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日本の俳優 ウィキペディアから
横山 運平(よこやま うんぺい、1881年1月1日 - 1967年4月3日)は、日本の俳優。滋賀県犬上郡彦根町(現在の同県彦根市)出身。日本初の劇映画に出演したことで、日本の映画俳優第一号となった。本名は横山 弥太郎(よこやま やたろう)。
1881年(明治14年)1月1日、滋賀県犬上郡彦根町(現在の同県彦根市)に生れる。
1893年(明治26年)、新派劇の草分けである、角藤定憲の一座に入り、子役として舞台に立つ。1899年(明治32年)、上京して、「赤坂演技座」で書生芝居に出演。同年、駒田好洋の「日本率先活動写真会」が日本での活動写真制作を開始。三越写真部の柴田恒吉と共同で、同年に実際に起こった脱獄事件を題材に、日本最初の劇映画『ピストル強盗清水定吉』を製作。横山は警官の役で出演し、日本最古の映画俳優になる。
その後、関西に移り、伊井蓉峰など新派劇の一座を転々とした後、高田実の下で舞台に立っていたが、1912年(明治45年)、吉沢商店目黒撮影所に入る。同年、吉沢商店など4社が合併して日本活動写真株式会社が創立されるとこれに参加する。ここで作られた多数の新派劇に題材をとった活動写真に多数出演した。1922年(大正11年)、田中栄三監督の『京屋襟店』に出演、同作の完成試写の夜、藤野秀夫、衣笠貞之助、東猛夫ら12名の幹部俳優らと共に日活を退社。同年、国際活映巣鴨撮影所に入った。1923年(大正12年)の国活崩壊でマキノ映画製作所等持院撮影所に移り、『超現代人』などに主演した。マキノ映画製作所は1924年(大正13年)に東亜キネマに吸収合併された。同年、帝国キネマ芦屋撮影所に移り『嘆きの村』『薫る水仙』などに主演。1925年(大正14年)の帝キネ分裂後は東邦映画製作所に所属した。しかし、東邦映画はわずか2ヶ月で解散し、東亜キネマ甲陽撮影所に移った。
1929年(昭和4年)、日活に戻り、名脇役として活躍した。1937年(昭和12年)、東宝映画に転じた。戦後は新東宝、日活と移り、貴重な老け役として数多くの作品に出演、活躍を続けた。1962年(昭和37年)、東宝の大作『忠臣蔵 花の巻・雪の巻』への出演を最後に引退するまで63年間、映画俳優を続けた。出演作品数は320本以上。1966年(昭和41年)、勲五等。
愛称は「オヤジ」。昭和37年、東宝一千本記念映画『忠臣蔵 花の巻・雪の巻』を製作する際、監督の稲垣浩は映画界最古参俳優の横山の起用を決めた。横山は「もう僕らの出る幕じゃない」と言ったが、稲垣は「これは東宝の一千本記念映画だから、オヤジは出る権利も義務もある」と出演を勧めた。横山の出演場面にはフランキー堺も出ていて、フランキーは横山を見るとその前に両手をつき、「わたくしフランキー堺と申します。どうぞよろしくお願いします」と丁寧に挨拶した。横山はそのあと稲垣に、「若いけど珍しく感心な男だネ」と言った。稲垣は「あれが当たり前なんだよ、近頃は当たり前のことをみんながしなくなったから感心に見えるのさ」と返した[1]。
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