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日本の俳優、タレント (1930-2019) ウィキペディアから
兵庫県[4]武庫郡御影町(現在の神戸市[1]東灘区御影)で、姉妹弟のいる4人姉弟の長男として出生。祖父は大地主で不動産収入があり、そのため父は琵琶師匠を自称していたが弟子もおらず、生涯定職につくことのない有閑階級の家庭であった[8]。成績は優秀で神戸一中に進学。水泳部に所属した。同じクラスに作家の小松左京と國弘正雄がいた[9]。小松とは、一緒にバンドを組んでいたこともある仲[10]。
学制改革により六・三・三制となり、神戸一中5年から新制神戸高校3年へと進学する[11]がジャズに没頭し、退学[11]。翌年に関西学院高等部へ今で言う「水泳推薦」で編入学[11]する。高校では団鬼六がボーカルだった軽音楽クラブに所属した[12]。
1951年に映画会社新東宝のニューフェイス「新東宝スターレット」の第1期生として芸能界入り[出典 3]。スターレット同期生は天知茂、久保菜穂子、小笠原弘、松本朝夫ら18人[15][16]。映画界入りしたことで関西学院大学は2年で中退[出典 4]。なお大学の同期にキダ・タローと藤岡琢也がいる。
本名の髙嶋忠夫から芸名を高島忠夫として、21歳で上京し、東京暮らしを始める[16]。俳優座で俳優の勉強とボイストレーニングをして、このときに歌の才能が認められ、本格的に歌の練習をやるよう勧められる[17]。
1952年の映画『恋の応援団長』でデビュー[14]。同年に『チョイト姐さん思い出柳』で初主演し、以後新東宝で主演級の歌うスターとして活躍[2]。高島の映画出演は1950年代から1960年代が中心で100本以上の出演作の大半がこの時期のものである[18]。特に『坊ちゃんシリーズ』の主役は当たり役となった。作曲もこなし、1958年には「東京ダーク・ムーン」をフランク永井に提供している。その後、「君はミュージカルスターになれる」との菊田一夫の誘いで東宝に移籍[4][14]。東宝ミュージカルのほか、コミカルな演技が印象的な『キングコング対ゴジラ』[2]や「日本製の本格的ミュージカル映画」として後年評価された『君も出世ができる』などの東宝映画や、東宝系列の宝塚映画に出演するようになる。共演の多い藤木悠とは、極楽コンビと称された[3][注釈 1]。1963年には日本初のブロードウェイミュージカルとして上演された『マイ・フェア・レディ』に出演して評判となる[20][21]。
女優の寿美花代とは、1961年に寿美が司会のテレビ番組『季節のミュージカル』にゲスト出演したことから知り合い[出典 5]、2年間の交際を経て、1963年に結婚[25]。『ごちそうさま』で長く夫婦で共演していた。結婚後、長男・道夫をもうけるが、1964年に生後5か月で当時17歳の家政婦によって殺害されるという事件に見舞われる[26](高島忠夫長男殺害事件)。事件後、二男の政宏と三男の政伸をもうけている。
1968年、東映動画の『アンデルセン物語』では声優をこなし、ミュージカル仕込みの明朗なテノールの歌声を披露している。
東宝移籍後は壮年にさしかかるとバイプレーヤーとして脇に回り、『土曜ショー』の司会者をしたことをきっかけにテレビの仕事が増え始め、1970年代からは本格的にテレビに進出して司会業を行う[27]。料理番組『ごちそうさま』やクイズ番組『クイズ・ドレミファドン!』などの司会業の他、『ゴールデン洋画劇場』では映画解説をつとめ、いずれも長期に渡る人気番組のホスト役として活躍する[1]。
1970年代半ばには暴飲暴食により、糖尿病を発症。一時は体重が120kg近くになったが、和食中心の食事にして3年後に体重を70kg台に落とした[28]。
1980年代後半に次男の政宏、三男の政伸がともに俳優としてデビュー。以降は芸能一家の代表格として親しまれる。1993年からは家族4人共演でファミリーコンサートを定期開催した[29]。
糖尿病を発症して以後、一時禁酒したがダイエットに成功した頃より飲酒を再開。不眠症で酒と睡眠薬に頼り眠る日々で、アルコール依存症になっていた[31]。
