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日本の俳優(1927−2001) ウィキペディアから
南原 宏治(なんばら こうじ、1927年〈昭和2年〉6月7日 - 2001年〈平成13年〉12月20日)は、日本の俳優。本名は伍井 卯和二(いつい うわじ[1]、旧姓は則竹)。神奈川県横浜市出身。最後の所属事務所はアクターズプロモーション。
この記事のほとんどまたは全てが唯一の出典にのみ基づいています。 (2017年1月) |
元妻は、宝塚歌劇団出身で女優の上月左知子。長女は元宝塚歌劇団月組男役の嘉月絵理。長男は俳優の南原健朗、次男は元俳優の山口正朗。
父親が刑務所長だったことから横浜刑務所の官舎で生まれ、東京府八王子市などで育った後、学徒動員で中国に渡り、天津で終戦を迎える[1]。戦後は東京農業教育専門学校を経て、東京大学農学部中退[1]。
1951年、スポーツニッポン新聞社主催の「ミスターニッポンコンテスト」で準ミスターニッポンに選出されたのをきっかけに、第6期ニューフェイスとして大映入りする[1]。一般公募により、船上 爽(ふながみ そう、舩上 爽)の芸名でデビューした。
大映では『雨月物語』はじめ数本の作品に端役で出演したのみに留まり、本格的なデビューは東映移籍後の1954年、東映ニューフェイスの1期生としてで、同期には中原ひとみ、山本麟一、高田敏江らがいる。同年より南原 伸二(なんばら しんじ)の芸名で主演作含めほとんどの作品にメインの役どころで出演した。
1957年、独立映画の『異母兄弟』に出演したことが原因で、五社協定に触れて東映を離れ、松竹と本数契約を結ぶとともに有馬稲子の推薦で文芸プロダクションにんじんくらぶに所属する。1960年、芸名を南原 宏治に改める。1965年のにんじんくらぶ解散後は、現代演劇協会附属劇団欅に参加するが、1973年には現代演劇協会のマネージメント体制の弱さを理由に離脱しフリーとなる。
フリー以降も各社の映画やテレビドラマにて、主に個性的な悪役として活躍した。政界のフィクサーや暴力団の大ボスなど重厚な巨悪を演じる一方、映画『修羅雪姫 怨み恋歌』における聾唖の殺し屋「蜍」、テレビ時代劇『風』の怪剣士「野ざらし主膳」など、常軌を逸した狂気的な敵役としても数多く出演した。アクの強い特異な個性で強烈な存在感を見せた。
1979年には劇団「天地劇」を創設。旧芸名の由来でもある長谷川伸全戯曲公演を目標に『沓掛時次郎』、『瞼の母』、かつて自身が商業演劇で主役を演じた『嵐が丘』、『霧の中』などの舞台を手掛け、後進の育成・指導にも尽力した。
1987年、幸福の科学の会員となり、俳優業を続けながらその後、本部職員・講師を務めた。1989年には本部講師に昇格、1990年からは伝道部長として同教団の勧誘活動における旗振り役を続ける。教団総裁の大川隆法が製作・総指揮した東映の映画『ノストラダムス戦慄の啓示』や『ヘルメス - 愛は風の如く』にも出演している。
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