筑紫 哲也(ちくし てつや、1935年(昭和10年)6月23日 - 2008年(平成20年)11月7日)は、日本のジャーナリスト、ニュースキャスター。長年にわたって新聞・雑誌・テレビ報道の第一線に立ちつづけ、日本のテレビジャーナリズムの確立に多大な貢献をした業績により日本記者クラブ賞を受賞。朝日新聞社政治部記者、ワシントン特派員、テレビ朝日『日曜夕刊!こちらデスク』メインキャスター、朝日ジャーナル編集長などを経て、TBSテレビ『筑紫哲也NEWS23』キャスター編集長を18年あまり務めた。
晩年
2007年5月14日放送の『NEWS23』で初期の肺癌であることを告白。治療のため、翌日から番組出演を休止した。10月にスタジオ復帰、以降は不定期出演となるが、12月に全身へのがん転移が判明。2008年(平成20年)3月28日をもって『NEWS23』を降板した。
4月「わが国のテレビジャーナリズムの確立に多大な貢献をした」として、日本記者クラブ賞を受賞[24][25]。
11月7日午後、肺癌のため東京都内の病院で死去した。享年74(満73歳没)。時間帯が重なる報道番組同士のライバル関係にあった久米宏、古舘伊知郎らが自らの番組でその死を悼んだ[26][27]。
没後
2008年11月11日、追悼特別番組『筑紫さんが遺したもの - ガン闘病500日』が生放送された。エンディングでは、ニュース23の初代エンディングテーマ「最後のニュース」を井上陽水が生演奏で歌った。
2013年1月、BS-TBSにおいて、ドキュメンタリー『筑紫哲也 明日への伝言〜「残日録」をたどる旅』が放映された[28]。
金平茂紀が講談社のPR誌『本』の2014年2月号から「筑紫哲也『NEWS23』とその時代」を18回にわたって連載。2021年11月、同名の単行本が講談社から発刊された[29]。
長年にわたって新聞・雑誌・テレビ報道の第一線に立ち、発言をつづけるとともに、当事者の話に耳を傾け、紹介した。「筋金入りのリベラリスト」(立花隆)[30]としての一貫した姿勢は「座標軸」にもたとえられた。党派性にとらわれることなく幅広い交友関係を保ち、音楽・映画・演劇・文学・美術・スポーツなどの文化にも深い関心を寄せ、常に現場に足を運び、若者に対して常に暖かい眼を向けていた。
ジャーナリストとして
- 「朝日新聞記者としての30年で培ったジャーナリスト魂と豊富な取材体験を糧に、時流や大勢に流されない安定した報道スタイルで内外の動きを的確に伝え、幅広い視聴者、ニュース源の信頼を得た。鋭いニュース感覚と的確なアジェンダ・セッテングだけでなく、文化活動の発掘・紹介などテレビならではの可能性にも挑戦し、民放テレビ報道の社会的役割の向上にも資した」(2008年度日本記者クラブ賞受賞理由)
- 筑紫の朝日ジャーナル時代からの盟友で、NEWS23にもたびたび出演し、筑紫の最晩年にオーラルヒストリーに取り組んでいた立花隆は、筑紫の訃報に接し、NHK『クローズアップ現代+』の中で「普通の付き合いじゃないんです。だから、本当にショック」「戦後日本が生んだ最大のジャーナリストだと思う」と語り、感極まってテレビカメラの前で慟哭した。
- 読売新聞東京社会部のエース記者からノンフィクション作家となった本田靖春は、死去する半年前に記した筑紫宛の最後の私信で「世間(いかがわしくもあるのですが)は、貴兄を頼りにするしかない。マイクの前で絶命するくらいの気魄で、いまのお立場を死守してください」「何かあったら、及ばずながら援護射撃はします」と激励した[32]。1976年に本田が筑紫への取材で初対面した際、自身の発言に責任を持つ筑紫の姿勢に「おお、ここに本物の新聞記者がいる!」と文字どおり「感動」した。本田は筑紫にとってもっとも敬愛するノンフィクション作家であった。
