トップQs
タイムライン
チャット
視点

永井一郎

日本の俳優,男性声優、ナレーター (1931-2014) ウィキペディアから

永井一郎
Remove ads

永井 一郎(ながい いちろう、1931年昭和6年〉5月10日[3] - 2014年平成26年〉1月27日[18][19])は、日本俳優声優ナレーター[11]である。大阪府池田市出身[5][6][7][8]青二プロダクション最終所属[12]

概要 ながい いちろう永井 一郎, プロフィール ...

サザエさん』の磯野波平[9][18][20]など数多くの作品に出演し、日本声優界の重鎮の1人として知られた[21][22]

Remove ads

生涯

要約
視点

生い立ち

大阪第二師範学校(男子部)附属国民学校(現在の大阪教育大学附属池田小学校)卒業[6]大阪府立池田高等学校卒業(入学時は学制改革前の旧制大阪府立池田中学校)[23]京都大学文学部仏文科卒業[5][6]

幼少時代は通信簿に「栄養に注意を要す」と書かれていたほど好き嫌いが激しく、体が小さかったという[5]。両親はあまりガミガミ叱らず、「自由に育ててくれた」と語り、あまり動じないで、じっと見ていてくれていたという[5]

祖父の家は金持ちだったこともあり、永井の実家は戦前は良かった[8]。小学校時代は勉強のことなど考えていなかった[5]。その時の担任の女性教師が黒板にきれいな字を書いており、何事もきちんとやるということを教えてくれたもらった気がしていたという[5]

戦争中だったため、小学校時代の同級生は皆「将来は大臣になりたい」、「兵隊になりたい」などと言っていたが、永井は兵隊になるのは嫌だった[5]。友人と「戦死せずにすむ職業はないか」と話をしていたところ、「技術将校というのがあるよ」ということで、「そうか、それにしよう」と思った[5]。ただし、口ではそう言っていたが、実際に「なりたい」とは思っておらず、小学生の時は「何になりたいか」と考えたことがなかったという[5]。終戦後、父がマレーシアペナン州から引き揚げてきてからは長い間、貧乏が続いていた[8]

元々映画が好きであり、中学4年生の時に受験勉強しながら1年間に432本映画を観ていた[3][8]。その時のお金についてはほとんど友人が払ってもらっていた[8]。永井自身が払ったのは一割にも満たず、1991年のインタビューでも、そのことについては「ありがたい」と振り返っていた[8]。子供の頃は「数学か量子学をやりたい」と思い、数学者になるつもりで、旧制浪速高等学校の理科に進学して、そちらのほうを目指していた[3][8]。その後、京都大学理学部の人物たちのグループと親しくなった[8]。その時に色々話していくうちに、そういう世界で一流になるためには、16歳ぐらいの時から新しい萌芽のようなものを持っている人物ではないといけず、他の人物と全然違う発想や着眼点のようなものを持ってないと駄目だったこともあり、永井は「これはいかん」と気が付いたという[8]

大学も理科に進学するつもりだったが、同高等学校の図学の2題だけの試験であるxyzの方程式を三次元の図に書き表す問題が2題とも出来なかった[3][24][8]。それがショックであり、「これは才能がない。やめたほうがいい」と思い、当初は京都大学理学部に願書を出していたが、急遽取りやめにして、京都大学文学部に出し直したという[3][24]

父もお金持ちの子供として育ち、貧乏していても、金を追いかける考えが全くなく抽象的な哲学的なことしか言わない人物だった[8]。永井自身も、社会や経済といったものに対する目が中々育たなかった[8]。大学進学後にそういうことに頭がいくようになった[8]。大学進学時、それまで学んだ理系から文系に変わったところ暇を持て余すようになったといい、そんな中で同級生に誘われたことを機に演劇部へ入部[25]。それまでは芝居に特別興味はなかったが、様々な芝居を観て「うわぁ、世の中にこんなにおもしろいものがあるんだ」、「芝居って面白い!こんな世界があるんだ」と感銘を受けて役者を志す[25][17][26]。その後、就職活動はしたものの全て不採用となったこともあり、卒業後は役者を志して上京[24][25][26]

