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テレビ朝日のニュース番組 ウィキペディアから
『ニュースステーション』(英語: NEWS STATION)は、1985年(昭和60年)10月7日から2004年(平成16年)3月26日まで、テレビ朝日系列(ANN)で平日(祝日も含む)22時台に生放送されていた報道番組である。
テレビ朝日とオフィス・トゥー・ワン(形としては企画・制作協力扱い)の共同制作。全4,795回の平均視聴率は、14.4%(ビデオリサーチ調べ、関東地区・世帯・リアルタイム)[1]。通称「Nステ(エヌステ)」、「NS(エヌエス)」、「Nステーション(エヌステーション、テレビ欄)」。
テレビ朝日が平日23時台に放送していた『ANNニュースファイナル』・『ANNスポーツニュース』に替わり、ドラマやバラエティ番組を放送していた平日22時台に新設したニュース番組である。テレビ朝日がアークヒルズへの本社移転と同時に開始された。
構想段階から広告代理店である電通が関与し、久米宏も構想の段階で起用が決まり[注 2]会議に参加しており、番組の準備などのため、久米は1985年4月までに『おしゃれ』(日本テレビ系列)以外のレギュラー番組を降板した[3][注 3]。
当時としては、この時間帯のニュース番組は、独立U局である近畿放送(現在のKBS・京都放送)がローカル番組として1980年に開始した『タイムリー10』[注 4]程度であり、全国ネットの番組では初の試みであったことから、番組の先行きに対して不安を持つ者も多かった。
開始第一週目の週平均の視聴率は8.68%(ビデオリサーチ調べ、関東地区・世帯・リアルタイム、以下断りのない限り略)と低視聴率に悩んだ[4]。1986年2月のエドゥサ革命報道を機に、安定して20%前後の高い視聴率を獲得するようになり、テレビ朝日の看板番組となった[注 5]。視聴率20%超えは、245回(ビデオリサーチ調べ、関東地区・世帯・リアルタイム)[1]。関東地方より先に関西地方(朝日放送)で視聴率(ビデオリサーチ調べ、関西地区・世帯・リアルタイム)を獲得した。
「中学生でもわかるニュース」をコンセプトとして、政治や経済などのニュースにおける難解な用語や展開などを、フリップや地図、模型、実物、政治家人形、積木などを使い、わかりやすく伝える工夫を凝らした[注 6]。これで徐々に視聴率を獲得した。初期には手書き・手作りといったアナログ感を重視していたが、コンピュータグラフィックスについても最新技術を積極的に導入している。安竹宮で争われた1987年自民党総裁選挙では全派閥を積木で表現し、積木を積み立てて今後を予測した。1990年代初めには民間気象情報会社のウェザーニューズの協力で天気予報に3DCGを使い[5]、イラク戦争では地図に「CADシステム」を用い、後のGoogle Earthのように直感的な操作で地図の拡大・縮小を行った。2002年あたりからはクロマキー処理を行わないリアルタイムCGも多用された。この他、BGM・ナレーション・テロップなどをワイドショーのように使う表現・演出手法は、しばしばニュースを過度にセンセーショナルなものに見せた。また久米が「個人的意見」を言うことで従来の番組や新聞との差別化を図った。
従来、外部発注が常識となっていた民放テレビ局にあっても報道番組は聖域とされ、ごく一部の例外[注 7] を除いて番組制作が外部に委託されることがなかった中で、オフィス・トゥー・ワンという外部の制作プロダクション(久米の所属事務所でもある)を導入してニュース番組を制作した。
本番組開始以降、現在の『報道ステーション』に至るまでネットスポンサー各社は、30秒枠でも60秒扱いされ、全社が読み上げられた[注 8]。言い回しは「(スポンサー名)がお送りします」「ここまでは(スポンサー名)がお送りしました[注 9]」であり、これも『報ステ』に引き継がれている。
音声は当初モノラル放送であったが、1993年4月19日[注 10]からステレオ放送になった。また、番組の末期(詳細時期不明)からはスタジオ映像のみハイビジョン映像で放送した[注 11]。
当番組の原型となる企画を練る会議は、1984年夏ごろから『久米宏のTVスクランブル』(日本テレビ)の企画会議と並行して、久米とオフィス・トゥー・ワンのスタッフで水面下で進められていたという。久米は『TVスクランブル』を「未来のニュース番組につながるステップボードのような役割を果たしている」としており、そこで考えたのが当番組のコンセプトである「中学生でもわかるニュース」だった[6]。彼らが常に意識していたのが当時、報道番組の王座に君臨していた『ニュースセンター9時』(NHK総合テレビ)だったが、久米は「裏で勝負するのは無謀極まりない」として、せいぜい午後11時からの30分枠を思い描いていた。しかし、話を進めるうちに平日帯のプライムタイム枠での1時間枠という構想に膨らんでいった。しかし1時間では採算が取れないため結果的には1時間15分となった[7]。その後、この大胆にして無謀な構想に乗った電通の参入や、電通の支持を取り付けてオフィス・トゥー・ワンのスタッフが久米の古巣であるTBSを含む在京各局にこのニュース番組の企画書を持ち込んだところ特に敏感に反応したこと、そして当時の報道局次長である小田久栄門の「報道はテレビの本道です」という訴えに応じた朝日新聞の社会部出身で当時の社長・田代喜久雄の英断、さらに六本木六丁目の再開発に際してアークヒルズへの本社機能移転・最新鋭の放送設備を備えた放送センターの新設を行うにあたりその開設記念の大型の目玉企画を模索していた、という三点からテレビ朝日も参入が決まった。電通は企画開発段階から特別チームを編成して視聴者動向のマーケティングや視聴率のシミュレーションを実施。『ニュースセンター9時』のニュース項目を1週間に亘り分析するなどして基本構想をまとめていった。テレビ朝日の社内では「テレビ局でも最も神聖にして侵してはならない報道の分野に外部の制作会社が参入」「プライムタイム帯へ視聴率が望めない大型ニュース番組の投入」「報道の現場を全く知らない他局アナウンサー出身のタレントのキャスター起用」というそれまで厳然とあったタブーを侵す新たなニュース番組の立ち上げに非難・反発が上がったが小田がリーダーとなって同じく特別チームを編成。制作スタッフには局内から有能な人材が集められたが、その人事異動はトップダウン方式で召し上げられるものであり、社内で「赤紙」と揶揄されたという。こうして、電通の営業戦略会議、テレビ朝日の新放送センター開設に伴う番組会議、オフィス・トゥー・ワンの企画会議と3か所で別々の会議が、番組始動に向けて同時並行的に進む事となった[8]。