- 朝日新聞同期入社で、週刊金曜日創刊前から編集委員をともに務めた本多勝一は、「良識派や真のジャーナリスト」がマスメディアの場から締め出されるなか、筑紫には幅広く垣根のない交友関係を築く「武器」があるからこそ活躍できたとする。ただし、本多が「矮小ファシスト」と糾弾する石原慎太郎への態度には我慢がならず、「まるで友人関係じゃないか」と一度だけ文句を言った。[33]
- 朝日新聞の同期で科学部長・社会部長・出版局長を歴任した柴田鉄治は、筑紫の本質はあくまで新聞記者であり、その筆力は「おしゃべりより数段上」だとする。柴田は筑紫が天声人語の筆者になればよいとひそかに思っていたという[4]。
- 「新聞記者のお手本、目標、憧れ」「権力の横暴、行き過ぎに対して警戒する、センサー能力がジャーナリストとしてものすごく高い」「日本だけでなく世界の歴史や文化、伝統の面に常に目を向け、日本のいろいろなジャンルの文化を継承し生まれてくる人たちを励ます。そこが筑紫さんの大きなワールドのひとつ」(岸井成格)
- 「日本人の心や社会のありかたを常に問い続けて座標軸を発信しつづけた」「自分の立っている位置を計測できる、非常に便利なツール」「座標軸男」(鳥越俊太郎)
- 「本当の意味での客観報道というものはないということを示した功績は大きい」「僕よりはるかに教養が高い、いろんなことを知っている。僕は筑紫さんに対してコンプレックスの塊」「キャスターではなく、いつも筑紫哲也としての言葉をしゃべっていた」(田原総一朗)
- 「筑紫さんのスタンスを評価しています。筑紫さんがいなくなれば日本の報道番組はもっとダメになると確信を持って言える」[35](岡留安則)
- 「ジャーナリストではいちばんの友だち」「自分の思想を持ちながら、ある種の柔軟性を持ち、古典や世界を見渡しながら現代を論じることができる稀なジャーナリスト」(梅原猛)
- 「物事の本質を深く考えて、時代を真剣にとらえようとする姿勢が筑紫さんのメッセージに常にこもっていた」「エスタブリッシュメントからも認められていたし、保守の人たちとも議論する場を持っていました」「誰もが自分に近いと思うし、彼はそう思わせるカメレオン性の技を持っていた」(寺島実郎)
- 「知的エピキュリアン」「名伯楽」「最後まで多くの人の声に耳を傾け、自分が語るのではなく、時代に語らせることを貫き通しました」(姜尚中)
- 「バランスをとるというよりは、きちっとした座標軸がある」「常に羅針盤であった」(岡本行夫)
- 「日本のオピニオンリーダーであり、ちょっとキザ、ちょっと大衆的、このバランスが非常によかった」(堺屋太一)
- 「戦後日本のジャーナリストで国際的な見識のある人は少ないけれど、筑紫君は沖縄とアメリカとの関係を見すえた特異な存在」「英語が抜群にうまいわけではなかった(中略)けれども自在に使っていました」「彼は人間として熟していました。そんなジャーナリストはもういませんね」(國弘正雄)
- 「権力が市民を傷つけないように、より深いところから鋭く監視していくことに徹する。プロ中のプロで、骨の髄までジャーナリスト」(堀田力)
- 「歩くリベラル、存在そのものがリベラル」「あれだけの風圧のなかで、いろんな方向から飛んでくる批判の矢をきっちりと受けとめていた」「妙に律儀というか、偉ぶらない」「人間関係の機微を大事にし、気安い雰囲気の中で交友関係を広げていく」(佐高信)
- 「(訃報を目にして)思わず涙があふれた。凄い人だったな。いい人だったな。お世話になったな、と、いろんなことを思い出した」「勇気のある人だった」(鈴木邦男)
- 「何度も投げ出しそうになったり、圧力に屈しそうになった。そのとき、筑紫さんの書いたものが背中を支えてくれました」「ほんとうの意味での沖縄の理解者」(大田昌秀)