新劇俳優を目指し、当時「三大劇団」と言われた内の二つである文学座劇団民藝を受けるも不合格となる[25]。もう一つの俳優座を受ける気力もなくなったことで、約2年間は電通に勤務[注 1]しながら俳優の養成所に通う[17][25][24]。養成所卒業後の1955年愛川欽也ら俳優座の3期生が集まって結成した劇団三期会に参加[15][24]

キャリア

三期会では実年齢が25歳と最年長だったため、この舞台から中年や老人の役を始めるようになる[24][25][26]

1956年、ラジオドラマ『少年宮本武蔵』でデビュー[16]。声優活動は、三期会がアメリカのテレビ映画スーパーマン』の吹き替えにユニットで出演していたため始めるようになったという[24][25][15]。その後、吹き替え業界で「年寄りの役ができるヤツ」として知られるようになり[25]、特に1959年開始の海外ドラマローハイド』のウィッシュボーン役が老け役専門になる決定的な出来事で出世作となる。以後、声優の仕事でスケジュールが埋まり、舞台や映画の仕事をやれなくなったことで、自然と声優に専念するようになっていった[15][24][25]

アニメ作品では、1962年の劇場用作品『アラビアンナイト・シンドバッドの冒険』(東映動画)でのアーマッド役が初めての出演だった。テレビアニメには『仙人部落』でデビューし『鉄腕アトム』にも出演[25]。1964年の『ビッグX』の博士役が初のレギュラー出演となり、黎明期から活躍。1969年から長年演じた『サザエさん』の磯野波平役が代表作となった[20]

所属事務所は劇団三期会、東京俳優生活協同組合同人舎プロダクション、東京アーチストプロを経て、青二プロダクションに創立メンバーとして所属していた[10][27]

2009年、第3回声優アワード功労賞を受賞[28]2011年東京アニメアワードでは、功労賞を受賞[29]

死去

2014年1月27日12時半頃、宿泊していた広島県広島市中区のホテルの浴槽で倒れているところを従業員に発見され、病院へ運ばれたが、間もなく死亡が確認された[9][18]。満82歳没(享年84)。所属事務所より、死因は虚血性心疾患による心不全と発表された[30]

永井は死去の前日から27日にかけ、中国放送製作の特番『世界が知りたいニッポンの技 ~美と食の匠たち・・・ひろしま篇~』[注 2]のナレーション収録のため広島市を訪れており[9][20]、これが生前最後の仕事となった[32]。また、同番組のエンディングには追悼のテロップが流れた[32]。磯野波平を演じていた『サザエさん』は、同年2月9日放送分(1月23日収録)が最後の出演となった[20]

戒名は「壽聖院勲譽一叡聲導居士」(じゅしょういんくんよいちえいせいどうこじ)で、「周りの人々をほのぼのと温かく豊かに見守り、声によって救い導く」という意味が込められている。通夜は2月2日18時から営まれた[33]。葬儀・告別式は2月3日に営まれ、浦沢直樹加藤みどり冨永みーなが弔辞を担当[34][35]。それまでに共演してきた多くの声優仲間や後輩など約400人が参列し[36]、出棺の際には永井の弟の呼びかけにより、波平の口癖であった「バカもーん!」という言葉で送り出され、ホルストの組曲『惑星』の第4曲ジュピターの中間部が流れた[37][38]。その後、遺体は品川区桐ヶ谷斎場で荼毘に付された。

Remove ads

特色・人物

要約
視点

声種ローバリトン[39]方言大阪弁[10]

役柄としては壮年から老人の男性を演じることが多く「老け役声優」として知られた。重厚な声を得意とし[19]、主役以上の存在感を持つ脇役を演じることも多かった。アニメは『サザエさん』の磯野波平をはじめ創成期より数々の作品に出演。その他にも吹き替え特撮作品、ナレーションなど幅広い分野で活躍した。

