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日本のジャーナリスト・ニュースキャスター ウィキペディアから
筑紫 哲也(ちくし てつや、1935年(昭和10年)6月23日 - 2008年(平成20年)11月7日)は、日本のジャーナリスト、ニュースキャスター。長年にわたって新聞・雑誌・テレビ報道の第一線に立ちつづけ、日本のテレビジャーナリズムの確立に多大な貢献をした業績により日本記者クラブ賞を受賞。朝日新聞社政治部記者、ワシントン特派員、テレビ朝日『日曜夕刊!こちらデスク』メインキャスター、朝日ジャーナル編集長などを経て、TBSテレビ『筑紫哲也NEWS23』キャスター編集長を18年あまり務めた。
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筑紫 哲也 | |
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生誕 |
1935年6月23日 日本、大分県日田郡小野村(現在:日田市) |
死没 |
2008年11月7日(73歳没) 日本、東京都 |
出身校 | 早稲田大学政治経済学部経済学科 |
職業 |
ジャーナリスト ニュースキャスター |
活動期間 | 1959年 - 2008年 |
影響を受けたもの | 丸山眞男 |
肩書き |
朝日新聞記者(1959年 - 1984年) 「朝日ジャーナル」編集長(1984年 - 1987年) 朝日新聞編集委員(ニューヨーク駐在、1988年 - 1989年) TBSテレビ『筑紫哲也NEWS23』キャスター編集長(1989年10月 - 2008年3月) 早稲田大学大学院公共経営研究科専任教授 立命館大学客員教授 「週刊金曜日」編集委員 など |
配偶者 | 筑紫房子 |
子供 |
筑紫拓也(長男) 筑紫ゆうな(次女) |
受賞 |
第21回ベストドレッサー賞 学術・文化部門(1992年) 第30回ギャラクシー賞・テレビ部門個人賞(1993年) 日本記者クラブ賞(2008年) |
栄誉 | 日田市名誉市民(2006年) |
1935年(昭和10年)、大分県日田郡小野村(現在:日田市)で筑紫和臣・文子夫妻の長男として生まれた[1]。静岡県立沼津東高等学校、東京都立小山台高等学校を経て、早稲田大学第一政治経済学部[2]経済学科卒業。
1959年に朝日新聞社に入社。同期には本多勝一、轡田隆史、上前淳一郎、柴田鉄治、田中豊、和田俊、浅井泰範、田所竹彦、荒垣敬らがいる[3][4]。同年の朝日新聞社の入社試験は英語と論文と面接だけで一般常識などの筆記試験がなく、「常識なしの(昭和)34年組」と社内で皮肉られたという[5]。面接の身上調書では愛読書を1冊書けとあり、一世を風靡した丸山眞男『現代政治の思想と行動』にしようとしたものの、面接で論争したら負けると思い、「鉄道時刻表」と書いて出した。面接では無銭旅行の話で大ウケであったが、論説主幹であった笠信太郎に(大学でやったはずの)景気循環論の話題を振られると、まったく歯が立たなかった[6]。
新人記者としての赴任先は宇都宮、次いで盛岡であった[7]。支局で計4年を過ごし、政治部に異動[8]。政治記者としてのスタートは内閣総理大臣・池田勇人番だった[9]。
1968年5月から1970年まで、アメリカ統治下の沖縄に政治部の「特派員」として赴任し、返還前の沖縄を精力的に取材[10]。その後も生涯にわたって沖縄に心を寄せた[† 1]。
1971年7月から1974年までワシントン特派員。沖縄返還を翌年に控えた1971年、朝日新聞の130回にわたる長期大型連載企画「日本とアメリカ」において、キャップの松山幸雄から、各章のまとめと次章へのつなぎの執筆をすべて任された[4]。1972年に起こったウォーターゲート事件について、発端から終末まで現地で取材した唯一の日本人記者であるという[11]。