- 「心おきなく話ができる友人」「権力とは一線を画すというジャーナリストの矜持を持っていた」(福田康夫)
- 「新聞記者であんなに品のいい人はいないんじゃないかと思う」(三木睦子)
- 「日本がこれから歩んでいく道筋の危険さを身に感じながら、ほとばしるようにしゃべっておられた」「筑紫さんに影響されて、テロ特措法や自衛隊の出動等にも棄権をしたり退席をしたり、そういう行動をした。筑紫さんに導かれた」(野中広務)
- 「極めつきの聞き上手」「本当にこちらが安心して、胸襟を開いて話せる」(田中真紀子)
- 「非常に公平・公正に私の言い分をきちんと取り入れながら、また一方で、権力側、検察側はこうだと」(鈴木宗男)
- 「名もないけれど、新しいチャレンジをする人を応援する、それが筑紫哲也さん」(菅直人)
- 「いつもニコニコしていましたが、常に自分のことではなく、未来の世代に何を残せるかに心を砕いていた」(辻元清美)
- 「彼の軌跡全体を眺めると、動じたところがまるでない。見事に自分を保ちきっている」「しかも、潰されない。桁外れの大物ではなかったか」(中山千夏)
- 阿川佐和子がニュース23に出演していたころ、左翼の思想家である安東仁兵衛と右翼の論客である野村秋介を同時に番組に呼んだ。番組中は激しいやり取りが交わされたが、番組終了後のスタッフルームでは筑紫を間に挟んで二人が和やかにビールを酌み交わしていた。筑紫は野村の娘の結婚披露宴にも出席している。
- 『NEWS23』でサブキャスターを務めた草野満代は「テレビの世界では、ドキュメンタリー番組をコンスタントに作り続けることが難しい状況が続いています。でも『NEWS23』ではよく、20分くらいのドキュメンタリーを入れこみました。ほかのニュースをカットしてでも、ドキュメンタリーを伝える場を守り続けたのが筑紫さんです」と述べた[47]。
文化人として
- 小澤征爾は「とにかくものすごい音楽好き。怖い聴衆の一人でしたが、毎回演奏を聴いて長い目で見てくれるから、とてもありがたかった」「音楽についての報道でも、彼はメッセージを持っていたし、それを支えるだけのニュースとプロ並みの見識、愛着と愛情がありました」とする。小澤は「こういう職業で、音楽とか文学とかをとことんお好きで、研究していて、自分の意見がある、こういう人は外国にもいない」「若い音楽家を大事にする姿勢ははっきりしていた」とも述べている。筑紫は齋藤秀雄没後30周年の2004年にサイトウ・キネン・オーケストラによるメモリアルコンサートの司会・進行役を務めた。
- 「年間で200日くらい(中略)コンサートに通ったんじゃないですか。どの会場にも彼がいました」「政治や経済よりもむしろ文化に興味があった」「芸術的なメディアすべてに興味のある稀有な人」「左翼なんかではないです。軸足がずれなかっただけ」(三枝成彰)
- 「言ってみりゃサムライだね」「粋だし、悟りもひらいているし、動じないでしょ。しかも文化、歌舞伎みたいなものにも造詣が深くて、それでいて政治のことは譲らない。かっこいい男だったよね」「あったかい感じがしましたね。人の話を逸らさないからね。真剣に聴いてくれる」(十八代目中村勘三郎)
- 「亡くなるまで23年間、僕の芝居をすべて見てくれています」「演劇だけではなく、筑紫さんの興味は映画も音楽も古典も文学も網羅し、じつに多彩でした」「文化と教養のある大人」(鴻上尚史)
- 「ハッキリ言って英語は流暢ではなく、とつとつとお喋りになるのね。でもそれが相手にはとても誠意があると感じられるようで、筑紫さんのインタビューが終わった後は皆、「あの人は良かった」とおっしゃいました」「映画に対する真摯さとか、質問の内容が違った」(戸田奈津子)
- 「現実的に、映画評論家として確立させてくれたのは筑紫さん」(おすぎ)