1971年から1996年までの25年間続けて愛着のあった仕事である『ごちそうさま』の司会交代や母親が入院(2000年死去)したことなどがきっかけで、1998年に重度のうつ病を発症し[32]、レギュラー番組の『ゴールデン洋画劇場』『暴れん坊将軍』など4本を降板し休養・治療にあたる[33]。降板にあたっては「糖尿病である」と事情説明をした。翌年に症状が良化の兆候を見せたことから仕事復帰し、復帰初仕事のトーク番組『徹子の部屋』の出演の際にうつ病だった事実を告白した[34]。しかし無理がたたって再発し、再び療養期間を設ける[35]。2004年ごろから徐々に芸能活動を再開、2007年春から完全復帰。以降は家族とともに、うつ病への理解を深める活動を行った。
高島の闘病生活は2007年6月にドラマ化された(ドキュメンタリー・ドラマ『うつへの復讐 〜絶望からの復活〜』、日本テレビ、6月26日放送)。
さらにパーキンソン病を発症し、2010年には不整脈のため心臓にペースメーカーを取り付ける手術を行った[22][36]。2013年6月18日には「カスペ!」(フジテレビ)で『独占密着!真実の高島ファミリー「忠夫さん、死ぬまで一緒やで」〜寿美花代・献身愛で闘う夫の病〜』[37]と題し、5年ぶりにテレビ出演を果たした[22][36]。
2017年8月に初孫が誕生。
明るく楽しいキャラクターをセールスポイントにし、妻の寿美とはおしどり夫婦のイメージ通りに夫婦げんかをしたことがなかった[39]。次男の政宏によれば、うつ病を発症するまでは家庭でもテレビなどと同じように明るくテンションが高かったという。そのため、長い躁状態から鬱状態になったのではないかと推測している[40]。
新東宝時代も、調子のいい男とみられたり[41]、ぼんぼんという感じだったという[42]。一方で関西弁だからと、井上梅次の映画の配役から外されたことがあった[43]。
父親の影響により、幼少期から音楽の才能に恵まれていたといい、『キングコング対ゴジラ』ではドラム演奏を披露している[44]。
家族ともども世界的シンガーであるフリオ・イグレシアスの大ファンで、1985年8月に『クイズ・ドレミファドン!』にイグレシアスが出演して以降、家族ぐるみで付き合いがある[22][45]。音楽番組やバラエティー番組では、よくイグレシアスとのエピソードを披露している。2010年の7年ぶりのコンサートにも、観客の立場ながら同行していた。
前述の「カスペ!」の密着取材においても、イグレシアスの台湾公演で再会した模様を取り上げ、普段は倒れないようにと持っていた杖を使わず、自力で立ち上がり、ステージ終了後にも楽屋裏で対面した[22]。
東宝へ移籍した当初は東宝生粋の俳優らに引け目を感じていたが、『キングコング対ゴジラ』で主演を務めたことにより「東宝の役者として認められた」と感慨深い思いであったことを述べている[13][14]。一方で、新婚旅行でロサンゼルスを訪れた際にハリウッドの記者から取材を申し込まれたが、高島自身が知られていたわけではなく、当時『キングコング対ゴジラ』が全米公開されていたことによるものであり、ゴジラのことばかり聞かれ憤慨したという[46][14]。三男の政伸は、後年に家族旅行で訪れたアメリカにて忠夫が始球式を務めた際も、「ゴジラに出演した俳優」と紹介されゴジラのテーマが流されていたと証言している[47]。
飛行機を苦手としており、『怪獣島の決戦 ゴジラの息子』でグアムロケを行った際は、東宝が特例として妻の分の飛行機の席も用意すると申し出たが、高島はこれを拒み一人日本に残った[48][14]。ロケ先では高島に似た現地人を代役に起用して撮影が行われ、高島は映画を見て笑ってしまったという[48][14]。
弟・高嶋弘之は音楽プロデューサーで、姪・高嶋ちさ子はヴァイオリニストとして活動しながら、バラエティ番組への出演も多い。ちさ子の夫はソニー創業者一族の盛田賢司(盛田正明の次男、盛田昭夫の甥)で、母方の祖父は岩手県出身の実業家・瀬川弥右衛門[49]。妻・寿美花代は女優で、長男・高嶋道夫、次男・髙嶋政宏(妻はミュージカル女優のシルビア・グラブ)、三男・髙嶋政伸を産んだ。先祖に三平汁の開発者とされる斉藤三平がいると、自身が著書で述べている[50]。
弟・弘之とは母の介護方針を巡って対立し、忠夫のアルコール依存症や不眠を起因とするうつ病から互いの一家が疎遠になったため、マスコミからは「絶縁状態」と報じられた。現に、弘之の妻が死去した際も、忠夫が死去した際も、互いに弔問や葬儀にも参列していない。ただ、忠夫の死去をきっかけに、両家の歩み寄りのきざしも見えているという[51]。
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