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日本のジャーナリスト ウィキペディアから
石川 真澄(石川 眞澄、いしかわ ますみ、1933年(昭和8年)3月26日 - 2004年(平成16年)7月16日)[1]は、日本のジャーナリスト。朝日新聞社編集委員を経て、新潟国際情報大学情報文化学部教授、桜美林大学大学院国際学研究科教授などを務めた。東京出身。
1957年(昭和32年)、九州工業大学工学部機械工学科卒業後、工学系の大学出身者が分野の違うマスコミに入社するのは当時としては珍しかった中で、朝日新聞社に入社する。政治部に所属し、池田勇人首相番から政界の取材を開始する。その後、『朝日ジャーナル』編集部副編集長、調査研究室主任研究員などを経て、1978年(昭和53年)に政治担当編集委員に就任し、1991年から役員待遇。
1983年(昭和58年)から法政大学法学部でマスコミュニケーション論の講座を持ち、1985年からは早稲田大学政治経済学部で政治学の非常勤講師を務めた。朝日を退職後は、新潟国際情報大学情報文化学部教授、桜美林大学大学院国際学研究科教授を歴任した。
2004年7月16日、悪性胸腺腫のため自宅で死去[2]。71歳没。『戦後政治史』の加筆を行った山口二郎によれば、その序文を書きあげた2日後の死であったという。
ジャーナリストでありながらも上述のように複数の大学で教壇に立ち、また政治学者との共著も多い。イエロー・ジャーナリズムとは距離を置き、学者に近いスタンスを取り、中道左派、革新の立場から日本社会党や護憲派の研究、自民党一党優位体制の分析を行い、政治報道に数量的分析を導入した[3]。
編集委員時代には、当時闇将軍と呼ばれていた田中角栄に対する峻烈な批判特集を度々紙面で繰り広げ、立花隆らとともにアンチ角栄として知られた。角栄や金丸信等に講演や会見で時折揶揄されるほどであった。
1993年(平成5年)に発足した細川護熙連立政権が小選挙区制の導入に踏み切った時は、「死票を大量に生む小選挙区制では民意を国会に反映できない」と[3]、朝日でただひとりになるくらいまで、断固として反対し続け[4]、亥年現象と寅年現象を提唱したことでも有名ある。
亡くなったあと、朝日の2年後輩である筑紫哲也が私家本として追悼文集『石川真澄という人がいた』を編んだ[5]。この文集の執筆陣には、箱島信一や広瀬道貞などの朝日関係者のほか[6]、そうそうたる人物が名を連ねた[4]。
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