1985年7月29日には番組の開始と久米のキャスター起用が正式に発表され、ティザー広告も放送を開始。久米はテレビ朝日とこの時点で2年の契約を結んだ。当時マスコミは契約金を2億円とも4億円とも報じたが、久米の希望で純粋な出演料のみになった。8月にはシミュレーションを行ったが、ニュースとバラエティが無秩序に混ざってしまい番組の体をなさなくなってしまったという。それまでのニュース番組は報道記者が書いた原稿をキャスターが読むだけであり、当然1時間以上の番組を制作経験が無い報道局だけでは作れないため、テレビ朝日の制作局とオフィス・トゥー・ワンのスタッフによる合体チームと報道局のスタッフが協力して番組を制作する形となった。テレビ朝日とオフィス・トゥー・ワンが別々に行っていた会議と並行して、3チームが顔を合わせての全体会議・準備が始まり、久米もシミュレーション以降の全会議に参加した[9]。
全体会議では、会議室でそれまで制作会社の人間と口も聞いた事の無いエリート集団であるスーツ姿の報道スタッフと特にオフィス・トゥー・ワンのディレクター・作家は報道の事は全く知らない雑草集団である短パンにTシャツ、ゴム草履姿の制作スタッフが対峙すると、「事実を正確に伝えるという正統派のニュース番組」のあり方にこだわっては派手な演出や目新しい工夫を嫌う報道側と「ニュースをいかに分かりやすく面白く見せるかに重点を置き、セットやスタジオ演出に気を配る」という考えのオフィス・トゥー・ワン側が衝突し、言い合いばかりで話が全く噛み合わない状況が続いた[10]。この衝突は番組開始後も続き、報道側は「ニュースの事を何も知らずに勝手な事を言うな」、オフィス・トゥー・ワン側は「なぜ原稿をもっと分かりやすく書けないのか」と大喧嘩になった。反省会は深夜2時まで及び連日連夜、時に殴り合いの喧嘩に発展する程の激しい討論を続けたという[11]。
そのような準備期間を経て、1985年10月7日に民放初の平日プライムタイム帯での1時間超に及ぶワイド編成の報道番組として放送を開始。
「今までにない全く新しい形の報道番組を目指す」というコンセプトのもと、メインキャスターの久米宏、サブキャスターの小宮悦子(当時テレビ朝日アナウンサー、1991年からフリーアナウンサー)、コメンテーターの小林一喜(当時朝日新聞論説委員)を中心に、キャスター陣には小宮以外のテレビ朝日アナウンサー(スポーツキャスターの朝岡聡、リポーターの渡辺宜嗣)に加えて、一般公募による出演者オーディション[注 12]から数名のキャスター・リポーターを起用した。一般公募組の中には、橋谷能理子(元テレビ静岡アナウンサー、スタジオアシスタント)、若林正人(元東京銀行調査役、コメンテーター兼リポーター)、杉本典子(元三菱商事勤務、スポーツ担当)、坪井貴久美(元つくば科学万博コンパニオン、ニュース担当)、内田誠(早稲田大学大学院院生、リポーター、後にジャーナリストへ転身)、松本侑子(筑波大学学生、天気キャスター、後に作家へ転身)などがいた。
第1回の放送で最初に取り上げたのは、石狩鍋に入れる鮭の話題。長谷川宏和(当時北海道テレビアナウンサー)の自宅、九州朝日放送・鹿児島放送のスタジオ、新潟テレビ21のサービスエリアにある新潟県村上市を結んでの生中継を実施した。本来は「鮭を切り口に環境問題について考える」という趣旨だったが、本番中に最新鋭のVTR再生機が故障し、結果的に上記の内容になったという。これが初日の惨敗を象徴する出来事になったとして、以後しばらくの間、スタッフ間で「鮭」は禁句となり、久米も1年間鮭を口にしなかったという[13]。その直後には、同市出身の稲葉修(当時自民党衆議院議員)が、自宅からの生中継で久米とトークを繰り広げている。
初期は月曜日から木曜日は22:00 - 23:17(「大相撲ダイジェスト」放送時は23:15まで)、金曜日のみ22時台は『必殺シリーズ』[注 13]など当時の朝日放送(現在の朝日放送テレビ)制作枠であり、スタート当初はこの枠について朝日放送との調整が付かなかったこともあって[2]、1時間遅れの「金曜版」とし、23:00 - 翌0:00の放送となった(「大相撲ダイジェスト」放送時はネットスポンサー枠の23:45まで)。
開始当初は観客を入れての公開形式番組として放送されており、原則としてメインスタジオであるAスタジオからは一般ニュースを放送しない、報道にバラエティ色を加味した内容となっていた。一般ニュースは1コーナー扱いとされ、報道局隣接のNスタジオから小宮・坪井貴久美が伝えた。
しかし、開始早々から阪神タイガースの21年ぶりのリーグ優勝・日本一、エドゥサ革命など、重大ニュースにより全編Nスタジオからの臨時編成となるケースが多く、その際に一般公募によるキャスター陣が対応に窮する場面が多々見られたこと、また開始早々の視聴率低迷の影響もあり、番組内容・キャスター配置の再整理が急ピッチで進められた。開始数回でAスタジオでの観客入れを廃止。1986年4月からは全編を通じて久米・小宮・小林の3人体制[注 14][14]で進行・ニュース読み・解説を担当する報道色の強い番組構成にリニューアル。この際、リポーターと並行して不定期で天気コーナーを兼務するようになった橋谷、同じく不定期でゲストコメンテーターを兼務することになった若林と天気キャスターの松本、リポーターの内田誠を除く公募によるキャスター陣は一旦リポーター専任となった後、開始1年以内で全員番組を降板した。
放送するスタジオに関しても、1986年の久米・小宮・小林のトリオ体制になる前後から1990年代初頭まではオープニングから概ねスポーツコーナー開始前のCM枠までの前半部がNスタジオからの放送となり、3人がAスタジオへ移動し、スポーツコーナー以後の後半部をAスタジオから放送するように変更された。ただし、全編Aスタジオから放送の場合もあれば、重大ニュースやAスタジオのセット改装の理由で全編Nスタジオから放送の場合もあった。
ただし、「金曜版」については1年目の番組リニューアル後も引き続きバラエティ色の強い構成を継続、Aスタジオでの観客入れも継続していた。小宮はNスタパートのみ出演(末期はAスタジオからニュースを読むこともあった)。この「金曜版」は、当時週休二日制が定着していたことから、『TVスクランブル』など本番組開始までの久米のレギュラー番組を引き継いだような内容がメインとなっており、土曜に代わる「休日前夜」という位置づけでNスタジオからの通常のニュースに加えて、毎回ゲスト2名(男女1名ずつ)をブーメランテーブルに隣接するソファのセットに招いて、「金曜チェック」「奥様教養シリーズ」「ニュースミステリー」[注 15]「カウントダウンJAPAN」「ニュース・ことわざ勉強室」「ニュース分水嶺」「ニュースのふるさと」「世直しエイド」といったコーナーを放送した。
