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日本の俳優 (1909-1988) ウィキペディアから
小沢 栄太郎(おざわ えいたろう[1][4]、1909年〈明治42年〉3月27日[1][5] - 1988年(昭和63年)4月23日[5])は、日本の俳優、演出家。
おざわ えいたろう 小沢 栄太郎 | |||||
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小沢栄時代(1956年撮影) | |||||
本名 | 小沢 栄太郎 | ||||
別名義 |
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生年月日 | 1909年3月27日 | ||||
没年月日 | 1988年4月23日(79歳没) | ||||
出生地 |
東京府東京市芝区田村町[2] (現在の東京都港区) | ||||
死没地 | 神奈川県逗子市小坪[3] | ||||
国籍 | 日本 | ||||
職業 | 俳優、演出家 | ||||
ジャンル | 映画、テレビドラマ、舞台 | ||||
活動期間 | 1934年 - 1988年 | ||||
配偶者 | 小沢優子(妻) | ||||
著名な家族 | 小沢僥謳(息子) | ||||
事務所 | 仕事 | ||||
主な作品 | |||||
テレビドラマ 映画 | |||||
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戦前は小沢 栄を芸名としていたが、戦中に本名の小沢栄太郎に改名した後、1949年(昭和24年)に小沢栄に戻し、1957年(昭和32年)には再び本名に戻している。ほかの芸名に小沢 英太郎、小澤 栄太郎がある。
東京左翼劇場、新協劇団などを経て千田是也、東野英治郎らと俳優座の創立に参加し、同座の中心俳優として活躍。新劇出身の映画俳優の代表格でもあり、名脇役として300本以上の映画に出演。憎々しい悪役の演技で定評を呼んだ。艶福家としても知られる。著書に『先祖はモリエール』など。
1909年(明治42年)3月27日(土曜日)、東京府東京市芝区田村町(現在の東京都港区)に西洋家具店の一人息子として生まれる。7歳の時に生母が男性と駆け落ちして去り、継母に育てられた[6]。南桜小学校卒業後の1921年(大正10年)に芝中学に進学するが、在学中に胸を病み、四年修了後から3年間闘病生活を送る[6][7]。この間に文学書を読みあさり、やがて戯曲にも強い関心を抱くようになる[7]。高等学校に進む予定だったが、数学嫌いで断念した[7]。
1927年(昭和2年)、築地小劇場の舞台を観て俳優の道を志し、1929年(昭和4年)に劇団心座の研究生となる[6][7]。同年東京左翼劇場第12回公演『全線』の応援出演で初舞台を踏み、このころからプロレタリア演劇運動にも参加するようになる。1930年(昭和5年)、東京左翼劇場に入団し、小沢 栄の芸名で舞台に立つが、1932年(昭和7年)に治安維持法違反で当局に検挙され、1年半のあいだ刑務所の中で過ごす[6]。
1934年(昭和9年)、村山知義、滝沢修、久保栄、細川ちか子らと新協劇団の結成に参加し、久板栄二郎作『北東の風』『千万人と雖も我行かん』、ゴーリキー作『どん底』、真船豊作『遁走譜』などの舞台に立って、中心メンバーとして活躍する。その一方で映画にも出演するようになり、同年にP・C・L映画製作所に準専属として入って、『さくら音頭』で映画デビューする。新劇畑からの映画俳優としては杉村春子、三島雅夫らとともに草分け的な存在となり、以来、舞台で鍛えた確実な演技と器用さが買われ、脇役として重宝がられた[7]。
1940年(昭和15年)8月19日(月曜日)、新劇弾圧により軍部から劇団の解散を命じられ、小沢を含む多くの劇団員が検挙された。この時芸名も本名の栄太郎に改名させられている。釈放後の1942年(昭和17年)、松竹太秦撮影所に入社し、田坂具隆監督の『母子草』、内田吐夢監督の『鳥居強右衛門』に出演後、松竹大船撮影所に移籍する[8]。木下惠介監督のデビュー作『花咲く港』では上原謙と共に主演し、軽妙洒脱な演技を披露した。
1944年(昭和19年)、千田是也、東野英治郎らと共に劇団俳優座を結成[1]。同年に応召、翌1945年(昭和20年)11月に復員する[6]。復帰後は『愛と死の戯れ』『中橋公館』『壊れ甕』『フィガロの結婚』などの舞台に立って劇団の中核的存在となり、劇団運営でも指導的立場をとった。映画では、1946年(昭和21年)に木下監督の『大曾根家の朝』で、戦いに敗れたのちもかたくなに神州不滅を信じる陸軍士官を演じ、堂々たる貫禄を示して演技派の第一人者に躍り出て[8]、この演技で第1回毎日映画コンクール演技賞を受賞する。木下に見込まれた小沢は、1948年(昭和23年)、オールロケ、出演俳優2人だけという異色作『女』に水戸光子と共に主演。同年にフリーとなり、1950年代は俳優座劇場を建設するため自ら進んで多くの映画に出演する[6]。溝口健二監督の『雨月物語』・成瀬巳喜男監督の『女が階段を上る時』などといった巨匠監督の名作から、東映時代劇、東宝特撮映画、独立プロ映画に至るまで幅広い作品に出演した。
さまざまな役をこなしたが、特に悪役での憎々しい演技に定評があった。『白い巨塔』『華麗なる一族』『不毛地帯』ではいずれも仇役を好演し[8]、『白い巨塔』での鵜飼教授役は劇場版のほか、テレビ版でも演じ、当たり役とした。 『新・平家物語』で信西を演じた際には、視聴者から助命嘆願ならぬ殺害嘆願が多数届き、『元禄太平記』『赤穂浪士』『忠臣蔵異聞 生きていた吉良上野介』の3作では吉良上野介を演じ、その憎々しい演技でハマリ役と言われた。
1959年(昭和34年)、『十二夜』からは舞台演出も始め、『セチュアンの善人』『東海道四谷怪談』等の演出作がある。1969年(昭和44年)、俳優座を退団する[1]。
1987年11月、「あまつ空なる」の公演中にスタッフに「肺癌だが頑張るよ」と語っていたが、1988年1月に体調を崩し1カ月間入院。その後、神奈川県逗子市小坪の自宅で静養。静養中、市川猿之助とともに「イタリア喜劇をやりたい」と語っていたが、同年4月23日午前11時40分、肺癌のため自宅で死去。79歳没。葬儀は俳優座劇場で行われ、千田是也が葬儀委員長を務めた[9]。
私生活では艶福家として有名であり、2度の結婚を経験している。最初の妻との間に演出家の小沢僥謳を授かるも、堀阿佐子や山岡久乃と浮名を流し[6]、初妻は栄太郎・山岡が関係を清算した矢先とされた1954年に自殺。1974年(昭和49年)には37歳も年下の女性と再婚し[6]、老いらくの恋と騒がれたが、この妻とは終生連れ添った。
※「 - 」は役名
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