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1905-1975, 俳優。 ウィキペディアから
1921年に七代目・沢村宗十郎門下として帝国劇場で初舞台を踏む[3][7]。1931年、前進座の創立に参加[9][7]。前進座では宣伝部員も兼ねていた[8]。その後、東宝劇団に移籍にしようと手続きをしていたことが前進座側に知られたことから劇団を除名され、これがきっかけとなり喜劇俳優の道に進む[8]。
左本政治の紹介により[8]、1933年4月、有馬是馬の退団の穴埋めとしてムーランルージュ新宿座に入団[3][10]。当初、左本は歌舞伎育ちである沢村はムーランに合わないと考え、考え直すように説得しており、ムーランの主催である佐々木千里も「劇団の空気に合わないから退く様に言って欲しい」と左本に相談していたが、1年ほどで劇団の看板俳優の1人へと上り詰めた[8]。
1936年、阿木翁助らとともに吉本興業東京支社に移り[8]、新喜劇座を立ち上げる[6][9]。1937年に大阪新興演劇部に移り[3]、太平洋戦争中は宮城県の歌舞伎座を拠点に舞台活動を行っていた[11]。東横百貨店を根城とした空気座で、堺駿二、左卜全とともに看板俳優を務めたが、1947年、火災により東横百貨店が劇場を閉鎖する。同年[9]、ムーランルージュの再興に参加し[4][9]、帝劇ミュージカル出演を経て、映画俳優へと転身[4][9]。映画デビュー作は1951年の日米合作『ゲイシャガール』[9][7]。
1954年に東宝に入社し[出典 4]、以降はコメディ映画から黒澤作品、特撮映画、アクション映画まで、東宝映画に欠かせない脇役として活躍した。1955年に芸名を沢村いき雄に改名[7]。
甲高い声と人なつっこい風貌で今なおファンから親しまれる俳優。タクシー運転手や守衛、店の主人役など小市民役が多く、ピッタリはまっていた。
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