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日本の女性版画家、コラムニスト (1962-2002) ウィキペディアから
ナンシー関(ナンシーせき、本名:関 直美(せき なおみ)、女性、1962年7月7日 - 2002年6月12日)は、日本の版画家、コラムニストである。青森県青森市生まれ。法政大学文学部第二部(夜間部)中退。
独特の観察眼による「テレビ批評」とその挿絵に入れた著名人の似顔絵「消しゴム版画」で社会そのものを批評していた[1]。世界初の消しゴム版画家である[2]。
1962年、青森県青森市に三人きょうだいの長女として生まれた。2歳下の妹と7歳下の弟がおり、父親は同郷のプロボクサーのレパード玉熊の後援会会長を務めていた。言葉は早く、2-3歳のころには一人で絵本を読んでいた[3]。1969年、青森市立堤小学校に入学。同級生によれば性格は他の生徒より大人びて冷静だったという。手先は器用で、パラパラマンガを描いたり、いたずらとしてクラスメイトの消しゴムに文字を彫るなどしていた。小学校入学後から急に太り始めたため、心配した両親は病院を受診させたが、結果は「異常なし」だった[4]。当時の青森には民放が2局しかなく、のちにテレビについては恵まれない幼少期を送ってきたと述懐している[5]。小学生時代は「8時だョ!全員集合」のザ・ドリフターズとアイドルの郷ひろみの熱心なファンであった。
小学校卒業後は、青森市立浦町中学校を経て、カトリック系ミッションスクールの青森明の星高等学校に進学した。この頃、『ビックリハウス』『宝島』『STUDIO VOICE』などサブカルチャー系の雑誌を読み漁り、YMOやムーンライダーズのファンとなった。図工・美術の成績は小学生時代から優秀(ほとんど5)で、クロッキーやデッサンを得意としていた。クラスで1週間ほど消しゴム版画が流行ったことがあったが、ナンシーの彫ったゴダイゴやツイストのバンドロゴは抜群にうまく、クラスメイトたちから注文が殺到した[6]。また、クラスメイトと芸能新聞のようなものを発行したこともある。『所ジョージのオールナイトニッポン』や『ビックリハウス』に投稿をはじめ、『オールナイトニッポン』でハガキが読まれた翌日は拍手喝采で教室に迎えられた[7]。無根拠ながらも将来は東京に出ることを確信していたが、それを「憧れ」という言葉で認識すること・されることに抵抗があったという[8]。
高校卒業後、上京すると高田馬場の早稲田予備校に通い浪人生活を始めた。高校3年の正月に始まったラジオ番組『ビートたけしのオールナイトニッポン』に傾倒し、放送がある木曜の夜はなるべく出かけず、放送開始とともにラジカセの録音ボタンを押し、CMをとばしてカセットテープに録音したものを、次週の放送まで7-8回繰り返して聴いていた[9]。この番組にもハガキを投稿、番組コーナーで採用されている。ナンシーの旧友は、彼女にとってたけしのラジオは宗教に近かったと証言している[10]。
1982年、法政大学第二文学部日本文学科に入学。同年11月には広告批評主宰の「広告学校」にも入学したが、大学にはほとんど行かず、広告学校も仕事を紹介してくれるわけでないと知って通わなくなり、親からの仕送りと軽作業のバイト代で毎日漫然とテレビを見てすごした[11]。翌年に妹が進学のため上京、95年まで同居した。この頃、ひまつぶしに編み物や粘土細工を作り、高校時代流行った消しゴム版画を再び彫り始めた。モチーフはカネテツのテッちゃんや花登筺の小説「あかんたれ 土性っ骨」の丁稚の少年であり、丁稚の版画は10種類作りそれぞれ「たたきあげ」「おでかけ」などの文字を入れた。消しゴム版画の人物にキャプションを添える特徴的なスタイルはこの頃既にあった[12]。広告学校で知り合った友人(後のえのきどいちろうの妻)の手帳に押したところ、えのきどの目に留まり、ライター事務所「シュワッチ」に籍を置くこととなった。えのきどは、ナンシーを『ホットドッグ・プレス』の新人編集者のいとうせいこうに紹介するとともに、ペンネームの命名を依頼した。いとうは当時イラストレーターに「ペーター佐藤」「スージー甘金」のようなふざけた名前が流行っていたのに倣って本名の関直美にちなみ、その場のノリで「ナンシー関」と命名した[13]。
