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江戸時代の幕臣、旗本 ウィキペディアから
鳥居 耀蔵(とりい ようぞう)は、江戸時代の幕臣、旗本。耀蔵は通称、諱は忠耀(ただてる)。
実父は大学頭を務めた江戸幕府儒者の林述斎。父方の祖父の松平乗薀は美濃岩村藩の第3代藩主、乗薀の実父は吉宗の下で享保の改革を進めた老中松平乗邑である。旗本鳥居成純の長女・登与の婿として養嗣子となり、鳥居家を継ぐ。弟に日米和親条約の交渉を行った林復斎が、甥に同じく幕末の外交交渉に当たった岩瀬忠震、堀利煕がいる。
寛政8年(1796年)11月24日、林述斎(林衡)の三男(四男説もある)として生まれる。生母の前原氏は側室であった。文政3年(1820年)、25歳の時に鳥居成純の婿養子となって家督を継ぎ、2,500石を食む身分となる。そして11代将軍徳川家斉の側近として仕えた。
やがて家斉が隠居して徳川家慶が12代将軍となり、老中である水野忠邦の天保の改革の下、目付や南町奉行として市中の取締りを行う。渋川敬直、後藤三右衛門(13代目後藤庄三郎)と共に水野の三羽烏と呼ばれる。
天保9年(1838年)、江戸湾測量を巡って江川英龍と対立する。この時の遺恨に生来の保守的な思考も加わって蘭学者を嫌悪するようになり、翌年の蛮社の獄で渡辺崋山や高野長英ら蘭学者を弾圧する遠因となったといわれる。
だが、これについては、耀蔵は単なる蘭学嫌いではなく、天保14年(1843年)多紀安良の蘭学書出版差し止めの意見に対して「天文・暦数・医術は蛮夷の書とても、専ら御採用相成」と主張して反対するなど、その実用性はある程度認めていたこと、また江戸湾巡視の際に耀蔵と江川の間に対立があったのは確かだが、もともと耀蔵と江川は以前から昵懇の間柄であり、両者の親交は江戸湾巡視中や蛮社の獄の後も、耀蔵が失脚する弘化元年(1844年)まで続いていること、耀蔵は江戸湾巡視や蛮社の獄の1年も前から花井虎一を使って崋山の内偵を進めていたことを指摘し、蛮社の獄は『戊戌夢物語』の著者の探索にことよせて「蘭学にて大施主」と噂されていた崋山を町人たちともに「無人島渡海相企候一件」として断罪し、鎖国の排外的閉鎖性の緩みに対する一罰百戒を企図して起こされたとする説がある[1]。
天保12年(1841年)、市民に人気のあった南町奉行矢部定謙を讒言により失脚させ、その後任として南町奉行となる。矢部家は改易、定謙は伊勢桑名藩に幽閉となり、ほどなく絶食して憤死する。江戸の市民からはかなり嫌われていたようであり、「町々で惜しがる奉行、やめ(矢部)にして、どこがとりえ(鳥居)でどこが良う(耀)蔵」という落首が詠まれたという。天保の改革における耀蔵の市中取締りは非常に厳しく、おとり捜査を常套手段とするなど権謀術数に長けていたため、当時の人々からは“蝮(マムシ)の耀蔵”、あるいはその名をもじって“妖怪”(通称の「耀蔵」・官位の「甲斐守」)とあだ名された。また、この時期に北町奉行だった遠山景元(金四郎)が改革に批判的な態度をとって規制の緩和を図ると、耀蔵は水野と協力し、遠山を北町奉行から地位は高いが閑職の大目付に転任させた(遠山は鳥居失脚後に南町奉行として復帰した)。天保14年(1843年)に勘定奉行も兼任、印旛沼開拓に取り組んだ。
アヘン戦争後、列強の侵略の危機感から、江川や高島秋帆らは洋式の軍備の採用を幕府に上申し、採用されるが、終始反対の立場にあった耀蔵は快く思わず、手下の本庄茂平次ら密偵を使い、姻戚関係にあった長崎奉行伊沢政義(伊沢の長男政達は耀蔵の娘と結婚)と協力して、赴任前の伊沢と事前に相談したり自分の与力を伊沢に付き従えさせるなどして、高島に密貿易や謀反の罪を着せた。長崎で逮捕され、小伝馬町の牢獄に押し込められた高島に、耀蔵が自ら取り調べにあたるなどして進歩派を恐れさせたとされる。だが、これについても長崎会所の長年にわたる杜撰な運営の責任者として高島は処罰されたのであり、高島の逮捕・長崎会所の粛清は会所経理の乱脈が銅座の精銅生産を阻害することを恐れた水野によって行われたものとする説がある[2]。
改革末期に水野が上知令の発布を計画し、これが諸大名・旗本の猛反発を買った際に耀蔵は反対派に寝返り、老中土井利位に機密資料を残らず横流しした。やがて改革は頓挫し、水野は老中辞任に追い込まれてしまうが、耀蔵は従来の地位を保った。
ところが半年後の弘化元年(1844年)5月、江戸城本丸が火災により焼失した。老中首座・土井利位はその再建費用としての諸大名からの献金を充分には集められなかったことから将軍家慶の不興を買い、外交問題の紛糾を理由に水野が再び老中として将軍家慶から幕政を委ねられると状況は一変する。