- 「敬愛し、信頼していた」「上の立場にいる人は、気取って、実物以上に見せようとしてしまう。それが筑紫さんにはなかった。本当に自然で、それが気持ちよかった」(瀬戸内寂聴)
- 「あんなに若者に対してルサンチマンがなく、優しかった人はいませんでした」「最も影響を受けたのは、違う立場の人ともコミュニケーションをとろうとする姿勢」(平野啓一郎)
- 「きっと、筑紫さんにとって僕は、坂本龍一というよりは、「坂本一亀の息子」だったんでしょう。ある意味で、僕にとって父親のような存在でした」(坂本龍一)
- 「(2007年末の「クリスマスの約束」の感想を寄せた手紙に対して)人生の中でこんなふうに心が浮き上がるような嬉しい瞬間というのは滅多に訪れません」(小田和正)
- 「稀代の名ジャーナリストは「稀代の紳士」でいらっしゃいました」(中島みゆき)
- 「すごく丁寧に人と会い、必ず自分の目で確かめてお話をされる稀有な方」「無名の人を引っ張りあげる力、先導する力があった」(加藤登紀子)
- 「温かくて、頼りがいのある方でした。でもそれを決してひけらかさない」(石川さゆり)
- 「ものを斜めに見ることもなく、居丈高にもならず、いろんな人と同じ目線を持つ。誰にでもできることじゃないですよ」(樹木希林)
- 「自分がかかわった人の死で涙を流したのは、芸能界で引き立ててくれた山岡久乃さんと、てっちゃんだけ」「てっちゃんは、まさに「強いものには強く、弱い者には弱い」人でした」(和田アキ子)
- 「哲也は、ひたすら私の話を聞いてくれた」「70歳近い人で、他人の話を聞く人に初めて会った」「沖縄の人たちが哲也を好きなわけがわかった気がした」(Cocco)
- 「あの安心感は何なんでしょうね。とても温かい人だし、あの器の大きさは男としてすごく憧れる」(草彅剛)
- 「いろんなジャンルのかたから信頼されていて、自分と違う意見を持っている人にもきちんと耳を傾けて、その上で自分がどう思うかがあったと思う」(菅野美穂)
- 「とにかく物知りで、私が何を質問しても、すごく分かりやすくいろいろ教えてくださいました」「優しくてたたずまいが素敵で、芯があって決してブレない。いつも表情は穏やかでニコニコしていました」(綾瀬はるか)
- 「ロマンというか夢というか、そういうものを持たれているのが非常に伝わってきましたね」(松井秀喜)
- 「自分をさらけ出してしまいたくなるような人間的度量というか、心の深さから生まれる柔らかさがありましたね」(松坂大輔)
- 井上陽水は「日曜夕刊!こちらデスク」で自身の楽曲「傘がない」の歌詞の「テレビではわが国の将来の問題を 誰かが深刻な顔をしてしゃべってる」を取り上げた回を視聴し「ジャーナリズムに身を置きながら、ジャーナリズムを突き放して見ることができる。ある意味で、ユーモアがわかる人なんだ」と感じたことを話している。それもあって同番組の最終回に出演し、「傘がない」を含んだ3曲を歌唱した。その後も井上は「NEWS23」に楽曲提供をしたり、筑紫と麻雀をするなど、親交を深めていった。なお、筑紫と井上には政治や家庭などの立ち入った話はしないという暗黙の了解があった。井上は「筑紫さんの功績のひとつは、ユーモアの大切さを意識されていたことだと思います。この真面目な国では、深刻そうに語ることが求められて、ちょっとした笑いや諧謔も『不真面目だ』とか言って、許されないところがありますから。ユーモアを口にしたり受け止めたりするには、余裕がないとできません。番組では、『なかなか面白い冗談を言うな』という感じではかならずしもなかったのですが、ユーモアがもつ可能性に注目していた、という意味で特別だったと思います」「政治家なんかにしてもね、筑紫さんならということで出演した方もいらっしゃるんじゃないでしょうか。鷹揚で優しいからなのか、どんなものでもまずは肯定しようとするスタンスがあったようにも思います」「筑紫さんは『観察者』だったと思います。へたに才能があると『演者』になろうとして、観察者にはなれない。自分が演じるのではなく、演じている誰かを見たり、世の中に紹介したりするという意味で、観察者のプロだったといえるのかもしれません」と評している[65]。