1986年7月から選挙特別番組として『選挙ステーション』がスタートする。
1988年4月改編で朝日放送が金曜22時台撤退により月曜日から金曜日まで放送時刻が統一されることとなり、3月25日と4月1日の2週にわたって「金曜版」終了スペシャルを放送する予定だったが、3月25日は臨時ニュース[注 16]のため放送できず、4月1日のみの放送となった。「金曜チェック」はこの影響で2本立てで放送された。なお、「金曜版」最終回の4月1日より22:00 - 23:17の放送となり(当初の予定通り)、放送開始時刻と放送時間が統一された。
新体制となる1988年4月4日から全曜日統一して報道色の強い構成となったが、金曜は金曜版からの名残もあり、「金曜コンサート」などの企画を設けたり、1990年代に入ってからはテリー伊藤や笑福亭松之助など金曜のみ出演するレギュラーを起用するなど、月曜から木曜までとは違う雰囲気作りが図られるようになる(これは現在の『報道STATION』でも変わっていない)。金曜版を引き継ぐ形でミュージシャンやお笑い芸人がゲストとして登場することもしばしばあった。
1990年には久米が第27回ギャラクシー賞・テレビ部門個人賞を受賞[15]。1993年には番組としてギャラクシー賞30周年記念賞を受賞[16]。
1993年7月1日(木曜日)、久米が同年の下半期突入を期に眼鏡[注 17]を着用するようになった。この頃のメガネはまだ報道キャスターらしいシンプルな枠が無いレンズのみのものであり、このメガネは1999年10月の一時降板までは一貫して変更せずに着用し続けた。
1995年4月からは金曜日のみサブキャスターを1名追加(2名の輪番制)。金曜日のみ久米・小宮・コメンテーターを加えた4人体制となる。
1997年4月から金曜のみに女性スポーツキャスターを設けた。初代はテレビ朝日スポーツ局記者の長島三奈が務めた。
1998年3月27日、小宮が石田純一の後任として『スーパーJチャンネル』月曜日から木曜日までのメインキャスターに就任するため降板[注 18]。但し、『Jチャンネル』金曜日はリニューアルを実施せず、小宮は金曜日のみ当番組に留まり、金曜日は出演者の入れ替えを実施しなかった。小宮が降板した月曜日から木曜日については、2代目サブキャスター就任までの5週間を3人の代理キャスターが繋いだ[注 19])
1998年5月11日、改編期から約1か月遅れでリニューアル。久米に加え、後任のサブキャスターにTBS退社直後の渡辺真理、テレビ朝日スポーツ局記者の白木清か、1997年11月から出演しているコメンテーターの菅沼栄一郎の4人体制となる。これまでは金曜のみ4人体制だったが、このリニューアルによって全曜日4人体制となった。テーマ曲がゴスペラーズの曲に刷新されて、番組のタイトルロゴもリニューアル。オープニング映像もこれまでと全く異なるニュース映像を背景にするものとなる。但し、ニュース映像ではないもの(リニューアルした初回は久米、真理、白木がスタジオに向かう様子の映像を流した[注 20]ほか、ゴスペラーズがゲスト出演した際はスタジオでテーマ曲を歌唱した映像にするなどの例外あり)や、テーマ曲のアレンジ違いなど例外の日もあった。
田代まさしの降板に伴い、小宮が金曜日も『Jチャンネル』に出演するため、1998年9月25日を以って完全降板。翌週の10月2日には丸川も降板した。翌週10月5日より、真理と白木は全曜日出演となる。1999年2月から白木は水曜日から金曜日を担当し、月曜日と火曜日のみ上山千穂が担当。
1999年8月、セットをリニューアル。ところがその約2か月後の10月6日放送を以て、契約切れを理由に久米が番組を一時降板するという異例の事態となった。これを受けて翌10月7日放送から約3か月間、年末まで宜嗣が代役を務めた。
2000年1月4日、久米が3か月ぶりの番組復帰を果たす。それに伴い番組もリニューアルした。上山千穂が全曜日担当することになり、久米・真理・上山とコメンテーターの4人体制となる。また、コメンテーターは4名の輪番制(清水建宇・萩谷順・森永卓郎・船曳建夫。船曳は2000年の途中から2002年まで出演)に一新された。テーマ曲は福岡ユタカ作曲のものに刷新された。スタジオセットやタイトルロゴ・グラフィックデザインもリニューアル。タイトルロゴがカタカナ表示の「ニュースステーション」から英語表記の「NEWS STATION」に変更。オープニング映像もその日の放送するニュース内容の告知を行うスタイルに変わった。リニューアル当初はトップニュースを合成したCGをバックにBGM付きで読み上げる演出も行われた。
2000年3月27日、放送開始時間が6分繰り上がり、21:54開始のフライングスタートとなった。これにより終了時間も23:20→23:09と11分繰り上がった。同時に番組構成も若干変更が行われる。2000年4月14日、金曜日の女性スポーツキャスターの出演者のリニューアルが行われ、テレビ朝日を退社(後に嘱託社員[注 21]として復帰)した長島三奈に代わり、『進ぬ!電波少年』(日本テレビ系列)で注目を集めたタレント・女優の真中瞳(現・東風万智子)を起用。
同日よりNHKが本番組に対抗する形で同時間帯で『NHKニュース10』を開始。
2002年は日韓共催の2002 FIFAワールドカップ開催に因んだ企画を放送。年始は久米が日本の対戦相手であるチュニジアから生中継。4月1日から6月28日まではオープニングで毎日FIFAワールドカップの歴史を流す特別オープニングを放送(ナレーションはサッカー専門キャスターの川平慈英、テーマ曲はCharが担当)。
2002年10月改編で番組開始から17年(一時期降板していた時期あり)出演してきた宜嗣が『スーパーモーニング』のメインキャスターに就任するため降板した。
2003年8月25日、翌年春を以って本番組の放送を終了する事が発表された。久米はこの年の夏季休暇を始めたばかりだったが、この日移転前のテレビ朝日六本木6丁目本社ビル(六本木ヒルズ)で番組終了発表会見(公式には「来年(2004年)3月で降板」と発表)を開き、「十分にやった、スタミナ切れ」「2000年復帰後3年という話だったこと」ということを終了理由に挙げていた。
