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日本の俳優・随筆家(1907−1994) ウィキペディアから
東野 英治郎(とうの えいじろう[2]、1907年(明治40年)9月17日[2][3] - 1994年(平成6年)9月8日[4][3])は、日本の俳優、随筆家。戦前期の芸名は本庄 克二。身長159cm[5]。
とうの えいじろう 東野 英治郎 | |||||||||||
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東野英治郎(1954年撮影) | |||||||||||
本名 | 東野 英治郎 | ||||||||||
別名義 | 本庄 克二 | ||||||||||
生年月日 | 1907年9月17日 | ||||||||||
没年月日 | 1994年9月8日(86歳没) | ||||||||||
出生地 | 日本・群馬県北甘楽郡富岡町七日市[1](現在の富岡市) | ||||||||||
死没地 | 日本・東京都世田谷区深沢 | ||||||||||
身長 | 159 cm | ||||||||||
職業 | 俳優、演出家、随筆家 | ||||||||||
ジャンル | 映画、テレビドラマ、舞台 | ||||||||||
活動期間 | 1934年 - 1994年 | ||||||||||
配偶者 |
東野英乃(前妻) 東野禮子(後妻) | ||||||||||
著名な家族 |
東野英心(長男) 服部マリ(長男の妻) 東野克(孫・長男の息子) | ||||||||||
事務所 | 俳優座 | ||||||||||
主な作品 | |||||||||||
映画 『東京物語』(1953年) 『秋刀魚の味』(1962年) テレビドラマ 『水戸黄門』 舞台 『夜の訪問者』 『千鳥』 | |||||||||||
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新築地劇団を経て小沢栄太郎、千田是也らと俳優座を創設し、その中心として活躍。戦中からは映画にも出演し、個性的な名脇役として330本以上の作品に出演した。主な出演映画に『東京物語』『用心棒』『秋刀魚の味』『白い巨塔』など。テレビドラマ『水戸黄門』の初代黄門役でも知られる。著書に『私の俳優修業』など。長男は俳優の東野英心。
1907年(明治40年)9月17日(火曜日)、群馬県[2]富岡市七日市の造り酒屋の家に生まれる。父は江州の山村から単身で関東に移り、辛苦して酒造家となった人で、根っからの日野商人(近江商人)だった[6][要文献特定詳細情報]。実家の本宅は滋賀県蒲生郡東桜谷村鳥居平(現蒲生郡日野町大字鳥居平)にある。旧制富岡中学卒業後、明治大学商学部に入学[2]。同級生には後に阪神タイガースで活躍する松木謙治郎がいる[7]。在学中に学内の非合法サークル・社会科学研究会に入り、左翼思想に目覚める[8][9]。
1931年(昭和6年)4月、劇団築地小劇場のプロレタリア演劇研究所に第1期生として入り[8][10]、東京左翼劇場公演の『恐山トンネル』(三好十郎作)で初舞台を踏む。研究所卒業後の同年9月、新築地劇団に入団、本庄 克二の芸名で端役として舞台に立つ一方、プロレタリア運動に従事する[8]。新築地の公演のほとんどに出演し、『ハムレット』の亡霊、『坂本龍馬』の人斬り以蔵、『人生劇場』の呑込み半助などを演じて徐々に頭角を現す。1937年(昭和12年)の『渡辺崋山』『嗤う手紙』で好評を得、以来『土』の平造、『綴方教室』の由五郎、『ハムレット』の墓掘りの役で俳優としての地位を固めていった。1939年(昭和14年)には『土』の勘次、『海援隊』の馬之助など大役を演じ、その傍ら劇団の書記長、企画部長[11]、演技部長[注釈 1]を務め、劇団の中心俳優となった[8]。舞台活動の一方、1938年(昭和13年)に衣笠貞之助監督の『黒田誠忠録』で映画に初出演し[2]、松竹下加茂撮影所の準専属として数本に出演したほか、日活の『海援隊』や東宝映画の『彦六なぐらる』等にも出演した[8]。
1940年(昭和15年)8月19日(月曜日)、新劇弾圧で八田元夫、池田正二らとともに治安維持法違反で検挙され、8月23日に劇団は強制解散される。翌1941年(昭和16年)にいったん釈放され、南旺映画製作の映画『流旅の人々』に出演。同年5月に不起訴で正式に釈放されるが、内務省の命令で本名で活動することとなり、松竹太秦撮影所で内田吐夢監督の『鳥居強右衛門』など数本に出演後、大船撮影所に移籍する[8]。
1944年(昭和19年)、小沢栄太郎、千田是也、青山杉作、東山千栄子らと共に俳優座を結成。同時に日本移動演劇連盟に加入し、芙蓉隊を組織して地方を巡演する。戦後、俳優座の中心として『検察官』『中橋公館』『赤い陣羽織』『夜の来訪者』などで主要な役を演じた。俳優座劇場設立にも尽力し、後に同劇場取締役を務めた。
戦後も映画では脇役として数多くの作品に出演する。黒澤明監督作品には『七人の侍』『用心棒』など計7本[2]、小津安二郎監督作品には『東京物語』『秋刀魚の味』など計4本、木下惠介監督作品には『結婚』『楢山節考』など計9本に出演。その他浦山桐郎監督『キューポラのある街』、岡本喜八監督『江分利満氏の優雅な生活』、山本薩夫監督『白い巨塔』など一流監督の名作や、社長シリーズ、クレージー映画といった人気シリーズなどに出演し、日本映画界を代表するバイプレーヤーとなった。演技幅も広く、善悪さまざまな役をこなした。
テレビドラマでは1969年(昭和44年)2月(第1部の放送は同年8月4日から)よりTBS系列の時代劇『水戸黄門』で(当初は森繁久彌で内定していたが、東宝側とのスケジュール調整が折り合わず降板した経緯がある[13])主役の徳川光圀に抜擢[2]、初の主演作にして代表作となった。じゃがいも黄門の名で親しまれ、お茶の間で絶大な人気を博した。だが第11部収録前の1980年6月10日に前立腺肥大で慶応病院に入院したり、第5話の収録中にセットの崩落に巻き込まれて骨折するという災難に遭い、更に第11部の放送終了後に妻の英乃が亡くなるという悲しい出来事があった。そんな苦境の中でも演じ続け1982年(昭和57年)に禮子と再婚。同年4月29日、長年光圀役を演じた事で鈴木善幸内閣は勲四等旭日小綬章を叙勲した。そして7月8日に高齢による気力体力の減退等を理由に黄門役の降板を表明し[14]、同年10月19日の第13部収録終了(最終回は1983年(昭和58年)4月11日に放送)で役目を終えた。足掛け13年8ヶ月、全381回にわたる活躍だった。
1990年(平成2年)、日本新劇俳優協会の会長に就任。その後も散発的に俳優活動を行っていた。1994年(平成6年)4月5日に都内で開かれた俳優座創立50周年記念パーティーには杖を突いて出席。同年5月にはテレビ東京で放送されたテレビ東京開局30周年、俳優座創立50周年記念ドラマ『荒木又右衛門 男たちの修羅』(同年10月5日)で加納藤左衛門役とゼネラルプロデューサーを務めた。その後、足腰が弱まり外出をしなくなる。 それから4カ月後の9月8日午前6時、自宅で心不全のため死去[4]。86歳没。墓所は多磨霊園[15]。
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