ナンシー関としてのデビュー作は1985年3月10日号の『ホットドッグ・プレス』の萩原健太のコラムに彫った消しゴム版画であった[14]。その後も同誌のコラムや連載、読者投稿欄のイラストを消しゴム版画で担当した。ナンシーは依頼された仕事を全て編集部の中で行った。当時のライターはみな編集部に通って執筆を行っていたが、イラストレーターとしては異例であった[15]。1年後、1986年6月25日号から芸能人に関するコラム「対岸に火をつけろ」を連載。これがナンシーにとってはじめての文章の仕事だった[16]。ペラ(200字詰め原稿用紙)3枚ほどの分量だったが、書き方がわからず改行なしで書いてしまったという[17]。
1986年1月から『ミュージック・マガジン』のえのきどいちろうのコラムでイラストを担当した[18]。さらに1988年1月号からは3年間表紙イラストを手がけ、ミック・ジャガー、ジェームス・ブラウン、U2などの外国人ミュージシャンを彫った[19]。同年、『月刊カドカワ』6月号から1ページコラム「テレビ目抜き通り」を連載し、テレビに関するコラムと消しゴム版画という組み合わせがここで現れる[20]。1989年に「シュワッチ」から独立、CM関係など一部の業務だけいとうせいこうが作った「エムパイヤ・スネーク・ビルディング」に預けた。
1990年、『噂の眞相』5月号からテレビコラムの連載を開始した。コラムは「ナンシー関のチャンネルオフ」「迷宮の花園」とタイトルを変更、1993年4月から「顔面至上主義」として亡くなるまで連載した[21]。
1991年7月、最初の単行本である『ナンシー関の顔面手帖』を出版した。当初シンコーミュージックの編集者(君塚太)が、川勝正幸、高橋洋二、ナンシー関の共著として企画したが、3人とも遅筆であったため、ナンシーの単著に変更。1年半以上かけて69人の人物評と消しゴム版画の原稿を書き下ろした[22]。ナンシーが青森に帰省した際『顔面手帖』を読んだ彼女の両親は「こんな人さまの悪口を書いて抗議されたり刺されたりしたら大変。やめて欲しい」と本気で心配した。以後、ナンシーは自分の仕事について両親に話すことはなかった[23]。
1991年12月からは『スタジオ・ボイス』で「ナンシー関の信仰の現場」を連載。矢沢永吉のコンサート、キックボクシング会場、公団建売抽選などを取材した初めてのノンフィクション作品だったが、原稿料滞納を理由に13回で打ち切りとなった。1993年、『野性時代』で連載を再開し、翌年7月には『信仰の現場 すっとこどっこいにヨロシク』として刊行された[24]。毎回原稿用紙8ページという分量は彼女にとって厳しく[25]、また視力も悪かったため[注 1]自分は取材下手だと思ったという[27]。
1992年、世界文化社から編集者桒田義秀により、これまでさまざまな雑誌に書いた原稿をまとめた『何様のつもり』が刊行された。その後「何シリーズ」としてナンシーの生前10冊が出版され、合計部数は30万部を超えた[28]。
1993年1月からは週刊朝日で「小耳にはさもう」の連載を始めた。これは副編集長が同誌で連載していた松尾貴史からナンシー関の名前を聞き、『噂の眞相』の連載を見て依頼したものであった。合わせて山藤章二からも「あの絵はよい」と推薦を受けた[注 2]。最初の打ち合わせは荻窪のレストランに自転車で現れた。企画、コンセプトからタイトルまでテキパキ固め実際の作風とは全く異なり、話し方は極めて素朴でほんわかとしていた。同年週刊文春10月21日号から「ナンシー関のテレビ消灯時間」を連載。この2つの連載でナンシー関の名は全国区に知られるようになる[30]。
1994年、『CREA』5月号でダウンタウンの松本人志と対談。この中で松本が「今お笑いの批評ができるのはナンシーさんとみうらじゅんだけ」と発言した[31]。放送作家の高橋洋二によれば、これをきっかけにテレビ出演者の間でもナンシーを支持する声が増えたという[32]。
1995年夏、祐天寺にマンションを購入し、一人暮らしをはじめた。しかし、締切に追われ、1日に20-30本のショートピースを吸い[33]、ストレスを飲み食いで発散する生活は彼女の健康を蝕んだ。90年代半ばごろから少し歩くだけで息切れするようになり、体型も若いころより大きくなっていた[注 3]。いとうせいこうはナンシーが亡くなる数年前から酒やタバコを控えるように忠告していた[34]。大月隆寛も健康診断を勧めたが[35]、生活態度を改めることも、人間ドックに入ることもなかった[36]。
