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日本の俳優 (1932 - 2021) ウィキペディアから
(たなか くにえ、1932年〈昭和7年〉11月23日 - 2021年〈令和3年〉3月24日)は、日本の俳優。
たなか くにえ 田中 邦衛 | |||||||||||||||
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近代映画社『近代映画』第18巻第9号(1962)より | |||||||||||||||
本名 | 田中 邦衛 | ||||||||||||||
生年月日 | 1932年11月23日 | ||||||||||||||
没年月日 | 2021年3月24日(88歳没) | ||||||||||||||
出生地 | 日本 岐阜県土岐郡土岐津町(現:土岐市) | ||||||||||||||
職業 | 俳優 | ||||||||||||||
ジャンル | 映画・テレビドラマ・演劇 | ||||||||||||||
活動期間 | 1955年 - 2021年 | ||||||||||||||
活動内容 |
1955年 俳優座養成所入所 1957年 映画初出演 1961年『若大将シリーズ』 1965年 - 1972年「網走番外地シリーズ」 1966年『若者たち』 1973年 俳優座退座 1973年 - 1974年「仁義なき戦いシリーズ」 1976年『泣かせるあいつ』 1981年『岡っ引どぶシリーズ』 1985年『迷探偵記者羽鳥雄太郎と駆け出し女刑事シリーズ』 1990年『タスマニア物語』 1991年『松本清張作家活動40年記念・砂の器』 1992年『運命の銃口』 2008年『鯨とメダカ』 | ||||||||||||||
配偶者 | 既婚 | ||||||||||||||
著名な家族 | 田中淳子(長女) | ||||||||||||||
主な作品 | |||||||||||||||
映画 『タスマニア物語』(1990年) テレビドラマ 『若者たち』 『泣かせるあいつ』 『岡っ引どぶシリーズ』 『迷探偵記者羽鳥雄太郎と駆け出し女刑事シリーズ』 『砂の上のロビンソン』 『松本清張作家活動40年記念・砂の器』 『運命の銃口』 『鯨とメダカ』 | |||||||||||||||
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映画・「若大将シリーズ」で青大将、テレビドラマ『北の国から』で黒板五郎を演じ、国民的俳優となった[2]。他にも「網走番外地シリーズ」「仁義なき戦いシリーズ」『現代任侠史』『タスマニア物語』など多数の映画やドラマに出演[2][3]。『学校』の演技で日本アカデミー賞最優秀助演男優賞、『子連れ狼 その小さき手に』の演技でブルーリボン賞の助演男優賞受賞。旭日小綬章受章[1]。
岐阜県土岐郡土岐津町(現:土岐市)出身[2]。 岐阜県土岐市で100年以上続く美濃焼の窯元の家に生まれた[4]。麗澤短期大学英語科卒[5][6]。短大卒業後、故郷の岐阜で中学の代用教員(助教諭)を10か月間務め、国語、英語、体育を教えていた[7]。しかし教育者としての自信が無く、子供を叱れず、教師を辞めようと思った時に、一旦諦めかけていた役者の道を進もうと決意する[7]。
俳優座養成所の受験には、試験官だった女優の東山千栄子から「あなた、またいらしたの」と、言われながらも、3度目で合格[8]。3年間の養成所生活を経て俳優座座員に昇格したが、47人中3人という狭き門の突破だった。第7期生の同期には井川比佐志・露口茂・山本學・藤岡重慶・中町由子・水野久美らがいる[2]。
1957年、今井正が監督した映画『純愛物語』に初出演した[3]。そのアクの強い風貌から、アクション映画でチンピラや殺し屋役を演じるが[9]、1961年の東宝映画『大学の若大将』では、加山雄三演じる若大将のライバル・青大将役で出演した。若大将への敵愾心を燃やすが毎回軽くいなされるコミカルで憎めないキャラクターを好演し、「若大将シリーズ」不動のレギュラーとなる[2]。岡本喜八にも気に入られ、監督別では最多の11本に出演している。助演が多いが、最後の『近頃なぜかチャールストン』は数少ない主演作であり、ヒロイックな役柄でもある。