フジテレビ『プロキング』で声優121人が選ぶNo.1声優第4位に選ばれた。おもな投票理由は「声を変えずにキャラクターを変える演技力」。

腰が低く気さくな人柄から、多くの後輩に慕われていた[22]松本梨香によると、現場で若手が叱られ落ち込んでいると場を和ませるなど、気遣いの名人でもあったという[22]。また、舞台では後輩の劇団公演に参加したり舞台セットの撤収まで付き合ったりと、かなり面倒見がいいことで知られた。

熱血漢なことでも知られていた[22]。また、仕事好きな性格だったことから、生涯現役の意向を貫いた[40]

政治に関しては、日本共産党支持者であった[41]

趣味はフラメンコギターの演奏[3]

親族

母方の祖母が明治の末期の頃の写真でバイオリンを弾いている写真が残っており、その姉妹でバイオリンとピアノチェロを弾いていたという[3]宝塚歌劇団入団志望だった母、彫刻家志望でサラリーマンの父がいた[3][8]いとこドイツホルンを吹いている音楽家と女優の泉晶子がいる[3]。弟[37][38]と画家の妹がいる[3]

1960年に結婚したが、結婚するまでは東京都中野区の食事付きの下宿で暮らしており、その時の下宿料は5,000円でそれを1年分溜めていた。結婚すことになった時、のちに妻になる当時の恋人が「どう考えても月に3万円はいる」と言っていたが、その頃の永井の月収は2万円でその時の永井は「困ったな」と思っていた。偶々劇団を退団して東京俳優生活協同組合に所属することになり、5万円ぐらい貰えるようになった[8]

結婚後は最初に風呂なし、トイレは共同の二間のアパートに住み、次に全部で十二戸ぐらいしかない小さなマンションに住んでいた。その後、父が死去して母を世話することになったため、父が持っていた大阪府に持っていた土地を処分。その時に東京都世田谷区の3LDKのマンションを860万円で買ってそのマンションに10年ぐらい住んでいた。散歩の途中で一戸建てを見つけて、そのマンションを売り、その金で一戸建てを買った。マンションが2,500万円か2,600万円で売れて、一戸建ての方の値段は5,150万円だった[8]

妻との間に子供はいなかった[8]

仕事に対する姿勢

1962年、俳優の東野英治郎が、『東京新聞』に「“声”優に危険手当てを-他人の演技に合わす苦しみ」と題するコラムを発表。東野は、俳優の演技とは「動くから自然に声が出るのであり、声が出るから動くもの」なのだから、外国産テレビ映画の他人が演じた動きに声だけを当てはめるアテレコは、俳優として片輪になりかねない危険な仕事だと主張した[注 3]。当初、永井は東野の演技論に反論できずにいたが、体育学者の勝部篤美による、実際に体を動かさなくてもイメージするだけで筋肉に放電が起こるという研究報告[42]にヒントを得て。1981年、『ガンダムセンチュリー』に寄稿した「細胞でとらえた演技」の中で反論を行い、舞台俳優の演技も声優の演技も本質的に違いはないと結論した[43](詳細はアテレコ論争を参照)。

役作りでは、「どんな人間も幸せを追求している」との持論から、演じる役が何を自分の幸せとしているかを探すことが大切なコツとしている[44]

すべての仕事に全力で取り組み、等価値の思い入れを持つようにしていたことから、特別思い入れのある役は無く、どの役も気に入っていたという[40]

アニメの仕事に関して、始めた当初は「ちっともアニメが好きではなかった」とのことだが、「でも今は好きですね」と語っている[45]

本人曰く、「活舌をよくするために飲酒をしていた」という[46]

待遇改善運動

声優の待遇・地位向上にも尽力したことでも知られている。永井本人は「声優は子供たちに夢を与える素晴らしい仕事なのですから、声優に憧れる子供たちが迷わず入ってこられるような、素晴らしい業界にしなければなりません」と語っていた[47]

