によれば、当時、荒川は、小松商会撮影所に所属し、東京府南葛飾郡寺島町(現在の東京都墨田区東向島)に住み、身長は5尺4寸2分(約164.2センチメートル)、体重16貫200匁(約60.8キログラム)、妻子など詳細は不明だが「五人家族」とあり、常用煙草はゴールデンバットであるという[1]。同年10月に製作・公開された『史劇 和気清麿公』に出演した記録が残っており[5]、同作の監督である高松豊治郎が代表を務める活動写真資料研究會が同作を製作している[5]。文化庁の「日本映画情報システム」によれば、同研究会の後身であるタカマツ・アズマプロダクションが製作し、1925年(大正14年)9月11日に公開された『義憤の血煙』で、荒川は監督を務めている[4]。以降、同社が、京都の牧野省三のマキノ・プロダクションと提携して「マキノ・プロダクション東京撮影所」として製作した作品を含めて、同社の作品に、1927年(昭和2年)までの間、出演した[3][4]。1930年(昭和5年)には、同社で監督・俳優であった江川宇礼雄が監督した『經濟日本建設 愛の浄火』に出演している[5]。以降の出演などの記録は不明であり、消息もわからない[2][3][4][5]。没年不詳。
特筆以外のクレジットはすべて「出演」である[3][4]。公開日の右側には役名[3][4]、および東京国立近代美術館フィルムセンター(NFC)、マツダ映画社所蔵等の上映用プリントの現存状況についても記す[5][8]。同センター等に所蔵されていないものは、とくに1940年代以前の作品についてはほぼ現存しないフィルムである。資料によってタイトルの異なるものは併記した。
特筆以外すべて製作・配給は「タカマツ・アズマプロダクション」、すべてサイレント映画である[3][4]。
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