1965年に出演したフジテレビのドラマ『若者たち』は映画化され、第22回毎日映画コンクール男優主演賞を受賞し、お茶の間にも知られるようになる[3]。
同年からスタートした「網走番外地シリーズ」で高倉健演じる主人公を慕う舎弟をコミカルに演じ[3]、1973年から始まった「仁義なき戦いシリーズ」では、それまでのイメージを一新するずる賢いヤクザ・槙原政吉を演じ[2][3][10][11][12]、脇役の地位を確固たるものにした[4]。1970年代は、東映の実録映画を中心に強い印象を残した[3][10][13]。
1973年、井川らと俳優座を退座する。安部公房と行動を共にした後フリーとなる。
1980年代以降は映画への出演は減るが、1981年からの『北の国から』シリーズでの葛藤を持ちつつも2人の子を温かく見守る父親・黒板五郎役が全国的に知られることになる[2]。
1993年、『学校』にて苦労しながら夜間中学に通う労働者役を演じ、第17回日本アカデミー賞最優秀助演男優賞を受賞。
1988年から1995年まで出演した大正製薬「大正漢方胃腸薬」の年末のテレビCMでは歌って踊るエンターテイナーぶりを披露。コラムニストのナンシー関から絶賛を受け[14][15]、作家の小林信彦からも高く評価された[16]。
2010年公開の映画『最後の忠臣蔵』へ出演、以降俳優としては表舞台から遠ざかる[17]。
2012年6月29日(金曜日)午前7時5分、『北の国から』『岡っ引どぶ』など多くの作品で共演した地井武男が死去。8月6日に青山葬儀所で営まれた「お別れの会」では発起人の一人として名を連ねた。参列者代表7人による「お礼の言葉」では、吉岡秀隆の介添えで最後に祭壇の前に立ち「おいらまだ信じられない」「会いたいよ!地井にい(兄)、会いたいよ!」と悲痛な思いを地井の遺影に語りかけた。この時の姿が公の前に立った最後の姿となった[18]。
2013年11月19日発売の『週刊女性』(2013年12月3日号)に「田中邦衛(80)ほうき片手の隠居生活『俳優引退』を直撃撮!」との記事が掲載され[19]、「長ゼリフが入らない」ことを理由に仕事の依頼を断っていることが伝えられた。同日放送されたフジテレビの情報番組『ノンストップ!』では妻が電話取材に応え「体力的に厳しいと思います」と述べ、田中が休業状態であることを明かす一方で「演技をする夢は夫婦2人でずっと持って生活しています。引退も何も、田中邦衛の人生そのものが役者ですから」と、田中の心情を思い「引退」との明言は避けている[20][21][22]。2015年、『週刊ポスト』(2015年10月30日号)にて施設に入居しリハビリ生活を送っていることが報じられた。
2017年10月時点では、施設から自宅に戻り、元気にはなってきているが、車椅子生活が続き俳優としての復帰に関しては解らないと、妻が取材に対して答えた[17]。2019年9月にはまた施設に入居したのではないかと近隣住民から推測されているが、妻は『週刊現代』からの取材に断りを入れていた[23]。倉本聰は「(田中は介護)施設に入っていた」と語った[24]。
2021年3月24日午前11時24分、老衰のため死去[25]。88歳没。
2021年4月3日、フジテレビでは当初の番組予定(映画『ジオストーム』)を変更し、田中の代表作として知られる『北の国から'87初恋』を『土曜プレミアム』の枠で特別追悼番組として放送、番組冒頭で追悼テロップを表示した[26]。
共演者がトーク番組やバラエティ番組に出演すると、その生真面目でシャイな性格からくる言動や行動についての数々のエピソードが「田中邦衛ばなし」として取り上げられることが多い。独特の語り口調や表情は、ものまねネタの定番となっており、小堺一機が『北の国から』の黒板五郎や楽屋裏での田中をネタとして取り上げたことで、さらに広く知られるようになった。