テレビ朝日・広瀬道貞社長は2003年9月30日の定例会見で、久米が3年ほど前から降板の意向を度々申し出ており、これ以上の慰留は出来ないと判断したため出演契約を2004年春で満了とする事で合意したことを明らかにした[17]。
2003年9月29日、テレビ朝日の本社移転に伴い、放送スタジオがテレビ朝日アーク放送センター(アークヒルズ)からテレビ朝日六本木6丁目本社ビル(六本木ヒルズ)へ移りスタジオセットとテーマ曲をリニューアル。タイトルロゴはそのままで、色がオレンジ/黄色を基調としたものから青/水色を基調としたものに変更された。テーマ曲はU2が担当した。
2004年3月26日の最終回ではその日のニュースに加え、過去19年間のニュースの振り返り、現代の久米(と当時50歳の久米)が番組開始の1985年の本番組へタイムスリップ(という設定の演出)し、スタジオ見学をするなどの内容で放送され19年間の歴史に幕を下ろした(最終回の詳細は後述)。
後継番組は『報道ステーション』である。なお、角澤と河野・スポーツコーナーのみ関わっている宮嶋泰子と栗山英樹は引き続き立ち上げ当初の『報ステ』にも出演することになった。
久米が会見で後継番組の初代メインキャスターを務める古舘伊知郎に関して記者に尋ねられた際、「いや、番組はなくなるって聞いていますから。存在しない番組に司会者が存在するわけないでしょ。」と発言した事に対し、雑誌のインタビューで古舘は「(久米を)冷たい男だなと思いましたけど。」「それから久米さん嫌いになったんですけど。」と述べた。その後には「半分は大先輩だと思って尊敬している。半分は嫌いっていうところに落ち着くんだけど。」と語った[18]。ただし、その後久米は「いかにつらいか、大変さが手に取るように分かる。(最近は)見ていないけど、無意識のうちに避けているのかもしれない」「自分は家を土台から造った。自由に造って来た。でも、彼はその土台を壊す事をさせてもらえずに、建物を造る様にさせられている。その事に苦労していると思う」と古舘を気遣うコメントをしたことがある[注 22][19]。
本番組の後継番組『報ステ』降板後もテレビ朝日への直接の出演を行う古舘伊知郎とは違い、久米は本番組終了後、テレビ朝日への直接の出演を一切行っていない[注 23]。
なお、『報ステ』の初回放送は2004年4月5日であり、2004年3月29日 - 4月2日の当該時間帯は『ANN NEWS&SPORTS』をつなぎ番組として放送した。
期間 | メインキャスター | サブキャスター | コメンテーター | |||||||||
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月曜 - 木曜 | 金曜 | |||||||||||
1985.10.7 | 1991.2.22 | 久米宏[21] | 小宮悦子[21] | 小林一喜 | ||||||||
1991.2.25 | 1991.5.17 | (不在) | ||||||||||
1991.5.20 | 1992.10.9 | 田所竹彦 | ||||||||||
1992.10.12 | 1996.3.29 | 和田俊 | ||||||||||
1996.4.1 | 1997.10.31 | 高成田亨[21] | ||||||||||
1997.11.3 | 1998.3.27 | 菅沼栄一郎 | ||||||||||
1998.3.30 | 1998.4.3 | 堀越むつ子1 | ||||||||||
1998.4.6 | 1998.4.17 | 堀越むつ子1 | 小宮悦子 | |||||||||
1998.4.20 | 1998.5.1 | 渡辺みなみ1 | ||||||||||
1998.5.4 | 1998.5.8 | 渡辺宜嗣1 | ||||||||||
1998.5.11 | 1998.9.25 | 渡辺真理 | ||||||||||
1998.9.28 | 1998.10.2 | (不在) | ||||||||||
1998.10.5 | 1999.4.20 | 渡辺真理 | ||||||||||
1999.4.23 | 1999.10.6 | 轡田隆史2 | ||||||||||
1999.10.7 | 1999.12.23 | 渡辺宜嗣3 | ||||||||||
2000.1.4 | 2002.3.29 | 久米宏 | 清水建宇4 萩谷順4 森永卓郎4 船曳建夫4 | |||||||||
2002.4.1 | 2004.3.26 | 清水建宇4 萩谷順4 森永卓郎4 | ||||||||||
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期間 | サブキャスター | スポーツキャスター | お天気キャスター | |||||||||
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月曜・火曜 | 水曜・木曜 | 金曜 | 月曜 - 水曜 | 木曜 | 金曜 | 月曜 - 木曜 | 金曜 | |||||
1985.10.7 | 1986.3.31 | 橋谷能理子1 坪井貴久美1 | 朝岡聡 杉本典子 | 松本裕子 橋谷能理子 | ||||||||
1986.4.1 | 1987.9.18 | なし | 朝岡聡 | 松本裕子 | ||||||||
1987.9.21 | 1988.3.25 | 松井康真2 | ||||||||||
1988.3.28 | 1988.9.30 | 松井康真3 | 朝岡聡3・4 | 大谷千亜紀 | ||||||||
1988.10.3 | 1990.3.30 | 勝恵子 | ||||||||||
1990.4.2 | 1991.3.22 | 松井康真 | ||||||||||
1991.3.25 | 1991.3.29 | 松井康真 | 松井康真 飯村真一 | |||||||||
1991.4.1 | 1993.9.24 | 飯村真一 | ||||||||||
1993.9.27 | 1993.10.1 | 勝恵子 | 坪井直樹 | |||||||||
1993.10.4 | 1994.3.25 | 坪井直樹 | 勝恵子 坪井直樹 | |||||||||
1994.3.28 | 1994.4.1 | 勝恵子 坪井直樹 | 勝恵子 大石恵 | |||||||||
1994.4.4 | 1995.3.31 | 大石恵 | ||||||||||
1995.4.3 | 1996.3.29 | なし | 岡田洋子5 | 大石恵 内藤聡子 | ||||||||