永井がデビューした頃、草創期である声優(吹き替え)業界の出演料は、生放送が基本だったことから「放送1回分の対価」であったため非常に安かった。その後、録音収録が始まり出演作の再放送がされるようになったことで様々な交渉や契約がなされたが、永井ら声優側が知らない間に出演作が再放送されるなど「再放送に対する対価」が支払われず、状況は生放送時代から一向に改善されなかった。干される怖さから多くの声優が意見を言えない中、日本俳優連合の発足で1973年には製作側と俳優側で交渉などが行われるも製作側の態度に改善の余地がなく、これを大きな問題と考えた永井ら8名によって、200人以上の声優が参加するデモ活動ストライキなど闘争を行った。その結果、製作側のトップである植村伴次郎と永井の間で話し合いの場が設けられ、出演料をはじめ多くの契約がそれ以前に比べ大幅に改善されることとなった[22][48]

その後も、1980年代には日本俳優連合の委員長に就任[22]。諸外国の声優は一つの役だけで生活できる職業であることを踏まえてさらなる改善を目指し[7]1986年に決まった声優出演時の時間割増料金や作品の利用目的別料金などのルールの基本的な草稿を作成[22]1988年には『オール讀物』で「磯野波平ただいま年収164万円」と題した記事でアニメ出演料の安さを訴えている[15]。また、晩年は声優をはじめとした役者の仕事に著作権を獲得する運動も積極的に行っていた[7]

2004年には野沢雅子内海賢二らと共に声優360人を代表して、アニメがビデオ・DVD化された際に音声制作会社に声の使用料の支払いを求める訴訟を起こし勝訴している[49]

2009年のインタビューでは若手に対して「今は声優や業界にとって端境期にあると思う。地上波、CS、ひいては小さな携帯端末で何でも楽しめてしまうし、何が主流になってくるかわからない。形が随分と変わってくると思う。でも媒体がどんなに変わっても、外しちゃいけない事がある。(中略)人間がキチっと表現できれば、どんな形の業界になろうが、業界全体が食える状態になれるんだという事に、自信を持ってもらいたいな。『仕事があって、金になってればいいや』って考え方だけは、やめてもらいたいね。問題が生じたら、しっかりと向き合ってきちんと話し合う覚悟は持っていてもらいたいと思っています。」と語っている[7]

Remove ads

エピソード

要約
視点

サザエさん

『サザエさん』では、磯野波平役を1969年の放送開始から死去する2014年まで約45年にわたり担当した。当初は「半年の放送」だと聞いて現場に入ったため、2009年には「まさか40年も続くとは思ってもいなかったです」と回想している[21]

作品の舞台は現代となっているが、世界観などを考えた永井は波平を「明治生まれ、終戦の時点で53歳ぐらい(である人物)」と自身の中で設定し[50]、「明治の美しい日本をきちっと保っているところ」を大事にし演じていたという[51]。なお、公式設定では54歳の波平を53歳としているのは「あの頃(終戦時代)は55歳が定年であり、子供がいるのに定年間近では可哀想だ」との思いからである[50]

永井は波平について、時代の変化から父親不在が社会問題になるにつれて、開始当初のイメージと異なり「ああ、波平ってちゃんとした男だったんだ」と感じるようになったという[25]。また、「バカモーン」とよくカツオを怒鳴る姿に最初は違和感を持ったが、「カツオが常識的でないことをやると怒る。社会人として育てばいいと思っているんだよね。そうだと思ってから、波平がいい親父に思えてきた」とも語っている[51]

『サザエさん』については「現在の社会でも過去でもないあの世界で、彼(波平)は理想の父親像なんですよ。磯野家は普遍的な理想の家族の姿なんだと思います」と述べている[25]。「理想の家族」に関しては、2000年代に「昔はそうも思わなかったのですが、こんなひどい世の中になりますと、なるほどと思うようになりました。ワカメは電車の中で化粧をする女にはならないでしょう。カツオも母校に火をつけたりしないと思います。タラちゃんも登校拒否にはならないと思います」と述べており[52]、最晩年の2013年には「私たちは声優の仕事をきちっとやるのみ。それをどう視聴者の皆さんが受け止めてくださっているのかは分かりませんが、このアニメが続いている限り、日本もまだ大丈夫だな、というふうに思います!」とコメントしていた[53]

