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江戸時代前期の旗本、大目付。従五位下・修理亮。子に秋山正俊(嫡男、十右衛門、大目付)、秋山正家、秋山方頼、秋山正勝。 ウィキペディアから
秋山 正重(あきやま まさしげ)は、江戸時代前期の旗本。1632年に最初に任命された4人の大目付のうちの1人。通称は十右衛門[1]。官位は従五位下・修理亮[1]。
秋山家は甲斐武田氏旧臣の家系で、正重の叔母(秋山虎康の娘)の於都摩(下山殿)は、家康の側室となって武田信吉を生んだ[6]。この関係で、正重の父の秋山昌秀は下総国内で1000石を与えられている[7]。秋山家の知行地支配の拠点となる陣屋は小金(千葉県松戸市小金付近)に置かれたと考えられる[7][注釈 3]。
正重は徳川秀忠に仕えて、書院番を務め、大坂の陣に従軍する[1]。元和4年(1618年)には、目付に任じられた[1]。このとき加増を受けて、下総長柄郡内1000石を知行した[1]。
元和9年(1623年)に父の遺領1000石を相続し、計2000石となる[1]。同年、岩槻藩主青山忠俊が大多喜藩に移されるのを受けて、岩槻に城地受け取りのため出張[1]。寛永4年(1627年)12月に従五位下・修理亮に叙任[1]。
寛永9年(1632年)、熊本藩主加藤忠広が改易されたのを受け、同年6月16日に将軍の命を受けて熊本に赴いた[1]。この年10月3日、上総国武射郡・市原郡において2000石を加増され、4000石となる[1]。
寛永9年(1632年)12月17日、水野守信・柳生宗矩・井上政重と共に惣目付に任じられた。これが大目付の起源である[1]。寛永11年(1634年)の家光の上洛の際には、先行して行列通行の準備(路地の沙汰)にあたった[1]。寛永13年(1636年)に家光が日光社参を行った際には、今市に出張して旅館の補修について検分した[1]。
寛永17年(1640年)10月3日に没する[1]。55歳[1]。墓所は下総国葛飾郡小金村(現在の松戸市)の本土寺[1]。
特記事項のない限り、『寛政重修諸家譜』による[1]。子の続柄の後に記した ( ) 内の数字は、『寛政譜』の記載順。
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