否定的評価
- 吉本隆明は、テレビキャスターの筑紫や久米宏は、自分を棚上げにして、キレイごとやカッコいいことをいって、そのうえ他人にはキツイことばかり要求しているとし、「民衆の味方です」みたいな顔して発言をしているが、果たして筑紫や久米が普通の民衆なのかあるいは民主主義が身についているかといえば、そうではないと批判している[66]。
- 上杉隆は、筑紫の打ち立てた功績は揺るぎないものであるとしながらも、ジャーナリストの頂点まで上り詰めた晩年の筑紫に関しては、議論で追い詰められても反論しようとしなかったり、思想信条による議論よりも友情を優先するようになっていたことに対して批判的にとらえている[67]。
- 田中康夫とは『朝日ジャーナル』時代に「若者たちの神々」最終回で対談し、これがきっかけとなり「ファディッシュ考現学」の連載を依頼した。筑紫の「現場主義」に田中は影響を受けたものの、その後は距離が開くようになり特に田中が厳しい評価を下していた細川護熙内閣に対して、筑紫が無批判であったことに関して「筑紫哲也朽ちたり」と評した。その後筑紫からの取材に関しての直接の返答はなく[68]、「どう曲がって伝わったのか、私が当人の制止をふり切って撮影を強行したと非難するコラムを書いた作家がいた。おそらく放送は観ていなかったのだろうが、粘着気質なことで知られるこの作家は以来、未だにそのことにこだわっていろいろ書き続けているらしい(私は読んでいないが)。」と著書内で記すのみであった[69]。その後田中は何度か筑紫と対面する機会があったことが日記から分かるものの、筑紫が亡くなった前後の「ペログリ日記」にも筑紫死去に関しての言及はなかった[70]。一方で筑紫が『NEWS23』内などでその後も田中を応援し続けていたことや、2人に引き続き親交が存在したことを記す人物もいる[71]。
- 元首相の森喜朗は、月刊誌『Will』にて自らの内閣がマスコミに叩かれた背景として、自身の所属していた福田派の敵対派閥と懇意にしている官邸記者達が多かったことを一因に挙げ、続けて筑紫がある結婚式で「今日は、森前総理も見えていますが、森政権時代、我々も『森を潰せ』という戦略で少しやりすぎだったと思っています。一国の総理とメディアの間には、ある程度の緊張感が必要で、ある程度の批判はする。しかし、森さんについてはやりすぎたという反省がある」と述べ、森は「何をいまさら」という気分だったと述べている[72][† 5]。
- 筑紫の「沖縄=戦争と基地の悲劇の島」という沖縄観はステレオタイプという批判がある。日本経済新聞社元那覇支局長大久保潤と篠原章の共著『沖縄の不都合な真実』(新潮新書、2015年、142-143p)「第6章本土がつくったオキナワイメージ」では、琉球史研究の第一人者で副知事だった高良倉吉が、「いつのまにか、沖縄人は大江健三郎と筑紫哲也が言う被害者沖縄のイメージ通りに振る舞うクセが付いてしまった」と発言して、筑紫の沖縄観が沖縄県内で定着した結果、戦争も基地も被害者の視点だけで語り、自立に向けた議論を阻み、「日本はなんとかしろ」という依存体質や陳情文化が一般人にも蔓延したことを解説したこと、「沖縄が自立できないのは筑紫哲也のせいだ」という言葉を、戦後60年の取材中に地元の複数人から聞いたことが触れられている。