初期の台本では、波平の台詞の語尾に「~じゃ」があることが多かったが「50代で“じゃ”なんて言う人はいない」と、現場で永井はすべて「~だ」などに修正。すると、台本でも「~じゃ」と書かれることは無くなったという。また、次回予告で「波平です」と名乗る際は、話し始めにアドリブで「え~」「あ~」といったフィラーを足すことが多かった。

収録では、「波平と同じ生活をする」という理由から常に背広ネクタイという服装で現場入りし、現場までは電車で移動していた。

1999年、2代目磯野カツオ役の高橋和枝の葬儀の席では、弔辞を朗読。実際は高橋の方が永井より2歳年上であるが、弔辞の中では波平がカツオに話すような口調で「カツオ。親より先に逝く奴があるか」「カツオ、桜が咲いたよ。散歩に行かんか」と呼びかけた。永井は弔辞を冷静に語ろうとしたが、感極まってか涙声になった。

2009年11月15日に放送された『実写版 サザエさん』では、自動車教習所の老紳士役として顔出しで特別出演した[21]

晩年には「頭髪以外波平と似ている」と言われることがあり、本人はこのことを否定しつつも、「長年演じる中で似てきたのでは」と聞かれた際は「かもしれません」と答えている[50]

機動戦士ガンダム

機動戦士ガンダム』においては、ナレーターやデギン、ドレンといった名有りのキャラクターの他、ホワイトベースに乗り込んだ避難民など、数十人に及ぶ端役の声(主に老人役)を担当しており、第13話では「難民キャンプの老婆」役まで担当した。後に富野由悠季監督は永井に対し「便利屋として使ってしまって申し訳ないことをしたと思っている」と告白している[54]。また、ガンダムブームのさなか、ラジオ番組『アニメNOW!』内でガンプラのCMのナレーションと歌を担当した。歌詞は「ガンダムは走る、ガンダムは戦う、ガンダムは耐える」という内容であった。

2009年4月26日アニマックスで放送された『機動戦士ガンダム30周年記念 みんなのガンダム 完全版』において、永井自身のナレーションで「演じたキャラクターが最多」ということを語っていた[出典無効]

最終回の最後のナレーションに関しては、意図的に冷ややかにしめくくったという。この理由については「あの第2次世界大戦の敗戦直後、ミズーリ号の甲板で調印がなされたとき、ひどく明るい未来を思い描いたにもかかわらず、またもや、こんな世の中を作ってしまったオロカな人間どもよ…こんなんじゃ、たとえニュータイプが出てきてもニュータイプが苦しむだけなんだよ、君たち、しっかりしなくちゃ困るよ!みたいな気持ちがあった」と述べ、監督の富野からは正しいとらえ方だと肯定されている[45]

その他出演作品

キャリア初期に、海外ドラマローハイド』に老料理人のウィッシュボーンとして出演。第1回放送では端役で役名も「御者1」であったが、その「御者1」が次回、次々回にも登場し、次第に準主役のキャラクターとなったこと合わせ永井も大きく活躍[44]。作品も最高視聴率43.4%を記録する人気番組となったことで出世作となり、ウィッシュボーンを演じたポール・ブラインガーとも1962年の来日時に対面した。この出演を機に声優として生きていくことを決めたという[44]。永井は後年「もしこれがなければ波平も、佐渡酒造も私ではなかった、運が良かった」と回想している[44]

高橋留美子原作の作品には多く出演。『うる星やつら』、『らんま1/2』、『犬夜叉』、『高橋留美子劇場』、『1ポンドの福音』など、常連声優の一人であった。

天空の城ラピュタモウロ将軍を演じた際に、永井は「欲ボケの頭の悪い将軍です(笑)。軍人はすこし頭の悪い方が出世するんですよ」とコメントしている[55][56]。また、志願して居残り、収録時にどうしても気に入らなかったセリフ、「な、なんだここは!!ムスカ、出てこい!!」[57]に再トライしたという。