2002年6月11日の夜、友人と中目黒の飲食店で新作の餃子を食べたあと、10時ごろ一人でタクシーに乗り、祐天寺のマンションに帰宅する途中意識を失った。タクシーの運転手が駅前交番に駆け込み通報し、救急車で東京医療センターに搬送されたが、12日午前0時47分死去。行政解剖の結果、死因は虚血性心不全と判明した。搬送された際、救急関係者が彼女の携帯電話の同じ名字の人に家族ではないかと電話をかけたがそれは同じ名字の関智であった。関は彼女の実家を知らなかったため、インターネットができる友人を頼ってやっと彼女の実家のガラス店の電話番号を探し当て連絡をすることができた。[要出典] 16日、ナンシーの実家近くの寺院で行われた葬儀は、黒柳徹子、ビートたけし、坂本龍一、宮部みゆきなどの著名人をはじめ数えきれないほどの弔花が並ぶ、盛大なものだった。遺骨は関家の菩提寺である夢宅寺の墓に納められた[37]。
一人暮らしのマンションには、4・5台のビデオデッキを備え、テレビを観察し続けていた。「朝は8時ごろに起き、夜は午前1時頃に就寝する」というライフスタイルだったという。
大のカラオケ好き。元々カラオケで歌うことには気恥ずかしさを感じていたが、1992年から「堰を切ったように」行き出し、頻繁に仲間との飲み会兼カラオケパーティを開いた[40]。2・3時間歌うのはザラで、夜10時から朝5時まで歌い続けたこともあるという。声量もあった。得意としたのは北原ミレイの『石狩挽歌』[41]、内藤やす子の『想い出ぼろぼろ』、ちあきなおみの『X+Y=LOVE』[42]。歌謡曲から矢沢永吉、ヴィジュアル系やアニソンまで幅広く歌いこなした。
高校時代からムーンライダーズの大ファン。直接サインをもらった有名人で、特に緊張したのは鈴木慶一、チャー、デビュー前の浜崎貴司(FLYING KIDS)[43]。他にジャニス・ジョプリンも好きと周囲に話していた。バンド「小島」もひいきにしていた。また、リリー・フランキーとは松田優作の『ヨコハマ・ホンキー・トンク・ブルース』の話で盛り上がったこともある。
ライター事務所「シュワッチ」在籍時、社長のイタバシマサヒロに誘われ、GSコピーバンド「シュワッチャーズ」を結成、ベースを担当[44]。商店街の夏祭りや知人の結婚式などで4回のライブを行った[45]。
1999年、ヒクソン・グレイシーが高田延彦を2度にわたって破った頃は彼に心酔するあまり、泥酔して「ヒクソンの嫁になりてえ」と叫んだという。しかし高田が参院選に出馬したり、K-1がリングサイドに芸能人を並べたりすることには憤っていた[47]。
お気に入りの店は中目黒の「ビッグママ」[48]、お気に入りの焼酎は「百年の孤独」。いつもカウンターの隅に座り、シャイでかわいらしく、ときおりボソッとつぶやいていた。亡くなる1週間程前に店を訪れた時はママと海外旅行の話になり、冬に近場の韓国に二人で行く約束をしたが実現しなかった[49]。
1993年2月2日付の毎日新聞にナンシーの「母子像の自己陶酔はイヤらしい」と題したコラムが掲載された。これは作家の島田雅彦が担当した「瞠目新聞」という連載の企画で、島田が指名したライターに「お題」に沿って書いてもらうもの。「子育て」のお題に対しナンシーはベビーカーを押す母親を取りあげ「絶対的な正義を確信している」「無防備な自己陶酔」と批判、これに抗議の投書が殺到した。この原稿はナンシーの意向で著作に収録されていないが、連載をまとめた島田雅彦著『瞠目新聞』(毎日新聞社、1994年、ISBN 9784620310084)にはコラム、批判の投書、それに対するナンシーの反論「私の意見は極論か」も収録されている[60]。
週刊朝日1994年3月25日号の連載でナンシーはどうしてデーブ・スペクターが嫌いなのかというコラムを書く。これを受けてデーブは週刊文春3月31日号の連載で「復讐の味は甘いから、太るよ」と題して「とんでもない○○のくせに!と罵ってやろうとしたら周囲から止められてしまった」と伏字でナンシーの体型を揶揄。ナンシーは週刊朝日4月8日号で「私も昨日や今日急に太ったワケでもないし。ま、ちゃんと読んでから怒ることだ」と切り返した[61]。
中川淳一郎は「ナンシー関の記事は人を選ぶ過激なものであったため、もし今(2009年時点)ナンシーが生きていてブロガーになったら度々炎上して大成しなかったであろう」という趣旨の評価をしている[62]。
生前、いくつかのテレビ番組に出演しているが、自分のイメージをコントロールできないという理由で1993年を最後に出演していない[63]。
週刊朝日での連載をまとめたもの。単行本:朝日新聞社、文庫:朝日文庫
週刊文春での連載をまとめたもの。単行本:文藝春秋、文庫:文春文庫
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