土井は前述の不手際の責任と同時に水野の報復を恐れて老中を辞任し、耀蔵は孤立する。水野は自分を裏切り、改革を挫折させた耀蔵を許さず、元仲間の渋川、後藤の裏切りもあって、同年9月に耀蔵は職務怠慢、不正を理由に解任される。翌弘化2年(1845年)2月22日に鳥居は有罪とされ、全財産没収の上で肥後人吉藩主相良長福に預けられると決定したが、4月26日に出羽岩崎藩主佐竹義純に預け替えになった。結局10月3日に讃岐丸亀藩主京極高朗に預けられ[3]、この際には「金毘羅へいやな鳥居を奉納し」という川柳も詠まれている。水野自身も2月に再び老中を罷免され、家督を実子の忠精に相続させた後に蟄居隠居。その後水野家は出羽国山形藩に転封されている。鳥居が讃岐丸亀藩預かりとなった同日、渋川も水野と連座して豊後臼杵藩主稲葉観通に預けられ、後藤は斬首、本荘は播磨三日月藩主森長国に預けられた。また、伊沢も長崎奉行を罷免され、西丸留守居に左遷された。これ以降、耀蔵は明治維新の際に恩赦を受けるまでの間、20年以上お預けの身として軟禁状態に置かれた。
丸亀での耀蔵には昼夜兼行で監視者が付き、使用人と医師が置かれた。監視は厳しく、時には私物を持ち去られたり、一切無視されたりすることもあった。嘉永5年(1852年)の日記には一年中話をしなかったという記述がある。
そんな無聊を慰めるため、また健康維持のため、若年からの漢方の心得を活かし幽閉屋敷で薬草の栽培を行った。また自らの健康維持のみならず、領民への治療も行い慕われた。林家の出身であったため学識が豊富で、丸亀藩士も教えを請いに訪問し、彼らから崇敬を受けていた。このように、軟禁されていた時代の耀蔵は“妖怪”と渾名され嫌われた奉行時代とは対照的に、丸亀藩周辺の人々からは尊敬され感謝されていたようである。丸亀にいた間に、鳥居が食べたビワの種を窓から投げ捨てていたら、彼が去る際に立派な大木に育っていた、と勝海舟が記している[4]。
江戸幕府滅亡前後は監視もかなり緩み、耀蔵は病と戦いながら様々な変化を見聞している。明治政府による恩赦で、明治元年(1868年)10月に幽閉を解かれた。しかし耀蔵は「自分は将軍家によって配流されたのであるから上様からの赦免の文書が来なければ自分の幽閉は解かれない」と言って容易に動かず、新政府や丸亀藩を困らせた。
東京と改名された江戸に戻ってしばらく居住していたが、明治3年(1870年)郷里の駿府(現在の静岡市)に移住(この際、実家である林家を頼ったが、林家では彼を見知っているものが一人もいなかったという[5])、明治5年(1872年)に東京に戻る。江戸時代とは様変わりした状態を慨嘆し「自分の言う通りにしなかったから、こうなったのだ」と憤慨していたという。晩年は知人や旧友の家を尋ねて昔話をするような平穏な日々を送り、明治6年(1873年)10月3日、多くの子や孫に看取られながら亡くなった。享年78。墓所は東京都文京区の吉祥寺。
同時代人の人物評が残っている。
残された日記や詩文から、耀蔵は自分を退けて開国したことが幕府滅亡の原因であると考え、当時流行した洋風軍隊や民衆の軍事教練に批判的な目を向けているのがわかる。実際にこれらの軍制改革は武士中心の従前の軍事制度、ひいては幕府を含む封建制を否定するものである。また最晩年、昔の部下が訪ねてきたとき「昔、自分は幕府に“外国人を近づけてはならぬ。その害は必ずある”と言い続けたのに誰も耳を傾けなかった。だから幕府は滅んだのだ。もうどうしようもない」と傲然と言い放ち、部下は何も言えず頭を下げて辞したという。これらの事例から、耀蔵は頑迷な人物であった事がわかる。蛮社の獄により日本は多くの人材を失ったが、実行に際しては耀蔵なりの信念を持っていたとも考えられる。ただ、上司・水野忠邦への裏切り行為や同僚・矢部定謙への讒言行為などは、彼の評価を大きく下げている。政敵やそりが合わない者に対する敵意、憎悪はすさまじく、そのひとりである阿部正弘の訃報を聞いた折には「快甚し」と日記に記述している。
遠山景元は当時の江戸庶民の人気と同情を集め、遠山=善玉、鳥居=悪玉の図式ができ上がった。ここから、後に講談や小説、映画やテレビドラマで人気を博することになる『遠山の金さん』の素地、及び時代劇における悪役としての鳥居のイメージができ上がったといわれる。
儒学者の家に生まれた耀蔵は詩をよくものした。特に幽閉時代は無聊を慰めるため詩作に励んだが、自身の悶々とした思いが込められている。例えば次の詩は赦免されて23年振りに江戸(=東京)へ帰ってきたときの述懐である。
交市通商競イテ狂ウガ如ク
誰カ知ラン故虜ニ深望アルヲ
後ノ五十年須ラク見ルヲ得ベケレバ
神州恐ラクハ是レ夷郷ト作ラン
鳥居耀蔵を好意的に書いている小説として
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