1996.4.1 | 1996.10.2 | 岡田洋子5 小谷真生子 | 乾貴美子 河合薫 | |||||||||
1996.10.3 | 1997.3.28 | 角澤照治 | ||||||||||
1997.3.31 | 1998.3.27 | 小谷真生子 丸川珠代 | 角澤照治 | 長島三奈 | ||||||||
1998.3.30 | 1998.5.8 | 丸川珠代 | ||||||||||
1998.5.11 | 1998.10.2 | 白木清か | ||||||||||
1998.10.5 | 1999.1.29 | 白木清か | ||||||||||
1999.2.1 | 1999.12.23 | 上山千穂 | 白木清か | |||||||||
2000.1.4 | 2000.3.31 | 上山千穂 | 増田雅昭 | 斎藤義雄 宮部二朗 飯島栄一6 | ||||||||
2000.4.3 | 2000.4.7 | 長島三奈 真中瞳 |
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2000.4.10 | 2000.12.28 | 真中瞳 | ||||||||||
2001.1.4 | 2002.6.28 | 上山千穂 | ||||||||||
2002.7.1 | 2002.9.27 | 角澤照治7 | 河野明子 | |||||||||
2002.9.30 | 2004.3.26 | 河野明子7 | ||||||||||
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すべて日本時間(JST)で記す。
期間 | 月曜 - 木曜 | 金曜 | |
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1985.10.7 | 1988.3.25 | 22:00 - 23:17(77分) | 23:00 - 翌0:00(60分) |
1988.3.28 | 1994.9.30 | 22:00 - 23:17(77分) | |
1994.10.3 | 2000.3.24 | 22:00 - 23:20(80分) | |
2000.3.27 | 2001.9.28 | 21:54 - 23:09(75分) | |
2001.10.1 | 2004.3.26 | 21:54 - 23:10(76分) | |
大災害などの緊急ニュースの発生時には放送を21時からに前倒しあるいは放送終了時間の延長をすることがあった。
初めて放送終了時間の延長を行ったのは、1986年2月25日である。この日フィリピン政変が起こり、それに関連して、30分の時間延長がなされた(詳細は後述)。
初めて前倒し編成を行ったのは、1986年11月21日である。この日に発生した伊豆大島三原山の大噴火に関連して、22時から約2時間の拡大版として放送した(詳細は後述)。
この件をはじめとして、それ以後も湾岸戦争開戦、皇太子徳仁親王ご成婚、阪神・淡路大震災、アメリカ同時多発テロ事件などではほぼ同様の措置がとられ、特に三原山噴火の際には、当時クロスネット局で、テレ朝枠を持っていた山形放送が編成の都合上差し替えもできなかったことから、臨時ネットとして60分のみ放送したことがある。
全国高等学校野球選手権大会が行われる毎年8月中旬の2週間は、ハイライト『熱闘甲子園』(朝日放送制作)を放送するための特例編成となっていた。
大相撲期間中は『大相撲ダイジェスト(以下:ダイジェスト)』を放送するため、『Nステ』は3分短縮となっていたが、1995年4月改編を期に解消された。2000年4月のフライングスタート開始以後はネオバラエティ・金曜ナイトドラマの後に『ダイジェスト』を放送した。2003年9月の六本木ヒルズ新本社移転直前をもって『ダイジェスト』は終了する。なお、1988年3月までの金曜版は23:45までの45分間に短縮して放送していた(通常は途中までがネットセールスだが、45分枠へ短縮時に限り全編ネットセールスとなった)。
オープニングでは、番組開始と同じ1985年に植えられたアークヒルズの桜並木から夜桜中継を行い、スタジオに映像が切り替わるとアークヒルズの夜桜の映像をバックに久米が「こんばんは。最後の『ニュースステーション』です」と挨拶。その後、アークヒルズの桜並木への思い入れを語った。なお、後継番組『報道ステーション』の初代メインキャスター・古舘伊知郎時代最後の回(2016年3月31日放送)でも同様にオープニングでアークヒルズからの夜桜中継を行った。オープニングの後は、後継番組『報道ステーション』の初代メインキャスター・古舘伊知郎時代最後の回同様、この日で最後とは思えない程の通常通りの内容で放送した。番組中には、細川護煕元首相が久米に宛てたビデオメッセージや石原慎太郎東京都知事(当時)が当日の定例会見で当番組が終わることについて問われた際の様子[注 33]なども流した。
一通りニュースを伝え終わった後の番組中盤では「ニュースが撒いた種」としてニュースステーションと縁のある一般視聴者への取材VTRを小西真奈美のナレーションで放送した後、久米は「『ニュースステーション』続ける中で一番苦労したというか、辛かったことっていうのは、いつ終わるか分からないこの番組は、ということでした。(中略)そこで、今日ようやく最終回を迎えたわけですが、「今日最終回を迎えるんだ。そういうことが将来にあるんだということを過去の自分に何とか教えてあげたい」とわたくしはふと思いつきました。そして、過去の自分に3日前(2004年3月23日)に会いに行ってきました」と切り出し、1995年10月16日の番組10周年の特別企画の際に、10年目を迎えた久米が、番組初回の自分を激励しに、当時のスタジオへ行った企画の映像を使い、最終回を迎える久米が、1年目の自分と10年目の自分に、番組終了を報告しに行くVTRが放送された(前述の日付に収録)。
VTRが一旦一区切りしてニュースを2本伝えた際、イラクでの陸上自衛隊の支援活動についてのニュースで久米は「発言の場が無くなってしまうのでもう一度申し上げておきますが、僕はイラクへ自衛隊を日本が派遣する事は反対です」とコメントした。その後天気予報では上山が、スポーツでは角澤と河野がそれぞれ視聴者へ一言挨拶した。
前述のVTRで番組終了を報告した部分は番組として最後となるCM明けに放送され、続けて歴代オープニング曲とその当時の久米の映像を交え、これまで19年間のニュースを振り返った。
