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日本の女優 ウィキペディアから
飯田 蝶子(いいだ ちょうこ、1897年4月15日 - 1972年12月26日)は、日本の女優。本名は茂原 てふ(旧姓は飯田)。
庶民派の老女役や祖母役などの老け役を多く演じて「日本を代表するお婆さん女優」として親しまれた(出演本数は300本を超え、息の長い活躍を見せた)。
水木歌紅(栗島すみ子)の弟子として、水木 歌門の名で水木流日本舞踊の名取も務めた。
夫は撮影技師の茂原英雄。
1897年(明治30年)4月15日、東京府東京市浅草区堀端(現在の東京都台東区浅草)に生まれる。父の操は一人娘だった母・せいの婿養子で、逓信省の下級役人だったが、家が貧しかったため、飯田が2歳の頃に本所区緑町に住む母方の祖母の近所へ転居する[1]。飯田は長女だが、後に4人の姉弟が生まれていくと更に家計は苦しくなり、育ちざかりの姉弟は栄養失調で鳥目になった[1]。そのため飯田は、若干の家作を持っていた祖母に引き取られる[注釈 1]。子供の頃は、近所の寿座という歌舞伎小屋に芝居を見に行っては芝居ごっこをして遊んでいた[1]。
私立の幸田小学校などで学んだあと、祖母の援助で上野高等女学校へ進むが、両親の家計のやりくりから生じる夫婦喧嘩を見るに忍びず、少しでも母を楽にしようと、夜に上野公園の納涼博覧会で女監視人として働く[1]。日給13銭のアルバイトだったが、働いてお金を貰うことに面白さを感じ、自然に学校への足が遠のいて、2ヶ月ほどで中退する[1]。博覧会も夏だけの開催のため、秋には失業する。
1913年(大正2年)、上野の松坂屋で女店員として働く[2][注釈 2]。初めは休憩室係だったが、器用さを買われて裁縫部、広告部を経て食堂の会計を任されるようになる[1]。この時、呉服売り場の人気女優のマネキンの新作披露で、モデルの女優が松坂屋に招待された時、女優の後ろに店員がぞろぞろとついて歩くのを見て、女優というものに憧れを持つ[1]。そのうち周囲に説得されて結婚するが、すぐに離婚して実家へ戻る。その後再び自立を考えて、松坂屋の広告部にいた時に習った絵で身を立てようと志したり、武者小路実篤の新しき村に入ろうと考えたり、松井須磨子を代表とする新劇女優に憧れたりするうち、雑誌に投書するようになる[1]。
1919年(大正8年)、日本橋区浜町にあった芸能新聞社に婦人記者として入る。広告取りの仕事を行い、赤坂の待合へ広告取りに行ったのが縁で帳場に雇われ、ルポルタージュを書いて、東京毎夕新聞社の社会部長である田口桜村に売り込んだりする[1]。その秋、浅草・公園劇場で常打ちしていた初代中村又五郎一座の女優募集を『都新聞』の広告で知り、すぐに応募して採用される。役は腰元ばかりだったが、翌1920年(大正9年)に座長が亡くなると一座は解散[1]。菊人形の監視人や香水のマネキンガールなどをしながら、活動写真の女優になろうと映画会社の女優募集に応募するが、どれも不採用に終わる[1]。
1922年(大正11年)、婦人記者時代の友人と松竹蒲田撮影所の女優募集に応募。記者時代に面倒を見てくれた田口桜村が蒲田の撮影所長になっていることが分かり、田口に頼めば何とかなると思っていたが、田口は社の貿易部へ転出し、所長は監督の野村芳亭に替っていた[3]。面接を受けると、美人な友人は採用され、飯田は不美人という理由で採用されなかった。そこで飯田は「女中などの脇役は美人がやると不自然で、自分のような不美人が脇役に合っている」という自説をまくしたてると、野村は共感し、これをきっかけに撮影所に日参。無給の見習女優として栗島すみ子の草履揃えから仕出しまで何でもこなす[3]。仕事のない時は、セットに張り付いて見学した。
1923年(大正12年)1月、その熱心さを認められて月給10円で正式に入社する[3][4]。飯田長子の芸名で大部屋の一員となり、野村監督の『死に行く妻』の端役でデビューする。最初は仕出しばかりだったが、池田義信監督の『闇を行く』で色気のない女土方を演じると池田に褒められ、これが出世作となった。次いで牛原虚彦監督の『人性の愛』で老け役を演じると好評を博し、ボーナスを貰った上に月給は50円になった[3]。同年9月1日の関東大震災で撮影所が罹災すると、松竹下加茂撮影所に移るが、翌1924年(大正13年)1月になると蒲田に戻る。