外務大臣や内閣総理大臣を務めた三木武夫と睦子夫人、ブレーンであった平沢和重や國弘正雄からの信頼が篤く、たびたび助言を求められた[† 2]。
1976年1月から「朝日ジャーナル」副編集長を務め、ロッキード事件を追っていた立花隆と盟友関係となる。このころ、筑紫を評価した安東仁兵衛を通じて丸山眞男の知遇を得る[13]。1970年代後半から安東・石川真澄・岩見隆夫・松山幸雄・富森叡児・堤清二とともにしばしば丸山を囲み、丸山はこの集まりを「楽しき会」と呼んだ[13][14]。「安東組」たる安東・石川・岩見の四人で、丸山を講師として福澤諭吉『文明論之概略』の勉強会も行った[13][14]。筑紫は丸山の「蓮華窓(連子窓)の弟子」、石川は「武者窓の弟子」と記した[† 3]。筑紫は折に触れて貴重なCDやLDを丸山に贈り、オペラやクラシックコンサートをともに鑑賞する間柄であった[13][15]。
1977年6月、外報部次長。1978年4月から1982年9月までテレビ朝日「日曜夕刊!こちらデスク」にメインキャスターとして出演し、番組として第16回ギャラクシー賞を受賞(1979年)。
1983年6月、第13回参議院議員通常選挙にあたって無党派市民連合の政見放送に出演、停職3か月の処分を受ける[16]。同年4月からキャスターを務めていたテレビ朝日系『TVスクープ』も降板[17]。
10月からTBSラジオ『筑紫哲也のハローワールド』にレギュラー出演。翌1984年4月から1988年4月まで、『筑紫哲也のニュースジョッキー』に出演した。
1984年1月から1987年3月まで「朝日ジャーナル」編集長を務める。編集長自らインタビューを行う「若者たちの神々」「新人類の旗手たち」「元気印の女たち」などの「軽チャー路線」が世間の目をひく一方で、1986年12月5日号を皮切りに、マスメディアとしてはじめて統一協会による霊感商法を徹底的に追及。編集長を伊藤正孝に譲ったあとも同誌のキャンペーンは続き、「霊感商法」という言葉が世間に定着するきっかけをつくった[18][19]。
1989年10月2日、『筑紫哲也ニュース23』放送開始。1985年10月開始のテレビ朝日系列『ニュースステーション』メインキャスターで大学の後輩でもある久米宏と並び、民放ニュースキャスターの顔として広く認知された。久米宏とは「広島東洋カープのファン」同士という共通点があったため、日刊スポーツの企画で1991年(平成3年)の西武ライオンズとの日本シリーズを仲良く観戦している[21]。久米は「筑紫さんは戦争の歴史を刻んだ沖縄と広島に心を寄せ、地方球団、市民球団のカープを愛していました。筑紫さんは、"反中央"、"反権力"という自分の性格をカープに重ねたのではないか」と述べている[21][† 4]。
1992年(平成4年)、第21回ベストドレッサー賞学術・文化部門を受賞。1993年(平成5年)には『筑紫哲也ニュース23』のメインキャスターとしての業績に対して第30回ギャラクシー賞・テレビ部門個人賞を受賞[22]。
1993年に創刊された『週刊金曜日』の発刊を呼びかけ、朝日新聞同期入社の本多勝一らとともに手弁当で全国を行脚した。創刊前から死去するまで15年にわたって同誌の編集委員を務め、コラム「自我作古」を連載。
1994年、出身地の大分県日田市に新たな地域文化を築くべく若者を中心に設立された市民大学「自由の森大学」の学長となり、2006年の閉校まで務めた。同年、文化・郷土の振興発展の事績により日田市名誉市民の称号を贈られる。
2004年8月6日には、広島県の原爆ドームを訪れた。その際山﨑理恵子が主宰をする原爆ドーム合作絵画の会が『A子ちゃんの遺言』と題したF100号の合作の絵画の制作を行なっており、「平和」と書いてある下に筑紫は「和平」の文字を書き込んだ[23]。
2007年5月14日放送の『NEWS23』で初期の肺癌であることを告白。治療のため、翌日から番組出演を休止した。10月にスタジオ復帰、以降は不定期出演となるが、12月に全身へのがん転移が判明。2008年(平成20年)3月28日をもって『NEWS23』を降板した。
