金色夜叉

尾崎紅葉の小説 ウィキペディアから

金色夜叉』(こんじきやしゃ)は、尾崎紅葉が書いた明治時代の小説読売新聞1897年明治30年)1月1日から連載が始まり、紅葉の病気のため断続的に掲載され、1902年(明治35年)5月11日までで中断[1]。翌年、紅葉が病没したため未完成で終わる。その後、熱烈な読者の求めに小栗風葉が完結編を書いた(後述)。

概要 金色夜叉, 作者 ...
金色夜叉
作者 尾崎紅葉
日本
言語 日本語
ジャンル 長編小説
発表形態 新聞掲載
初出情報
初出読売新聞1897年1月1日号-1902年5月11日号(未完)
刊本情報
刊行 前編・中編・後編・続編・続々
春陽堂 1898年-1903年
ウィキポータル 文学 ポータル 書物
テンプレートを表示
閉じる

明治31年には川上一座が舞台化しており、新派劇の代表的な演目の一つとなった。昭和に入って映画化、ドラマ化されるようになった。

本作は、バーサ・M・クレーの小説を種本にしているという指摘がある(後述)。

あらすじ

高等中学校の学生の間貫一(はざま かんいち)と寄寓先の娘お宮(鴫沢宮、しぎさわ みや)は許婚どうし。皆からその未来を羨望されている。宮は、かるた会で銀行頭取の息子・富山唯継に見染められ、美貌におごり、金に憧れ、求婚に応じて許婚をすてる。

貫一は悲憤して、熱海の海岸で「一生を通して、一月十七日は僕の涙で必ず月を曇らして見せる。月が曇ったらば、貫一は何処かでお前を恨んで今夜のように泣いていると思ってくれ」と言葉を投げて宮と別れ、学業を廃して、行方をくらます。貫一は復讐を思い、死を思う。強欲非道な高利貸・鰐淵の手代となり、残酷な商売にしたがい、かろうじてその苦しさを忘れ、自ら金を積み、恨みを晴らそうとする。宮は、富山と結婚し、金に目がくらむ一方で、胸の飢えは満たされない。

4年後、2人は相見て、宮は、貫一の恨みをとくためにこの境遇を捨てようと思う。貫一は、鰐淵が火事で死んだので仕事を受け継ぎ、宮の悔悟の手紙を手に取ろうともしない。しかし、親友荒尾譲介から、宮の心情を伝えられて貫一も心がかすかに動揺する。暁の悪夢のなかで、悔悟の自殺をした宮に、赦すという言葉を与え、その唇を吸う。

心はますます苦しくなるが、用事で塩原へ出向き、温泉宿の隣室で男女が心中しようとするのを救う。その女は富山唯継のえじきになろうとしたものであり、貫一は宮の周辺の不幸な状況を知る。宮は前にも増して思いの丈を訴えた手紙を貫一のもとに寄こす。

熱海のシーン

お宮を貫一が蹴り飛ばす、熱海での場面(前編 第8章)[注釈 1]は有名である。貫一のセリフとして「来年の今月今夜のこの月を僕の涙で曇らせてみせる」が広く知られているが、これは舞台・映画でのもっとも簡略化したセリフに基づいたものであり、原著では次のように記述されている。
「吁(ああ)、宮(みい)さんかうして二人が一処に居るのも今夜ぎりだ。お前が僕の介抱をしてくれるのも今夜ぎり、僕がお前に物を言ふのも今夜ぎりだよ。一月の十七日、宮さん、善く覚えてお置き。来年の今月今夜は、貫一は何処(どこ)でこの月を見るのだか! 再来年(さらいねん)の今月今夜……十年後(のち)の今月今夜……一生を通して僕は今月今夜を忘れん、忘れるものか、死んでも僕は忘れんよ! 可いか、宮さん、一月の十七日だ。来年の今月今夜になつたならば、僕の涙で必ず月は曇らして見せるから、月が……月が……月が……曇つたらば、宮さん、貫一は何処かでお前を恨んで、今夜のやうに泣いてゐると思つてくれ」[2]

モデルと種本

主人公・間貫一のモデルは児童文学者の巖谷小波とされる[3]。彼には芝の高級料亭で働いていた須磨という恋人がいた。が、小波が京都の新聞社に2年間赴任している間に、博文館大橋新太郎(富山唯継のモデル)に横取りされてしまった。小波は別に結婚する気もなかったのでたいして気にも留めていなかったというが、友人の紅葉が怒って料亭に乗り込み須磨を足蹴にした。熱海の海岸のシーンはそれがヒントになったという。須磨(須磨子)は、ある旅館の若主人が東京放浪中に生ませた娘であったが、舞踊にも秀でた美人で、大橋と結婚後は8人の子を生み、五女の豊子は金子堅太郎の息子・武麿に嫁いだ[4][5]