その後、フラッシュニュースを挟んでエンディングではまず真理が視聴者への挨拶の一言を述べた。そして、久米が民間放送の在り方について、視聴者を始め、広告代理店の電通、歴代のスポンサー・スタッフなどへ感謝の言葉、小学生時代の自らの通知表の内容、番組や久米個人に対する批判者へのお礼などを述べた。その途中で「僕のご褒美」として久米はセットの中にあった冷蔵庫からビール瓶[注 34]を取り出した。さらに、中国語によるパロディ予告編「久米的電視台」が放送された。
最後は、スタジオに集まった出演者・関係者からの大きな拍手の中、「じゃ、乾杯」と言って久米が一人手酌のビールを一気に飲み干して、「(降板し、一度「お別れ」していた時期があったためか)本当にお別れです。さようなら!」と挨拶し、番組は終了。60歳を目前にして19年間の歴史に幕を閉じた。
番組終了後、同日中に競合番組である『筑紫哲也 NEWS23』(TBSテレビ)内のコーナー「多事争論」で、筑紫哲也が久米宏への「労いの言葉」を述べたことを始め(その日のタイトルは「さようなら、NS」)、翌日以降の情報・バラエティ番組、新聞各紙等でも報道されるなど、報道番組としては極めて例外的な扱いを受けた[33]。
最終回の視聴率は19.7%(ビデオリサーチ調べ、関東地区・世帯・リアルタイム)。
本番組の終了によりプロダクションのオフィス・トゥー・ワンは、同時間帯の報道番組制作から撤退することになる。その後、後継番組『報道ステーション』についてはテレビ朝日と初代メインキャスター・古舘伊知郎の所属事務所でもある古舘プロジェクトの同時間帯の報道番組制作(形としては古舘プロジェクトは制作協力扱い)の引き続きでの体制を取っていたが、古舘が2016年3月31日をもって降板したのに伴い古舘プロジェクトも同時間帯の報道番組制作から撤退することになった為、本番組から31年間にわたって長く続いた平日22時台の報道番組の制作プロダクションは完全に廃止され、2016年4月11日の全面リニューアル以降はテレビ朝日の単独制作になった。
なお後継番組『報道ステーション』については内容の一言を述べておらず、初代メインキャスター・古舘伊知郎にエールを送っていなかったためか、本番組とは全く別の番組だった場面があったという位置付けがなされ、久米側の意向でテレビ朝日側が当初計画していた花束贈呈などの司会者の引き継ぎは一切行われなかった。なお、後継番組『報道ステーション』の初代メインキャスター・古舘伊知郎時代最後の回(2016年3月31日放送)でも同様に花束贈呈などの司会者の引き継ぎは一切行われなかったが、古舘が最後の挨拶の中で、後継番組『報道ステーション』とは全く別の番組だった本番組についての内容の一言を述べた事をはじめ、後任のメインキャスター・富川悠太(当時テレビ朝日アナウンサー)に「乱世の雄になってもらいたい」などとエールを送るという位置付けがなされた場面があった。
番組内で久米が番組の放送開始・主なコーナーの開始時間を一定にするようアピールしてきた。番組(または野球速報)を「日々の生活の一部」として観ている視聴者を尊重してのことで、放送時間の変更があれば、時には前週から丁寧に予告していた。10時開始だった2000年3月までの番組構成を例に挙げると、スポーツは22:30頃、天気予報は22:50頃に放送。
本番組では当初からスポーツニュースに力を入れ、番組後半の多くをスポーツコーナーに費やした。久米曰く「スポーツは僕たちの生活にとって考えている以上に重要な存在だ。ひいきのプロ野球チームの観戦をしたり、ファン同士で熱く語らい合ったり、試合結果に一喜一憂したり。いかにスポーツが自分たちの人生を豊かにしているか。ふさぎがちな日も「阪神が勝った!」で、ほとんどのウサが吹き飛ぶほどの力をスポーツは持っている」「映像技術によって、スポーツの魅力を多角的に伝えることができる。つまりテレビがその機能を最大限に発揮できるジャンルがスポーツなのだ」として、番組開始前からスポーツ担当のスタッフと「スポーツがなぜ重要か」「スポーツをいかに楽しく伝えられるか」を議論し、「スポーツの大切さを視聴者に伝えよう、そのための時間をたっぷり取ろう」という方針を共有した[34]。その方針から以下のような企画や伝え方がなされていた。
プロ野球に関しては当日の試合速報が番組の主力コンテンツとしてあり続けた。2月の「キャンプフラッシュ」、3月の「順位予想」、10月の「日本シリーズ予想&解説」が恒例。日本シリーズに関しては該当チーム以外の監督・選手が解説者として出演することもあった。
川平慈英が専属キャスターとして、Jリーグ開幕時から番組終了まで出演した。Jリーグも試合のある日は全試合の結果を放送、特集枠をJリーグ情報に充てることもしばしばあった。1998年サッカーW杯では川平がフランスから連日放送。2002年W杯ではテレビ朝日が担当した日本対チュニジア戦の放送を久米と川平の司会で放送した。
放送日にJリーグの試合がある場合、他のスポーツニュースでは試合映像の終わりのところでその試合のスコア結果を字幕出ししていたが、この番組はプロ野球と同じ要領で、試合映像を最初に映した後、映像が終わってから別のカットで詳細なスコアテーブルを全画面表示して、そこに川平が選手・監督談話や記録などの一口メモを述べる体裁をとっていた(一部の日、1 - 2試合程度しか行われなかった場合は除く)。
1999年2月1日[24]に「汚染地の苦悩 農作物は安全か?」と題した特集で、民間の環境測定コンサルティング企業である株式会社環境総合研究所(1986年設立、本社・品川区、青山貞一社長)が1998年に独自に計測したデータから、『所沢市の“ホウレンソウをメインとする野菜”/“葉っぱものの野菜”から1グラム当たり3.8ピコグラムのダイオキシン濃度が検出された』と、青山社長がコメンテーターとして久米と対談のうえセンセーショナルに報道した。予てから埼玉県所沢市東部の関越自動車道沿いに広がる「くぬぎ山」と称する雑木林周辺で産業廃棄物の小型焼却炉や中間処分場が1990年以降多数立地するようになり、排煙や焼却灰に含まれるダイオキシンによる大気汚染・環境問題が懸念されていた[24]。1997年に厚生省が全国の野菜に含まれるダイオキシン濃度を検査したことを受け、JA所沢(現:JAいるま野)は地元産のホウレンソウや白菜など野菜5品目を測定するも公表しなかった。そこで番組はこれら周辺の状況を絡めて報じたのである。
この結果、ホウレンソウを始めとする所沢産の野菜がダイオキシンに汚染されていると食品スーパーなど小売業各社が認識し、翌2日より所沢・入間郡産はもとより、一部で県北部の深谷ネギなど埼玉県産の農作物全般で自主的に販売停止措置を講じて締め出されるという騒動に発展[24]。農作物の出荷は継続されるも青果市場で埼玉県産農作物の卸価格が半値以下に下落する被害が出た。
