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杉田 成道(すぎた しげみち、1943年(昭和18年)10月5日[1] - )は、日本の演出家、映画監督。フジテレビ役員待遇エグゼクティブディレクター、日本映画放送社長を務めた。
『北の国から』シリーズなどの演出家として知られる。日本映画テレビプロデューサー協会会長(2003年 - 2015年)。
「すぎた せいどう」と呼ぶ者もある。
愛知県豊橋市新本町[1] で3人兄弟の末っ子として出生。生家は江戸時代から300年続く老舗の酒問屋。成道という名は、父と親交のあった陸軍大将の宇垣一成から1字をとって名付けられた[2]。兄はピアニストの杉田谷道。
1962年(昭和37年)愛知県立時習館高等学校を卒業し[1]、慶應義塾大学文学部へ進学。大学では約100人いる空手部のキャプテンとしても活躍した[3]。67年に大学を卒業。就職はもともと報道を志望していたので、フジテレビに入社する。しかし、編成局制作第一演出部へ配属され、小林俊一、岡田太郎(のち共同テレビ社長、吉永小百合の夫)らフジの看板ディレクターに師事して、演出助手としてドラマ制作に携わる[1][3]。
1970年(昭和45年)に『テレビナイトショー』で演出家デビューする。半年後に報道局に異動となり、『週刊ニュース』を担当[3]。その後、サンケイ新聞(現・産経新聞)に出向となり、社会部記者として環境庁(現・環境省)の記者クラブに所属して、新聞の一面トップ記事を書いたこともあった[3]。新聞記者もなかなか面白い仕事だ思いかけていた頃、フジテレビ復帰の辞令が出て、広報部に回される[3]。
その頃、「制作部に行って、ドラマをやりたい」という思いが強くなっていたが、当時のフジは制作分離を行っていたため、それは叶わず、系列制作会社である嶋田親一の「新制作プロ」に誘われた[3]。73年に『肝っ玉捕物帳』でドラマディレクターとしてデビュー[3]。以後、一貫してドラマ演出に携わり、企画担当の岡田から「いい経験だから」と言われて[3]、1981年(昭和56年)から担当した『北の国から』シリーズでフジテレビの看板ディレクターとなり[3]、この番組で知り合った脚本家の倉本聰を三木のり平とともに師として仰いでいる[4]。
1988年(昭和63年)に『優駿 ORACION』で映画監督デビュー[1]。92年、芸術選奨新人賞放送部門を受賞。
2001年(平成13年)6月、『悪の紋章』『Yの悲劇』という6本シリーズで一緒に仕事に取り組んだ村上光一が[3]、フジテレビ社長に就任することに伴い、後任として日本映画衛星放送(現:日本映画放送)の社長に就任し、21年6月、取締役相談役に退く。
北の国からでは、ニコニコしながら何度も「それじゃもう一回行こうか」と撮影をすることから、出演者からは「笑う悪魔」と呼ばれていた[5]。
1969年(昭和44年)9月に結婚して1男をもうける[1]。妻は小山内薫の孫で、妻の母親が喜劇俳優の三木のり平と再婚しており、三木は義父にあたる。50歳のとき妻とは癌で死別した[6]。
57歳で30歳年下の医学生の女性(のち小児科医)と再婚して4児をもうける[7]。2010年(平成22年)、妻の勧めでその経緯を記した『願わくは、鳩のごとくに』を出版。話題となった[8]。
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