映画監督大島渚は大学時代の友人で、彼の初期映画作品に俳優として出演している[20]

映画『スター・ウォーズ』日本語版制作時には、ヨーダの声役の候補に挙がった当時、ジョージ・ルーカス監督から「ナガイは英語は話せるのか?」と、出演を打診されたことがある[58]

持病と「酒」

35歳でバセドウ病に罹り、その後50代で糖尿病を患うなど、終生「病との共存」を強いられた。

1994年には食道癌が見つかり内視鏡手術を受けた後、声が出なくなり原因がわからないままのことがあった。それから2週間ほど経過した頃、後輩に誘われ酒を酌み交わしていたところ、自然と声が出ていたという。再び出にくくなって飲んでみたところ、また声が出た。医者に説明しても首をかしげられたが、以来、「声を出すために」敢えて酒を飲むようになったという。なお、45歳頃までは全く酒を嗜まず下戸だった。

2000年には直腸癌で入院、手術した際に医者から酒を止めるよう言われるも、声のためにも飲むことを決め、血糖値に影響が出にくく自分に合う酒を試しながら行きついたのは「芋焼酎」だった。その後は高かった血糖値も2、3年で安定するようになり(あくまで永井の場合)、体調も順調になったことから、芋焼酎をこよなく愛しファンを貫いた[59]

没後

東京都世田谷区桜新町商店街に存在する波平の銅像には、ファンからの献花が相次いだ[60]。また、大阪市中央区の大丸心斎橋店ではアニメ放送45周年記念イベント「みんなのサザエさん展」が図らずも追悼の場となった[61]

2014年1月30日には『サザエさん』の同年2月16日放送分の収録が行われたが、永井の後任については調整中だったため、波平の分は仮の人の声が当てられた[62]。その際、カツオ役の冨永みーなが泣きっぱなしだったため、サザエ役の加藤みどりが「泣くな! 釣られるじゃないか!!」と叱咤激励した[63]。また、同年2月2日青山葬儀所で営まれた通夜の際、フネ役の麻生美代子は悲しみのあまり10分弱で弔問を済ませ、立ち去った[64][65]

鈴木次郎吉役を担当していた『名探偵コナン』では、1月17日に松本清長役の加藤精三も死去しており、729話「ダイヤと絵画と大女優」(2014年2月8日放送)の最後に「名探偵コナンで警視庁・松本管理官役の加藤精三さん、園子の叔父・鈴木次郎吉役の永井一郎さんが1月にお亡くなりになりました。心からご冥福をお祈り申し上げます。」と追悼テロップが流れ、その後に同番組のホームページにも期間限定で掲載された。

毎週の生ナレーションを担当していた『情報7days ニュースキャスター』では、2月1日に追悼特集が放送され、司会の安住紳一郎も涙で故人を偲んだ[66]。同番組では、2014年3月15日まで生前のアーカイブを使用したコーナータイトルコールが継続して使用された[注 4]

また、没後に発表された『ドラゴンボール改』(魔人ブウ編)のカリン、『ドラゴンボールヒーローズ』(邪悪龍ミッション 4弾)の鶴仙人、『機動戦士ガンダムUC』(episode 7 虹の彼方に)のサイアム・ビストの他、ユニバーサル・スタジオ・ジャパンにオープンした「ウィザーディング・ワールド・オブ・ハリー・ポッター」内のアトラクション『ハリー・ポッター・アンド・ザ・フォービドゥン・ジャーニー』におけるアルバス・ダンブルドアの声は、永井が生前に収録した音声が使用されている。『クレヨンしんちゃん』で永井が演じたマスターヨダは、永井の没後一度も登場していない。