当時、全国朝日放送(通称:テレビ朝日)は『ザ・スクープ』で1995年から1998年にかけて所沢市の産業廃棄物処理場とダイオキシン汚染による健康被害など環境問題を7回取り上げており(判例より)、初回放送直後の放送回でコメンテーターの菅沼は「この報道をやめて(ダイオキシン問題を)救えるかってんだ!」と生放送の番組内で大声で啖呵を切るなどして誤りを認めなかった。
これを受け、同月5日に埼玉県が事実確認を行う旨公表し、テレビ朝日以外のキー局は番組名を伏せて情報番組などで騒動を取り上げるようになった。同月6日にJA所沢(現:JAいるま野)が検査結果を公表する動きを見せ、同月8日にJAと地元農家がテレビ朝日を訪問し抗議。同月9日にJAは野菜のダイオキシン濃度はきわめて低いとする詳細な検査結果を公表し、安全宣言[24]。同月18日に埼玉県が報道の最高値は煎茶であったと発表し、全国朝日放送は番組内で不手際があった事を認めた。煎茶は乾燥しているため本体重量が軽く、生鮮野菜と同量のダイオキシンが見かけの上で多く計算されることによるもので、飲用では健康に悪影響はないものだった。なお、ホウレンソウも同時に計測されており、1グラム中最高0.75ピコグラムであったことが後日公表されており、青山や久米が“ホウレンソウをメインとする葉っぱものの野菜”と抽象的で曖昧な表現に歪曲して批評したことから報道被害を招いたとされている。
同月12日に中川昭一農水相が全国朝日放送(テレビ朝日)報道局長宛に調査を行うよう申し入れを行い、翌2月13日、久米が番組内で農家に謝罪。「検査対象が茶だとは知らなかった」と弁明したが、その後、批判対象は環境汚染の元凶である産廃施設とそれを管轄する行政(所沢市・埼玉県)にあるとする動きを見せた。
全国朝日放送は同年6月21日付で郵政省(現:総務省)から「農業生産者に迷惑をかけ、視聴者に混乱を生じさせる不正確な表現が行われたことは、放送法の趣旨に照らし遺憾」として厳重注意の行政指導を受けた[38]。
所沢市周辺の食品スーパーでは徐々に野菜の販売が再開されたが、それ以外の埼玉県内を含む首都圏の食品スーパー・百貨店では農作物の販売再開に慎重な動きを示した。また逆に狭山茶など埼玉産の煎茶が販売自粛に追いやられ、鹿児島県や静岡県は煎茶のダイオキシン濃度を自主的に検査する動きを見せた。後に中川農水相や小渕恵三首相が所沢産野菜を食して安全宣言を出すパフォーマンスを行う事態になった。
農家側は同年に風評損害を受けたとして、同年9月に当初376人の原告団を結成して全国朝日放送(ANB)[注 41]と環境総合研究所に対して謝罪広告の要求を兼ねた損害賠償請求の集団訴訟を提訴し(浦和地裁 平成11年(ワ)1647号)、民事事件へと発展した。この一連の騒動は販売停止の解消と提訴が行われるまで地元紙の埼玉新聞でほぼ連日報道されていたが、同時期に桶川ストーカー殺人事件や本庄保険金殺人事件など皮肉にも埼玉県を事件現場とする凶悪事件が立て続けに発生し、前者は日本におけるストーカー問題提起のきっかけとなる程社会に衝撃を与えた事件であり後者は被疑者が繰り返しメディアに会見を行うというその行動の特異性からこぞって各マスコミがこの2つの事件の取材に人員を回したことから各マスコミでの報道は急速に縮小した。
訴訟では2001年判決の1審と2002年判決の2審(東京高裁平成13年(ネ)第3301号)がテレビ朝日側が勝訴[24]、最高裁で2審の判決を破棄し、東京高裁に差し戻された((一小)平成14年(受)第846号)[24]。番組終了後の2004年6月16日に、テレビ朝日が農家側に謝罪して和解金1000万円を支払うことで和解が成立。原告団は900万円を三宅島噴火被害による農業振興に役立てて欲しいと三宅村に、100万円を食育活動へ役立てて欲しいと所沢市に寄付した。環境総合研究所に対しては測定内容が事実であったことから1審・2審ともに敗訴が確定している[24]。
『ザ・スクープ』の報道後の1997年に所沢市は「ダイオキシンを少なくし所沢にきれいな空気を取り戻すための条例」など幾つかの条例を施行していたが、この騒動を受けて埼玉県は野焼きの自粛要請・産業廃棄物排出事業者の公表を、政府レベルでは「ダイオキシン類対策特別措置法」・「循環型社会形成推進基本法」が施行され、廃棄物や焼却炉に対する規制が強化された。また、くぬぎ山に所在する産業廃棄物の焼却炉は不燃物を粉砕する中間処理施設への転換が相次いだ[注 42]。
久米はゲスト出演した2014年2月23日放送の『爆笑問題の日曜サンデー』(TBSラジオ系)の中で「地域的にも、所沢の方とか、いろんな所に迷惑をかけた。裁判所に呼ばれそうになるし」といった発言をしている[39]。
それまでニュース番組のセットは、キャスターの背後にクロマキーなどの壁板を置き、横1列になって座るのが主流だった。当番組では後述するように「全国の都市生活者に向けて発信する」という理念から、従来の壁板というセットを廃し、都心の高級マンションの一室のような、都会的でおしゃれなオフィス空間をコンセプトに、「自宅で食べたりくつろいだりするような日常の気分を番組に持ち込みたかった」という。本物の質感とイメージを追求し、木組みの床を貼り、柱や梁、階段には建築用資材を使用。セット建て込みには美術スタッフだけではなく大工の手も借りたという[40]。セットはすべて久米が提供したコンセプトとイメージが実現された。久米はスタッフに念のため予算を聞いたところ「考えなくていい」と言われたという[41]。
スタジオセットは、テレビ朝日アーク放送センター地下3階にあったAスタジオ(テレビ朝日の本社移転後は、六本木ヒルズ新本社4階にある第4スタジオ)に常時建て込まれている状態で、2階(末期のセットでは3階)まで作られたほか、ゲストを招く部屋や家具までも仕込まれるなど大掛りで非常に手の込んだものになっている。コンセプトは「久米宏の部屋」で、放送終了までに5回改築された。
『ニュースステーション』ではキャスター席に特徴的な「ブーメランテーブル」[48]が使われ、メールマガジンのタイトルを『NSブーメラン』とするなどこの番組の名物であった。番組開始当初は濃い色のものが使用されていたが、後に交換されたときには薄い色のものへ変更になった。テーブル自体は、大道具担当ではなく家具メーカーに発注し作られた[48]。
