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甲斐武田氏旧臣 越前守 ウィキペディアから
秋山 虎康(あきやま とらやす)は、戦国時代の武将。甲斐武田家家臣・秋山氏の一族で、武田二十四将の一人・秋山虎繁(信友)の甥とされる。娘の於都摩(おつま。下山殿)は、穴山信君の養女として徳川家康の側室となり[8]、家康の五男である武田信吉を生んだ[9]。子孫は江戸幕府の旗本となった。通称は源四郎[10][11]、越前守と称した[12]。
甲斐国高畠(現在の山梨県甲府市高畑)を拠点とし[10][12]、武田信玄[9][2]・武田勝頼[2]に仕えた。『甲陽軍鑑』によれば、御聖道様衆(信玄の次男・竜芳(海野信親)付きの役人[11])の一人とされる[10][12]。
天正10年(1582年)2月、織田信長の武田征伐において穴山信君(梅雪)が徳川家康に降った際、信君は家康に2人の「美女」を献じているが、その一人が虎康の娘の於都摩であった[13][10][注釈 2]。於都摩は下山城主であった信君の娘(養女)とされたために、下山殿と呼ばれたという[10]。家康の側室となった於都摩は、天正11年(1583年)に万千代(武田信吉)を生み、天正19年(1591年)に死去した[13]。
文禄3年(1594年)、孫の武田信吉の領地である下総国小金領に移住[注釈 1]。慶長元年(1596年)9月、本源寺(現在の松戸市大橋)を開く[注釈 1]。「本源寺」の名は、本山である本土寺の「本」と、秋山氏の本姓である源氏の「源」に由来するという[注釈 1]。
『本土寺過去帳』や、『続群書類従』所収「秋山系図」[2]によれば、慶長7年(1602年)6月17日に84歳で没とある[2]。ただし、84歳で亡くなったとするならば大永4年(1524年)生まれとなり、伯父とされる[注釈 3]虎繁の生年(大永7年(1527年))より前の生まれとなる。
特記事項のない限り、『寛政重修諸家譜』による[9]。
虎康が拠点を置いた高畠(甲府市高畑)には「秋山氏館跡」と呼ばれる遺跡がある[12]。1999年から2000年にかけて行われた発掘調査の結果[15]、中世には館としては使用されていなかったことが判明した[16]。この遺跡のある地点は、江戸時代後期に高畑村の村役人(名主や長百姓[17])を務めた秋山氏の屋敷跡であり、発掘調査では陶磁器・土器・漆器など村役人層の生活を知ることのできる資料がまとまって発掘された[16]。報告書では「近世の秋山氏屋敷跡」と言うべきであろうとされている[17]。
近世高畑村の秋山家は、虎康とは別系統とされる[18]。高畑村秋山家の所伝によれば、祖先は武田家に仕え、武田家滅亡後は「西郡中野村」に蟄居していたが、慶長10年(1605年)に「兵部介」が当地に屋敷を構えたとされ[17]、柳沢家が甲府に在城していた時代(甲府藩)には家臣として召し抱えられたが、柳沢吉里が大和郡山藩に転出した際に甲斐に残留したという[17]。
『甲斐国志』によれば、秋山伯耆守(虎繁)の子・民部右衛門の孫にあたる秋山平太夫は水野監物(岡崎藩)に仕官した[10][注釈 4]。平太夫の二男・秋山孫右衛門は、高畑村に住む従兄弟の秋山三左衛門を頼り[10]、宝永2年(1705年)の諸浪人改の際に「浪人」として高畑村に所在していたという[10][18]。
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