トークショーや講演の依頼があっても基本的に断り、『徹子の部屋』[注釈 1]『スタジオパークからこんにちは』などのトーク番組にも極力出演することを拒んできたが、1998年11月、山形在住のシネマパーソナリティ・荒井幸博からの強い要請を受け、夫婦で山形県を訪れ、天童市成生で初めてのトークショーを開催する。このトークショーでは荒井が聞き手となり、田中は観客が歓喜する光景に感動。以来、夫婦ともに山形の人情・食べ物・温泉・風景を気に入ったこともあり、毎年2 - 3回は私的旅行を含めて山形まで足を運び、トークショーに出演して県内各地の人々と親交をもつ一方で[27]、荒井がパーソナリティを務める山形放送・FM山形のラジオ番組にもたびたび出演、友人の一人となっている。2007年、荒井をはじめ、県内の「仲間」7人が企画した『田中邦衛映画祭』が米沢市の「伝国の杜・置賜文化ホール」で開催され、代表作品3本(『若者たち』『ウホッホ探険隊』『学校』)の上映とトークショーが行われた[28][29]。30代から40代にかけて多数の映画に出演していたため、自分が出演した出演作を映画館のスクリーンで観たことがなく、この時に初めて観客の一人として作品を鑑賞している。
1988年には麗澤瑞浪高校で、2009年には故郷・岐阜県土岐市の隣にある瑞浪市と千葉県柏市の麗澤学園で、荒井を伴ってトークショーを開催した。2010年6月には、荒井と共に『いい旅夢気分』に出演。田中にとってこれが自身初の旅番組出演となった。
1960年代半ばから1980年代初頭まで共演を重ねた高倉健を尊敬している。1985年に共演した映画『夜叉』では、漫才師だったビートたけしが出演していたことから、高倉から漫才の稽古をしようと誘われた[30]。
短大卒業後に家業を手伝っていたが、中学時代の恩師に誘われ、代用教員となった。幼い頃から映画好きで、代用教員となった前後に公民館などで仲間と趣味で芝居をやっていた[4]。また同時期に評判だった舞台「セールスマンの死」を観劇し、主演の滝沢修の演技に魅了されて俳優になることを決意[4]。上京後、わずか2畳の部屋を借りて貧しい暮らしをしながら、俳優座養成所に通った。養成所の同期である山本學によると「僕と同じく不器用だったが、俳優になるために人一倍努力をする人で、当時からしっかりと将来を見据えていました」とのこと[4]。
1961年からの「若大将シリーズ」に全18作に出演し、一部媒体では「田中演じる青大将がいたからこそ、『若大将シリーズ』が成立した」とも評された[4]。しかしその一方で「青大将が出ると若大将役を食ってしまう」と言われることもあったが、田中はこの発言に落ち込んだ。その理由について本人は生前、「脇役は主役の引き立て役だから主役を食ってはいけない。『主役を食っている』ということは、俺の演技が未熟ということ」と語っていたという[4]。
「北の国から」の演出家・杉田成道は、「田中さんは自分の経験や内面そのものから役を作っていく人でした。また、理屈よりも感覚で演じるタイプの役者さんでした」と評している[4]。映画プロデューサーの岡田裕によると「田中さんが他のスター俳優と違うのは、ごく普通の日常性を持っていたこと。街の人々をよく観察し、その日常を芝居に生かしていた。田中さんの演技の根っこにあるのは、庶民の生活感覚でした」と評している[4]。
「北の国から」シリーズでは主役を務めたが、その後も驕ることなく一般人とも気さくに接した[4]。趣味である温泉浴場でたまたま一緒に浸かった客から話しかけられた時も、本人は嫌な顔をせず楽しそうに会話したという[4]。一部では、このような「普段の人々との気取らない交流が、田中の人情味溢れる演技に繋がった」とも言われている[4]。
「俳優は肉体労働者」と認識しており、「過酷な撮影にも耐えられるように」との思いから、普段から筋トレをして体を鍛えていた[4]。仕事終わりによく銭湯に訪れ、休日は地方の温泉に行くのを楽しみにしていた[4]。ちなみに酒は一滴も飲まずギャンブルもやらなかった[4]。
その個性的な風貌から、いくつかの漫画のキャラクターのモデルになっている。
※「 - 」は役名
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