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徳川幕府および諸藩の役職 ウィキペディアから
大目付(おおめつけ)は、江戸幕府および諸藩の役職の一つ。古くは惣目付(そうめつけ)、大監察(だいかんさつ)とも呼ばれた。
大目付は、大名・高家および朝廷を監視して、これらの謀反から幕府を守る監察官の役割を持った。寛永9年(1632年)12月17日に、秋山正重・水野守信・柳生宗矩・井上政重の4名が任じられたのがはじまりである。また、設置当初は惣目付と称した[1]。
旗本の中から選任され、旗本の役職の中でも御側衆・御留守居・大番頭に準ずる高位とされた。そして、旗本でありながら万石級(大名)を監視することから、その在任中は大名同等に万石級の禄高を与えられ、「○○守」の官位が叙任された。
江戸時代中期になると、従来の監察官としての色彩よりも伝令(幕府の命令を全国の大名に伝える役)や殿中(江戸城中)での儀礼官としての色彩が濃くなり、名誉職・閑職とみなされるようになり、町奉行や勘定奉行を務めた旗本が、老年になって任じられる役職となった。また、兼帯といって道中奉行・宗門改役・鉄砲改役など5つの役を兼任した[2]。
役高は3000石で、幕府では職制上は老中の管轄支配下とされた[3]。寛文5年(1665年)に役料制度が発足された翌年に、役高は1000俵と定められた。天和2年(1682年)に役料制度が廃止されると役高をそのまま知行高に加えられることとなった。
元禄5年(1692年)に役料制度が復活され、この時の制度では、大目付の役高は3000石と定められ、役高が3000石以下の知行者のみに700俵が支給された。
定員は不定で、家光-家綱期は3ないし2名、綱吉-家重期は4ないし3名、家治-家慶期は5ないし4名であり、掛の新設などによっても設置人数は変化した[4]。道中奉行を兼帯する大目付は筆頭格であり、京都所司代・大坂城代等と同様に将軍を代理する立場にあった。
会津藩・大垣藩・米沢藩・肥後藩など、諸藩にもこれらの役職を置く藩が存在した。会津藩では2名、大垣藩では5から8名置かれており、人数は藩や時代により様々であった。
中老・番頭・組頭より格下の藩士から選ばれる藩や米沢藩のように武鑑で用人として掲載される藩もあれば、会津藩のように家老・若年寄・奉行に次ぐ重職で、家老候補である藩も存在した。肥後藩でも、家老・中老に次ぐ重職(大奉行と並んで)とされ、目付・横目を配下に収めた[5]。これらのように、藩によって同じ役職名でも位置づけが異なっていた。
一方で柳河藩のように当初、大目付役が存在したが専横を振るったので廃止になった藩もあれば、長州藩や仙台藩のように大目付職が存在しない藩もあった。
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