古くからアメリカの小説にヒントを得て構想されたものであると言われていた[6]。研究者の木村毅は『国民之友』の古い号に、金色夜叉は「『谷間の姫百合』の作者の作を翻がえしたるもの」という記事があるのを見て、バーサ・クレーの作が種本であろうと考えた(『谷間の姫百合』には邦訳がある)。バーサ・クレーは当時の流行作家で、著作目録によれば500冊ほどの作品を残しているが、日本国内の図書館に所蔵されているものは一部のみであり、確定するには至らなかった[7]

2000年7月、堀啓子北里大学講師)が、ミネソタ大学の図書館に所蔵されているバーサ・M・クレー の 『女より弱きもの』が種本であると指摘した[8][9]。堀は英米の図書館を博捜し、およそ1,000冊のバーサ・クレー作品を見たという。

バーサ・M・クレー (Bertha M.Clay) ことシャーロット・メアリー・ブレイム (Charlotte Mary Brame) [10][11]の『Weaker than a Woman(女より弱きもの)』の初出は、イギリスのen:Family Herald紙に、1878年8月17日から同年11月23日まで連載されたものである[12]。(下記外部リンク参照)

もっとも、堀も「(紅葉は)あくまで「材料」を拾ったのであり、「金色夜叉」の大半は紅葉のオリジナル」だとしている[13]

作品評価・解説

Thumb
尾崎紅葉

未完のまま作者が亡くなったため、作品の全体像が掴めないという難点はあるが、雅俗折衷文体は当時から華麗なものとして賞賛された。だが、自然主義文学の口語文小説が一般化すると、その美文がかえって古めかしいものと思われ、ストーリーの展開の通俗性が強調され、真剣に検討されることは少なくなった。

三島由紀夫は、金色夜叉の名文として知られる「車は馳せ、景は移り、境は転じ、客は改まれど、貫一は易らざる其の悒鬱を抱きて、遣る方無き五時間の独に倦み憊れつゝ、始て西那須野の駅に下車せり」を挙げ、この名文が浄瑠璃の道行の部分であり、道行という伝統的技法に寄せた日本文学の心象表現の微妙さ・時間性・流動性が活きている部分だと解説し、「『金色夜叉』は、当時としては大胆な実験小説であつたが、その実験の部分よりも伝統的な部分で今日なほ新鮮なのである」[14]と述べている。また小説の主題である金権主義と恋愛の関係については、「金権主義が社会主義的税制のおかげで一応穏便にカバーされてゐる現代は、その実、『金色夜叉』の時代よりもさらに奥深い金権主義の時代なのであるが、これに対する抗議が今ほど聞かれない時代もめづらしい。といふのは、現代では、金権主義に対抗する恋愛の原理が涸渇してゐるからであり、『金色夜叉』において、金に明瞭に対比させられてゐる恋愛の主題には、実はそれ以上のものが秘められてゐたのである」[14]と述べている。

1980年代以降の硯友社文学全体の再評価の中で、典拠や構想についての研究が進み再評価が行われている。岩波書店版『紅葉全集』(1993年10月-1995年9月)が刊行されており、本作は第7巻に所収。

紅葉の構想

1940年頃に企画された中央公論社版の『尾崎紅葉全集』の編集過程で、創作メモが発見され、紅葉の構想の一端が明らかにされた。それによれば、貫一は高利貸しによって貯めた金を人助けのために使い、正気を失った宮を引取り、高利貸しをやめる。しかし、戦渦の中でこの全集が未完に終わったこともあって、再評価というほどにはならなかった(この件に関しては勝本清一郎『近代文学ノート』[15](みすず書房)に詳しい)。創作メモ(金色夜叉腹案覚書)は、岩波版全集第12巻に所収。

完結編

文学碑

映画版

Thumb
1924年日活版スチール
左:鈴木伝明(貫一)、右:浦辺粂子(お宮)
Thumb
1932年松竹版スチール
上:田中絹代(お宮)、下:林長二郎(貫一)

テレビドラマ版

舞台版

歌曲

  • 「金色夜叉」1918年(大正7年)、後藤紫雲・宮島郁芳という2人の演歌師によって作られた。
  • 女流浪曲師・芙蓉軒 麗花が1955年(昭和30年)に出したレコード「ろうきょく炭坑節」(作詞:明石寿恵吉)の歌詞に、「宮さん」の名や貫一の台詞を簡略化させたもの「来年の今月今夜のこの月を僕の涙で曇らせる」が登場する。
  • 「お宮さん」1968年(昭和43年)、大映レコードから発売。作詞:いわせひろし、作曲:森川登、編曲:池田孝、歌:ザ・トーイズ
  • 「暴走金色夜叉」2006年(平成18年)、ミュージックマインから発売。作詞:掟ポルシェ、作曲:掟ポルシェ、ディレイ:ロマン優光、歌:ロマンポルシェ。

脚注

関連項目

外部リンク

Loading related searches...

Wikiwand - on

Seamless Wikipedia browsing. On steroids.