同年、池田監督の『スヰートホーム』で意地悪な女工の監督を演じるが、主演の職工役の諸口十九に突き飛ばされるシーンを、諸口の申し入れで数十回もやり直しさせられ、最後に力いっぱい突き飛ばされ、リンゴ箱で唇を切り、2針縫う傷を負った。これが口惜しくてたまらず、芸を磨こうと決心する[3]。この頃、飯田蝶子と改名する[3]。同年7月、城戸四郎が撮影所長に就任し、野村前所長の新派悲劇路線から、明るく健康的なホーム・コメディ路線に製作方針を転換すると、飯田の江戸っ子気質の開放的なキャラクターが買われ、城戸が原案を描いた『坊やの復讐』、池田監督の『小唄集 ストトン』、吉野二郎監督の『がまぐち』などに出演して、三枚目の喜劇女優として活躍し、1925年(大正14年)に小林十九二、二葉かほるらとともに準幹部に昇進する[3][5]。やがて喜劇・シリアスを問わず脇役として重要な役どころを演じるようになり、栗島主演の『或る女の話』、井上正夫主演の『祖国』などに助演する一方、島津保次郎監督の『文化病』で新井淳とコンビで主演する。
1926年(大正15年)1月8日、森野五郎とともに幹部に昇進する[6]。島津監督の『女房礼讃』、大久保忠素監督の『親孝行』などで新井淳とコンビを組み人気を得、池田監督・栗島主演の『毀れた人形』、鈴木傳明主演の『運動家』、野村監督の『カラボタン』などには脇役で達者な演技を見せた[3]。1927年(昭和2年)、撮影技師の茂原英雄と結婚[3]。茂原が小津安二郎監督とコンビを組んでいたことから、小津作品に常連出演するようになり、『肉体美』『学生ロマンス 若き日』『東京の合唱』など、戦後の作品も含め計18本に出演した。芸者屋を舞台にした『宝の山』では芸者屋の女将役で助演したが、その頃に飯田は蒲田の二業地に待合を経営しており、小津はそこへ遊びに行っては芸者の取材をしていた[3][7]。また、坂本武が主演する喜八ものでも立て続けに起用され、『出来ごころ』『浮草物語』『箱入娘』『東京の宿』に助演する。小津作品以外では、島津監督の『上陸第一歩』『隣の八重ちゃん』、五所平之助監督の『女と生まれたからにゃ』などに出演し、池田監督・栗島コンビの作品にも大役で出演した。副業で芸者屋を営んでいたことから、芸者や芸者置屋の女将を演じることも多かった。映画がトーキーの時代に入ると、トーキーにふさわしい演技が必要と寄席へ通って落語を研究、トーキー第1作となった『忠臣蔵』では不破数右衛門の妻を軽妙に演じた[8]。
1934年(昭和9年)麻雀賭博容疑により多くの文士などとともに検挙される[9]。
1935年(昭和10年)、大幹部待遇に昇格し、蒲田では栗島・田中絹代に次ぐ序列を与えられる[8][10]。演技も充実していき、五所監督の『人生のお荷物』では新井と夫婦コンビで仲人を演じ、小津監督の『一人息子』でも母親役を好演。そのほか、島津監督の『婚約三羽烏』、清水宏監督の『信子』などの大作・話題作に助演する一方、主演級の役も多く演じ、『三人寄れば』では飯田と並ぶ松竹のベテラン脇役女優の吉川満子、岡村文子と顔合わせしている。
1945年(昭和20年)、五所監督の『伊豆の娘たち』が戦後第1作となるが、これを最後に松竹を退社してフリーとなる[8]。小津監督の戦後第1作『長屋紳士録』では意に反して孤児を引き取っていく長屋のおばちゃんを演じ、自身の代表作とした。ほか、黒澤明監督の『醉いどれ天使』『野良犬』、稲垣浩監督の『無法松の一生』、堀川弘通監督の『裸の大将』などに出演、今井正監督の『どっこい生きてる』にニコヨンのお婆さんを演じたのを機に、独立プロ作品にも多く出演している。東宝の『若大将シリーズ』では、加山雄三演じる主人公の祖母を演じ、シリーズ第16作まで出演する。『時間ですよ』などテレビドラマにも出演した。1963年(昭和38年)に紫綬褒章、1967年(昭和42年)に勲四等瑞宝章をそれぞれ受章する。1967年(昭和42年)、夫の茂原と死別。
1972年(昭和47年)7月26日、ドラマ『おはよう』の収録中に体調が悪化し、その翌日に肋膜炎の疑いで東京都豊島区の敬愛病院に入院する[11]。「私は死なないよ。80歳まで仕事は続けるんだから」と病床で語っていたが、同年12月26日午後3時24分、肺癌のため死去[11]。75歳没。
◎印は小津安二郎監督作品
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