沖縄に家系を持つ与那原恵は、『迷惑な沖縄愛』という小論を別冊宝島Real『筑紫哲也「妄言」の研究』に寄稿し、News23でも何度も特集された95年の米兵による少女暴行事件の抗議集会は自発的に集まった人が多数を占めたが、沖縄人に強く訴えかけた大きな理由は、被害者が「少女」』だったこと、沖縄のこの種の集会は、中学生や高校生の少女が作文や詩を読み上げるが、この集会でも普天間高校の女子高生が作文を読み、彼女は数年間にわたってNews23に取材されることになったが、筑紫に仮託された「沖縄の少女」というイメージに縛られるのはいやだろうな、と述べている。また、筑紫が沖縄を愛するのは、自分は無知な少年だったから軍国少年に染め上げられてしまったのだという戦争を止められなかった大人への恨みを重ねることができるのは、沖縄を象徴する「少女」であり、無垢で清らかな自分と日本と米国の大国の論理で振り回されてしまう被害者としての沖縄という感覚を共有できると思っているからだが、沖縄戦の実相は複雑であり、また沖縄は複雑な感情や打算がうずまく島でもあり、人間の暮らしとはそういうものであり、沖縄ではかつての左翼的言説に人々がなびかなくなっており、左翼が沖縄に仮託して、自分たちの言いたいことを言っているに過ぎないことに気づいてしまったこと、そして、この先も沖縄に関心を持ち報道していくなら、沖縄の現実や複雑な思いや変化を正確に見て、筑紫が沖縄人に好かれていないという事実も直視すべき、と述べている。
筑紫家は江戸時代より続く医師の家系だった。哲也の叔父が跡を継いだものの軍医となり戦死したため、小野村唯一の医家としては断絶した[1]。
父・和臣は東京電力の前身会社に勤務していた[74]。哲也はその長子であり、弟妹が4人いる[1]。父方の祖母は田中小実昌の母親の姉であった[75]。
瀧廉太郎との縁
瀧廉太郎は大伯父(滝の妹・トミが筑紫の母方の祖母)[76][77]。筑紫自身はかつて「私には音楽の才能がないので、私が『瀧廉太郎の親戚』であるということを非常に戸惑っていた」と述懐している。筑紫は1993年から、竹田市にある瀧廉太郎記念館の名誉館長を務めていた。
- ハイライトとマールボロの赤を1日3箱吸っていたヘビースモーカーだった。肺癌になって禁煙した後も「一服できないと面白くない」「百害あって一利なしと言うけど、文化は悪徳が高い分、深い。(たばこの喫煙は)人類が発明した偉大な文化であり、たばこの代わりはありませんよ。これを知らずに人生を終わる人を思うと、何とものっぺらぼうで、気の毒な気がしますね」「癌の原因はストレスで、たばこはきっかけにすぎない」と語った[78]。
- ピースボート主宰の辻元清美を学生時代から支援し、辻元が土井たか子から政界入りを打診された際には後押しした。筑紫は辻元に「製造元責任」があると述べていた。
- 「NEWS23」出演時には、番組のラストを決まって「では、今日はこんなところです」という言葉で締め括っていたが、これはアメリカのアンカーマンであるウォルター・クロンカイトの言い回しの直訳である。
国会議員の年金未納問題を批判していたが、自身の年金未納が発覚(1989年から1992年6月までの2年11か月)。2004年(平成16年)5月13日放送の『NEWS23』で謝罪し、翌日から一時期番組の出演を見合わせた[79]。
没後の2011年7月、筑紫の遺族が、筑紫の遺産について総額7000万円の申告漏れを東京国税局から指摘された。そのうち海外口座の4000万円は意図的に申告から除外する遺産隠しだったと認定され、重加算税を含む約2000万円の追徴課税となった[80][81]。
「NEWS23」以後、TBSと専属契約を結んでおり、基本的にテレビ出演はTBS系列の放送局に絞っていた。ただし、フジテレビ『トリビアの泉 〜素晴らしきムダ知識〜』にVTR出演したり、年に1回テレビ朝日の特番にゲスト出演していた。
テレビ
報道・討論番組
さらに見る 期間, 番組名 ...