Remove ads

出演

要約
視点

太字はメインキャラクター。

テレビアニメ

1963年
1964年
1965年
1966年
1967年
  • 悟空の大冒険(竜海仙人)
  • ピュンピュン丸(1967年 - 1970年、何田勘太夫、オンザロックホームズ、屁保井顔作、青息吐息、アリャリャン、鍋底藩家老、七色頭巾、金持、首領、家老、茂作、代官、三太夫 他)
  • リボンの騎士
1968年
1969年
1970年
1971年
1972年
1973年
1974年
1975年
1976年
1977年
1978年
1979年
1980年
1981年
1982年
1983年
1984年
1985年
1986年
1987年
1988年
1989年
1990年
1991年
1992年
1993年
1994年
1995年
1996年
1997年
1998年
1999年
2000年
2001年
2002年
2003年
2004年
2005年
2006年
2007年
2008年
2009年
2011年
2012年
2013年
2014年

劇場アニメ

1962年
1968年
1969年
1971年
1973年
1975年
1977年
1978年
1979年
1980年
1981年
1982年
1983年
1984年
1985年
1986年
1987年
1988年
1989年
1990年
  • 悪魔くん ようこそ悪魔ランドへ!!(ファウスト博士[166]
1991年
1992年
1993年
1995年
1996年
1997年
1998年
2000年
2001年
2002年
2003年
2009年
2010年
2011年
2012年
2013年

OVA

1984年
  • BIRTH(バオ・ルザン)
1985年
  • 吸血鬼ハンターDDの左手、ナレーション)
  • NORA(ドハティ)
  • トゥインクル NORA ロック・ミー!(フーチェロ)
1986年
1987年
1988年
1989年
1990年
1991年
1992年
1993年
1994年
1995年
  • YAMATO2520トーゴー・シマ
  • らんま1/2 SUPER 邪悪の鬼(八宝斎)
1996年
1998年
2000年
2001年
2010年

ゲーム

2014年以降の一部の作品は生前の収録音声を使用したライブラリ出演。

1985年
1988年
1990年
1991年
1992年
1993年
1994年
1995年
1996年
1997年
1998年
1999年
2000年
2001年
2002年
2003年
2004年
2005年
2006年
2007年
2008年
2009年
2010年
2011年
2012年
2013年
2014年
2015年
2019年
2021年

吹き替え

担当俳優

映画

年度不詳
1961年
1963年
1964年
1966年
1967年
1969年
1970年
1971年
1972年
  • シャレード(ギデオン〈ネッド・グラス[197])※フジテレビ版
1974年
1976年
1977年
1979年
1980年
1981年
1982年
1983年
1984年
1985年
1987年
1988年
1989年
1990年
1991年
1992年
1996年
1997年
1999年
2000年
2001年
2002年
2003年
2004年
2005年
2006年
2007年
2008年
2012年

海外ドラマ

海外アニメ

人形劇

テレビドラマ

映画

舞台

  • 賢者の贈り物(劇団京 客演)
  • ファンタスティックス
  • 本牧めるへん
  • 夢の検閲官(原作:筒井康隆

特撮

1974年
1976年
1977年
1978年
1990年
2007年
2008年
2009年
2011年

ラジオ

ラジオドラマ

ドラマCD

音楽CD

  • ゲゲゲの鬼太郎 テーマ曲集「燃えろ!鬼太郎」
    • 「おじさんは泣いている」(子泣きじじい)

ナレーション

映画

情報番組・バラエティ番組

テレビドラマ

CM

特記がない限りはTVCMのナレーションである。

その他

Remove ads

著書

  • 朗読のヒント 蕗薹書房(1999年2月)
  • バカモン!波平ニッポンを叱る 新潮社(2002年3月)
  • 朗読のススメ 新潮文庫(2009年6月)

後任

永井の死後、持ち役を引き継いだ人物は以下の通り。

さらに見る 後任, 役名 ...
Remove ads

脚注

Loading content...

参考文献

Loading content...

外部リンク

Loading related searches...

Wikiwand - on

Seamless Wikipedia browsing. On steroids.

Remove ads