Loading AI tools
日本の映画プロデューサー ウィキペディアから
登石 雋一(といし しゅんいち、1932年3月7日[1] - 2012年9月11日)は、日本の映画プロデューサー、映画会社経営者である[2][3][4][5][6][7][8][9][10]。東映東京撮影所で進行主任、企画者を務めた後、東映人事部長、次いで取締役企画製作部長・経営企画室長、東映動画(現在の東映アニメーション)代表取締役社長、東映化学工業(現在の東映ラボ・テック)代表取締役社長を歴任した[2][3][11]。本業の傍ら、劇映画や演劇への俳優としての出演作もあり[8][12][13][14][15][16][17][18][19][20][21][22][23][24]、十石 峻(といし しゅん)の別名ももつ[16][17][18][19][20]。
1932年(昭和7年)、東京府(現在の東京都)に生まれる[2][3]。
第二次世界大戦後、1951年(昭和26年)4月、東京大学法学部に進学[2]、在学中は「東大演劇研究会」に参加して演劇活動に取り組み、同期には梶谷典子、成島庸夫、田村孟、三善晃、渡辺守章らがいた[12][25]。1955年(昭和30年)3月、同大を卒業、同年4月、定期採用第4期生として東映に入社した[2]。本社文書課を経て撮影所製作課に異動、進行を務め、進行主任となってからの作品として、1960年(昭和35年)11月8日公開の『大いなる驀進』(監督関川秀雄)、1962年(昭和37年)3月21日公開の『恋と太陽とギャング』(監督石井輝男)が記録に残る[6]。同年には企画部に異動になり、同年8月29日に公開された『東京丸の内』(監督小西通雄)では、上司の渡辺洋一に次いで企画者としてクレジットされた[7][8][9][10]。1963年(昭和38年)6月14日に公開された『警視庁物語 全国縦断捜査』(監督飯塚増一)以降、同シリーズの最終作『警視庁物語 行方不明』(監督小西通雄、1964年12月5日公開)までの3作を、同作を立ち上げた上司の斉藤安代(1927年 - 2005年)とともに企画した[7][8][9][10]。1964年(昭和39年)いっぱいで企画・製作の現場を離れた[5][6][7][8][9][10]。
累積赤字を3億円を出していた東映動画(現在の東映アニメーション)には、1971年(昭和46年)8月に東映社長に就任した岡田茂も手を焼き[26]、責任者として行くことを皆嫌がったが[26][27]、岡田に言い含められ[26][27]、翌1972年(昭和47年)6月東映動画の代表取締役社長に就任(兼任)、岡田から強硬なリストラを命ぜられる[26][27][28][29]。登石はこのとき岡田に「東映からの出向では心にスキができます。東映を辞めて動画に行かせて下さい」と訴え[26][29]、岡田から評価を上げた[26][29]。岡田と登石は製作数を減らし、さらに従業員320名の半分の希望退職を募集[28]。労組は激しく反発し、両者の間で団交が繰り返されたが、希望退職の募集を何度も延期し、のちロックアウトを敢行し5ヶ月間に約120名が退職、東映動画は存続した[28][30][31][32]。岡田、登石と1974年8月、後任として岡田から東映動画社長に抜擢された今田智憲の尽力により[27][32][33]、1970年代始めに3億円あった東映動画の累積赤字は一掃され、1981年(昭和56年)に東映動画は売上げ70億円、利益2億円を出すまで回復した[27][32][34]。1973年(昭和48年)3月17日公開の『パンダの大冒険』(監督芹川有吾)等を製作[7][8][9][10]。
東映動画を整理した実績から以降岡田に引き立てられ[35]、1974年(昭和49年)に東映動画から東映本社の取締役企画製作部長・経営企画室長に出世[2][29][36][35]、重役になり製作の登石、営業の鈴木常承のコンビで岡田の懐刀の一人になった[26][29][35][37]。しかし動画の整理と合わせ[38]、制作の最前線での心労がたたり肝臓を悪くしダウン[38]。復帰はしたものの激務はもう難しいのではと判断された[38]。1977年(昭和52年)6月9日 - 同11日、三百人劇場で行われた東大演劇同窓会第1回公演『はっぴいえんど』(演出岩淵達治、原作ベルトルト・ブレヒト)に出演、成島庸夫、田村孟、佐藤純彌らとともに「貧民」役を演じたほか[13]、劇映画においても、1979年(昭和54年)7月21日公開の『わが青春のイレブン』(監督降旗康男)を企画[39]、出演し、「サッカー部長」を演じた[8]。同月には、企画製作部長を退任して[40]、当時東京証券取引所第2部上場企業であった東映関係会社・東映化学工業(1961年10月上場、2007年3月27日上場廃止)の専務取締役に転任した[41]。1981年(昭和56年)、東映化学工業の代表取締役社長に就任するとともに、東映本社の取締役を退いた[2]。
1982年(昭和57年)5月15日公開の『ダイアモンドは傷つかない』(監督藤田敏八)でも、「八木」役で出演している[8]。日本映画テレビ技術協会から、1998年(平成10年)度の第20回春木賞を受賞した[42]。2001年(平成13年)6月27日、東映化学工業社長を退任[11]。2007年(平成19年)、日本映画テレビプロデューサー協会を退会した[43]。
晩年は東大演劇同窓会での俳優活動にも取り組み、第4回公演以外は皆勤しており、2012年(平成24年)4月18日 - 同19日に日本橋劇場で行われた第13回公演『夏の夜の夢』にも「蜘蛛の糸」役で出演している[24]。その5か月後の同年9月11日、腎細胞癌のため東京都江東区の病院で死去した[3]。満80歳没。
特筆以外すべてのクレジットは「製作」である[5][6][7][8][9][10]。東京国立近代美術館フィルムセンター(NFC)等の所蔵・現存状況についても記す[6]。
すべて東大演劇同窓会の公演である。
Seamless Wikipedia browsing. On steroids.
Every time you click a link to Wikipedia, Wiktionary or Wikiquote in your browser's search results, it will show the modern Wikiwand interface.
Wikiwand extension is a five stars, simple, with minimum permission required to keep your browsing private, safe and transparent.