期間 | 番組名 | 役職 | 備考 |
1978年4月 | 1982年9月 |
日曜夕刊!こちらデスク(テレビ朝日) | パーソナリティ | |
放送期間不明 |
ザ・権力!(テレビ朝日) |
1983年4月 | 1983年6月 |
TVスクープ(テレビ朝日) | 前述の衆議院選挙に向けての政権放送に出演した事に伴い停職処分を受け、番組開始から3か月で降板 |
1987年5月29日 |
朝まで生テレビ!(テレビ朝日) | 討論司会 | |
1989年10月 | 2008年3月 |
筑紫哲也NEWS23(TBS) | メインキャスター | 番組降板まで3か月は、スペシャルアンカー(特別キャスター)として不定期での出演 |
閉じる
バラエティ・特別番組
ラジオ
- 筑紫哲也のハローワールド(TBSラジオ)
- 筑紫哲也のニュース・ジョッキー(TBSラジオ)
- 筑紫哲也のドキュメントにっぽん(TBSラジオ)
- 筑紫哲也 土曜日の交差点(エフエム東京)
註釈
沖縄戦終結の日と自身の誕生日が同じ6月23日であり、誕生日を祝う習慣がなくなったという
三木の側近だった海部俊樹は、折に触れて筑紫が見解を記したメモを渡すのを見ていた。のちに海部が内閣総理大臣になった際、筑紫に対してしきりに「メモをくれ」と促した。筑紫が応えたのは1回だけだったという。
石川は、三人が道場の窓を覗き込むときに四つん這いになって台になってくれたのが安東であるとした。
なお、筑紫自身も『ニュースステーション』のメインキャスターの候補の一人として名前が挙がっていた。
筑紫は晩年、立花隆を聴き手とするオーラルヒストリーにおいて、そもそも森は総理大臣になるべき人ではなく、個人的によしみを通じる機会のなかった人物が総理大臣になった唯一の例外であり、就任が決まった際には余計な摩擦を生むことが確実であることから「しまった」と思った、と述べている。
出典
多賀幹子「「ウォッチ・ドッグ」をめざす23時の顔 筑紫哲也」『潮』第410号、1993年5月、238-247頁。
筑紫哲也『旅の途中 巡り合った人々1995-2005』p.192
丸山眞男『丸山眞男書簡集5 1992-1996・補遺』みすず書房、2004年9月1日、235-239頁。
中国新聞 日刊 2016年10月9日28面『V7 私の鯉心(6) 久米宏さん』
『原爆ドーム 4000人の心』幻冬舎、2020年6月25日、40-41頁。
筑紫哲也『旅の途中 巡り合った人々1995-2005』p.149
『創刊20周年を迎えた『噂の真相』を語る』 21巻、5号、噂の真相、1999年4月1日、22-23頁。
森喜朗(聞き手大下英治)「「失言問題」、朝日新聞を叱る」『WiLL』2007年9月P51-52
“固く冷たい「郷土」”. 日刊ブログ新聞ぶらっと!. 始終至智の旅 (2007年12月17日). 2012年1月19日時点のオリジナルよりアーカイブ。2022年10月8日閲覧。
瀧廉太郎について 日出ロータリー週報、第1591回例会平成29年11月07日(火)例会記録No.15
「筑紫哲也氏も2年11ヵ月 番組で陳謝」『毎日新聞』2004年5月14日
「筑紫哲也さん遺族 遺産隠し 国税指摘 米マンション売却益4000万円」『読売新聞東京夕刊』2011年7月7日、13面。
「申告漏れ:筑紫さん遺族、遺産隠し 海外資金の4000万円、修正申告済み」『毎日新聞西部朝刊』2011年7月8日、26面。