それまでは前述のとおり、横一列に座るのが主流だったが、多くの出演者が座って話す際、横一列では平面的になり、互いの顔を正面から見ることができず、丸いテーブルだと視聴者不在の印象を与えてしまうことから、画面効果と機能面を突き詰めて余分な部分を突き詰めた結果、「湾曲したテーブルの形」になったという。磨きぬいたテーブルに傷がつかないように出演者もスタッフも細心の注意を払い、本番開始直前までテーブルは分厚い布製カバーで覆われ、本番終了後も直ちにカバーをかぶせていた。テーブルは食卓をイメージしているため、従来のように前を覆っておらず、出演者の脚や靴までがすべて見える。さらに、それまで出演者は一つの画面に収めるために肩と肩がぶつかるほど座っていたのを、十分な距離を置いて座らせ、空間を贅沢に使った[49]。
ブーメランテーブルについては、「湾曲していたほうが出演者同士が話しやすい」「情報は一方的伝えるだけでなく、視聴者から帰ってくる反応を汲み取り、さらにまたニュースを伝える」との意図があった[48]。キャスターの足が見えるテーブルは、ニュース番組では初めての試みであり、家具メーカーが製造した一般のテーブルのため、音声のカフボックスや確認用のモニターは設置されなかった[48]。
位 | 視聴率 | 放送年月日 | 備考・放送内容 |
---|---|---|---|
1 | 34.8% | 1994年10月26日 | 日本シリーズ「西武対巨人」戦終了後 |
2 | 31.9% | 1995年10月24日 | 日本シリーズ「ヤクルト対オリックス」戦終了後(1995年の報道番組としては4位[50]) |
3 | 30.6% | 1988年10月19日 | いわゆる「10.19」当日。上記を参照 |
4 | 28.2% | 1995年4月24日 | オウム真理教・村井(元)幹部刺殺事件発生など |
5 | 27.6% | 1995年5月8日 | オウム真理教幹部への単独インタビュー放送など |
6 | 26.7% | 1989年6月26日 | 歌手・美空ひばり死去など |
7 | 26.3% | 1989年2月13日 | リクルート事件でリクルート・江副浩正前会長逮捕など |
1995年3月23日 | 地下鉄サリン事件発生など | ||
1995年4月10日 | オウム真理教幹部各地で逮捕など | ||
1995年4月13日 | オウム真理教施設一斉捜索など |
本番組の放送が始まった頃のANN加盟フルネット局はキー局のテレビ朝日を含めて12局だった。クロスネット加盟である福井県の福井放送(放送開始後の1989年4月加盟)と、宮崎県のテレビ宮崎は、その関係上NNN(日本テレビ系)の夜の最終ニュース『NNNきょうの出来事(現:news zero)』などを放送していた。その他、ANNフルネット局が出現するまでANNに加盟していたクロスネット局に、ネットしていた局はなかった(報道特番等の臨時ネットは除く)。しかし、久米は系列局が都市部に限られていることから「NHKのように全国に配慮した全方位型ではなく、都市生活者に向けたニュース番組にできる」と前向きに捉えていた[13]。
ANNは、テレビ放送ネットワークとしては他の放送系列よりも系列局の設置などにはばかるほどの起伏に当たるばかりになってしまい、その後、日本テレビとフジテレビの人気番組の勢いが優位的になると、各地のローカル局は人気ネット番組の整理に追われるようになる。1989年の熊本朝日放送(KAB)の開局を皮切りに、テレビ朝日はそれまで進んでいなかった全国ネットワーク構築を再展開。それまで他系列とのクロスネットを組んでたローカル局ともネット関係をほぼ断ち切るようになり、フルネット24局体制を『ニュースステーション』の放送期間中に完成させ、「ニュースステーション」は、北海道から沖縄までテレビ朝日の放送が視聴できる体制づくりにも貢献した[注 43]。
なお、番組中に系列局発のローカルニュースを挿入する部分が一貫してなかったため、各系列局の最終版ローカルニュースは、本番組の放送終了後か、深夜枠に回されていた。この方針は『報道ステーション』でも同じである。
放送対象地域 | 放送局名 | 系列 | 放送時間 | 放送開始・備考 |
---|---|---|---|---|
関東広域圏 | テレビ朝日(ANB→EX) | テレビ朝日系列 | 放送時間を参照 | 制作局、 2003年9月まではANB |
北海道 | 北海道テレビ放送(HTB) | 番組開始から | ||
青森県 | 青森朝日放送(ABA) | 1991年10月1日開局[注 44]から | ||
岩手県 | 岩手朝日テレビ(IAT) | 1996年10月開局から | ||
宮城県 | 東日本放送(KHB) | 番組開始から | ||
秋田県 | 秋田朝日放送(AAB) | 1992年10月開局から | ||
山形県 | 山形テレビ(YTS) | ANNに再加盟しANNのフルネット局となった1993年4月1日から | ||
福島県 | 福島放送(KFB) | 番組開始から | ||
新潟県 | 新潟テレビ21(NT21) | |||
長野県 | 長野朝日放送(abn) | 1991年4月1日開局から | ||
静岡県 | 静岡朝日テレビ(SATV) | 番組開始から(1993年9月までは静岡県民放送(静岡けんみんテレビ・SKT)) | ||
石川県 | 北陸朝日放送(HAB) | 1991年10月開局から | ||
中京広域圏 | 名古屋テレビ(NBN) | 番組開始から | ||
近畿広域圏 | 朝日放送(ABC) | 番組開始から(現:朝日放送テレビ)[注 45] | ||
広島県 | 広島ホームテレビ(HOME) | 番組開始から | ||
山口県 | 山口朝日放送(yab) | 1993年10月開局から | ||
香川県 岡山県 |
瀬戸内海放送(KSB) | 番組開始から | ||
愛媛県 | 愛媛朝日テレビ(eat) | 1995年4月開局から | ||
福岡県 | 九州朝日放送(KBC) | 番組開始から | ||
長崎県 | 長崎文化放送(NCC) | 1990年4月開局から | ||
熊本県 | 熊本朝日放送(KAB) | 1989年10月開局から | ||
大分県 | 大分朝日放送(OAB) | 1993年10月開局から | ||
鹿児島県 | 鹿児島放送(KKB) | 番組開始から | ||
沖縄県 | 琉球朝日放送(QAB) | 1995年10月開局から |
※1991年1月の湾岸戦争や1993年1月19日の皇太子妃雅子の婚約など、山形放送(YBC)が数回60分間のみネットしている。
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