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日本の俳優(1943−2008) ウィキペディアから
峰岸 徹(みねぎし とおる[1]、1943年7月17日[2] - 2008年10月11日[2])は、日本の俳優。本名は、
みねぎし とおる 峰岸 徹 | |||||
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本名 | 峰岸 知夫 | ||||
別名義 |
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生年月日 | 1943年7月17日 | ||||
没年月日 | 2008年10月11日(65歳没) | ||||
出生地 | 日本・東京都京橋区銀座 | ||||
死没地 | 日本・東京都江東区有明 | ||||
身長 | 173 cm | ||||
血液型 | O型 | ||||
職業 | 俳優 | ||||
活動期間 | 1962年 - 2008年 | ||||
配偶者 | 藍とも子(1977年 - 1983年) | ||||
事務所 | アクトレインクラブ(? - 2008年) | ||||
公式サイト | 峰岸徹 〜トライアスロンと〜 Toru Minegishi with Triathron アーカイブ | ||||
主な作品 | |||||
テレビドラマ 映画 『ゴジラvsビオランテ』 バラエティー番組など 『ものまね王座決定戦』 | |||||
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東京都出生、中央区立泰明小学校3年生時に日本橋浜町へ引っ越す。戦後、銀座で料亭「竹水」を営む母に育てられ、虚弱体質の少年だったが、ジェームズ・ディーンと石原裕次郎に憧れて俳優を志す。
幼少期より落語にも魅せられ、よく母に人形町末広亭などの方々の寄席へ連れて行ってもらっていた。
1962年に峰 健二の芸名で東宝映画『高校生と女教師・非情の青春』でデビュー。当時、六本木野獣会(渡辺プロダクションの渡辺晋社長が当時話題を呼んだ六本木族にならって若手スターの話題作りのためにプロデュースした集団)に属し、日本橋浜町の自宅には頻繁にメンバーの面々が集うほど慕われた存在であった。その風貌から、「和製ジェームス・ディーン」と呼ばれた「赤木圭一郎の生き写し」と言われ、『若い季節』や東宝映画へ出演。しかし、端正な二枚目ぶりが目立つあまり、若手の頃は演技力についての評価は思ったほどなく、峰岸自身も悩んでいた。
俳優座養成所第16期生(同期には古谷一行、河原崎建三、大出俊、鶴田忍、太地喜和子、須永慶、剣持伴紀、青山眉子)、文学座研究生を経て、1968年に田宮二郎に続く看板スターを探していた大映と契約、芸名を峰岸 隆之介と改める。同年、製作者協会新人賞を受賞。
1975年より、芸名を峰岸 徹とした。名前の読みは、主演作『哀愁のサーキット』を演出した映画監督の村川透に由来。また愛称は「トン」で芸名にも符合する。前述の六本木野獣会でつながりのあった渡辺晋に勧められての改名だった[4]。
1977年に藍と結婚するが、その後離婚。
『風と雲と虹と』では極悪非道な演技で視聴者を魅了、また、『高校教師』では実の娘と近親相姦を重ねる父親というショッキングな役が評判を呼んだ。『古畑任三郎』では頼りない古畑の上司・蟹丸義太夫役で準レギュラー出演。
大林宣彦監督作品の常連で、ロマンティックな容姿と演技が非日常的な、いわゆる「大林ワールド」に上手くマッチングした。特撮モノでは『ゴジラvsビオランテ』での権藤吾郎役は評価が高く、ゴジラ映画ファンのみならず、アメリカでも演技は絶賛された。
一方でバラエティー番組ではとぼけたキャラクターでオヤジギャグをとばし、共演者から突っ込まれることもあった。ダウンタウンの浜田雅功が司会を務める番組にもよくゲスト出演し、『ものまね王座決定戦』では審査員としても長年出演した。
また、1986年4月8日に投身自殺をしたアイドル歌手・岡田有希子(前年にテレビドラマ「禁じられたマリコ」にて共演)の失恋相手だったとの報道があり、時の人となった。岡田の自殺当日夜、仕事先のTBSにて峰岸が記者に囲まれ急遽会見し「正直ものすごいショックです」「僕はアニキのつもりだったが、彼女にはそれ以上のプラスアルファがあったのかも知れない」とコメント。また報道陣から男として責任を感じるかと問われ、「彼女にとっての初恋のようなものだったんだと思う。年も離れていますし、(峰岸からは)あまり好意を見せないように気を付けていたくらいでしたが、彼女からのそれが愛だったとすれば責任はあると思います」と回答した。後年に出版プロデューサー但馬オサムは著書で当時松田聖子が神田正輝と婚約したばかりであり、岡田の遺書に名前が記されていた俳優が神田ではないかという憶測があったため、松田と神田の芸能生命を守るために石原裕次郎に頭を下げられて峰岸がその風避けになった、と記しているが[5]、真相は謎である。
趣味はトライアスロンで、実際にレースにも参加していた。2001年には著書『トライアスロン200キロへの挑戦〜突然ですが、宮古島に行ってきます!』(株式会社ランナーズ刊)を出版、またその宮古島の美しい自然に魅せられたことから自然破壊などの環境問題にも関心を寄せていた。
晩年には幼少の頃より大好きだった落語へ興じ、新宿末広亭の舞台でそばの噺を披露した。
2008年4月、元々悩みの種であった椎間板ヘルニアから来る腰痛の症状が悪化した事を理由として6月に出演が決まっていた舞台公演からの降板を発表していた。実際には3月に腰痛の手術準備で検査入院した際に肺癌であることが判明、それが腰にまで転移しておりすでに切除手術が出来ない状態との告知を医師から受け入院、5月から6月に抗がん剤投与、放射線治療などの闘病をしていた事が真の降板理由であった事が7月に公表された[6]。同年8月に仕事復帰したものの、10月11日23時32分、死去、65歳没[3]。生前から公私共に親しかった映画監督の大林宣彦が手掛けた映画には数多く出演し、11月から公開された大林監督の作品『その日のまえに』が遺作となった。なお最後に公開されたのが「新宿インシデント」だが、撮影順では「その日のまえに」(2008年11月公開)が最後である。
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