4月「わが国のテレビジャーナリズムの確立に多大な貢献をした」として、日本記者クラブ賞を受賞[24][25]。
11月7日午後、肺癌のため東京都内の病院で死去した。享年74(満73歳没)。時間帯が重なる報道番組同士のライバル関係にあった久米宏、古舘伊知郎らが自らの番組でその死を悼んだ[26][27]。
2008年11月11日、追悼特別番組『筑紫さんが遺したもの - ガン闘病500日』が生放送された。エンディングでは、ニュース23の初代エンディングテーマ「最後のニュース」を井上陽水が生演奏で歌った。
2013年1月、BS-TBSにおいて、ドキュメンタリー『筑紫哲也 明日への伝言〜「残日録」をたどる旅』が放映された[28]。
金平茂紀が講談社のPR誌『本』の2014年2月号から「筑紫哲也『NEWS23』とその時代」を18回にわたって連載。2021年11月、同名の単行本が講談社から発刊された[29]。
長年にわたって新聞・雑誌・テレビ報道の第一線に立ち、発言をつづけるとともに、当事者の話に耳を傾け、紹介した。「筋金入りのリベラリスト」(立花隆)[30]としての一貫した姿勢は「座標軸」にもたとえられた。党派性にとらわれることなく幅広い交友関係を保ち、音楽・映画・演劇・文学・美術・スポーツなどの文化にも深い関心を寄せ、常に現場に足を運び、若者に対して常に暖かい眼を向けていた。
筑紫家は江戸時代より続く医師の家系だった。哲也の叔父が跡を継いだものの軍医となり戦死したため、小野村唯一の医家としては断絶した[1]。
父・和臣は東京電力の前身会社に勤務していた[74]。哲也はその長子であり、弟妹が4人いる[1]。父方の祖母は田中小実昌の母親の姉であった[75]。
瀧廉太郎は大伯父(滝の妹・トミが筑紫の母方の祖母)[76][77]。筑紫自身はかつて「私には音楽の才能がないので、私が『瀧廉太郎の親戚』であるということを非常に戸惑っていた」と述懐している。筑紫は1993年から、竹田市にある瀧廉太郎記念館の名誉館長を務めていた。
国会議員の年金未納問題を批判していたが、自身の年金未納が発覚(1989年から1992年6月までの2年11か月)。2004年(平成16年)5月13日放送の『NEWS23』で謝罪し、翌日から一時期番組の出演を見合わせた[79]。
没後の2011年7月、筑紫の遺族が、筑紫の遺産について総額7000万円の申告漏れを東京国税局から指摘された。そのうち海外口座の4000万円は意図的に申告から除外する遺産隠しだったと認定され、重加算税を含む約2000万円の追徴課税となった[80][81]。
「NEWS23」以後、TBSと専属契約を結んでおり、基本的にテレビ出演はTBS系列の放送局に絞っていた。ただし、フジテレビ『トリビアの泉 〜素晴らしきムダ知識〜』にVTR出演したり、年に1回テレビ朝日の特番にゲスト出演していた。
報道・討論番組
期間 | 番組名 | 役職 | 備考 | |
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1978年4月 | 1982年9月 | 日曜夕刊!こちらデスク(テレビ朝日) | パーソナリティ | |
放送期間不明 | ザ・権力!(テレビ朝日) | |||
1983年4月 | 1983年6月 | TVスクープ(テレビ朝日) | 前述の衆議院選挙に向けての政権放送に出演した事に伴い停職処分を受け、番組開始から3か月で降板 | |
1987年5月29日 | 朝まで生テレビ!(テレビ朝日) | 討論司会 | ||
1989年10月 | 2008年3月 | 筑紫哲也NEWS23(TBS) | メインキャスター | 番組降板まで3か月は、スペシャルアンカー(特別キャスター)として不定期での出演 |
バラエティ・特別番組
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