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1974年のNHK大河ドラマ第12作 ウィキペディアから
『勝海舟』(かつかいしゅう)は、1974年1月6日から12月29日まで放送されたNHK大河ドラマ第12作。1946年に刊行された子母沢寛の同名小説を原作に、勝海舟の生涯を、海舟を取り巻く人々の人間模様を織り交ぜて描いた。
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脚本には倉本聰が起用された[1]。倉本はキャスティングの多くを決めて萩原健一を岡田以蔵役に起用したりした[2]。
当初、主人公の海舟役は渡哲也だったが、渡が膠原病に倒れて降板[3][4][5][6][7][8]、渡が第9話まで務めた後に異例の主役交代となり、第10話以降は松方弘樹が引き継いだ[9][4][5][6][7][10][11]。松方は好評だった1965年の『人形佐七捕物帳』に主演して以来のNHKドラマである。この交代に際して、松方の初登場となる第10話では、冒頭に前話の後に起きた(勝海舟とは離れた)出来事の描写を長めにとり、部屋に掛けられた佐久間象山の掛け軸からカメラを引いて松方演じる勝海舟の背中が映るという演出をおこなって、俳優交代の違和を少なくする工夫をした[12]。
放送時はNHKの労使対立問題で現場が混乱して制作体制が定まっておらず、全話収録終了後に松方の不満が爆発[7]、脚本の倉本聰が勅使河原平八ら演出スタッフと衝突して降板し東京を去り[13]、中沢昭二に交代した。ディレクターの一人だった伊豫田静弘の回想では、まずスタッフに大河の経験者が少なく、とりわけプロデューサーやチーフ・ディレクターといった指揮を執る役職がいずれも未経験者だったことにトラブルの端緒があるとしている[14]。チーフ・ディレクターの中山光雄は『赤ひげ』で倉本と組んだ経験から、難しい局面で倉本に頼る傾向があったという[14]。一方で、細かな演出の方針を巡って倉本と齟齬を来した演出スタッフは、次第に倉本のやり方を「演出の職域を侵害している」と見て不満を募らせた[14]。倉本自身は、自分が「本読み」(俳優との台本の読み合わせ)から抜けた後に演出家が無断で修正していると萩原から聞かされていた矢先、渡から松方への交代について取材を受けた週刊誌の見出しに「爆弾発言」と内部告発風の表現が出たことで、他のスタッフから吊し上げを受けて東京を離れたと記している[15][注釈 1]。
松方の代役が決まるまでは以下の経緯による。
渡が39度くらいの熱が続いているのにプロデューサーが収録を続けさせたことがNHK局内で大騒ぎになって当時の制作局長・川口幹夫の耳に届き[11]、主役をすぐかえないとマズいという話になった[11]。しかし代役候補に挙げた役者が全部スケジュールがダメで代役が決まらず[11]、最終的に松方弘樹が候補に挙がった[11]。しかし松方は当時売り出し中で、大阪の梅田コマ劇場で舞台をやっていてNHKは口説ききれず[10][11]、倉本自ら「俺が口説いてくる」とNHKに一任され、東映本社に乗り込み、岡田茂東映社長に直談判した[4][5][6][7][10][11]。すると岡田から「俺が松方に電話入れておくから大阪に行って本人を直接口説いてくれ」と言われ[10][11]、それまで面識の全くなかった松方に大阪で会ったら、倉本が新幹線に乗っている間に、既に岡田が諸問題をいろいろクリアしてくれていて、松方は「やらせていただきます」と即答した[10][11]。2015年8月の『日本経済新聞』「私の履歴書」の倉本の連載でも、松方は超多忙で代役は無理だろうとNHK局内に強まり、誰も口説きにいかないので、倉本自ら「東映社長の岡田茂さんに『松方を大河ドラマに出演させてください』とお願いすると『松方にもいいチャンスだ』と言って進行中の仕事を除いて、以後のスケジュールを止めてくれた」と書かれており[4]、『デイリースポーツ』の中島の連載や、倉本の著書『愚者の旅』もこれに似た記述がされている[4][5][6]。ただ能村庸一の著書では、岡田が推薦した松方は不良性抜群で、何故松方なのかNHKは理解に苦しむと、倉本の話とは少し異なる記述がされている[7]。最終的にNHK・松方・岡田の三者会談が行われ、「弘樹、人が困ってるんや、やってやれや」と岡田の"鶴の一声"で松方は代役を受けるハラを決めた[5][6][7]。松方は1974年3月当時の『サンデー毎日』の手記で、「渡哲也さんが病気で、勝海舟の代役にぼくの名前があがっていると、所属の東映から話をきいたのは1月24日のことだった。(中略)NHKの大河ドラマの主役交代というのは初めてのことだし、急にそんな話を持ってこられても答えに困る。そのうえぼくは東映所属の俳優だから、独行はできない。上のほうで相談して下さいと、その時は答えた。しかし早耳の新聞記者の人たちが、続々と楽屋に訪ねてこられる。(中略)あれよあれよという間に、交代劇は勝手に突っ走っていく感じだった。その夜ぼくは渡さんの家へ電話した。渡さんは不在だったが、奥さんが『あとはよろしくお願いします』といわれた。その直後渡瀬くんから電話がきた。『兄貴を助けてやってくれよ』といわれた。29日、梅田コマの公演が終わり、東映、NHKと三者会談があった。岡田社長が「やれよ」といった。ハラが決まったのはその時である。舞台があったので一度も番組を見ていない。原作も知らない。その日からあわてて原作を読み、(後略)」などと話している[16]。また松方の1975年の著書『松方弘樹の言いたい放談 きつい一発』では、渡哲也さんが病の床に倒れたので、その後を引き受けて欲しいと電話があって、いろいろ迷ってしまったが、岡田社長の『助けてやれや』の一言で結局、引き受けることに決まった、と書いている[17]。
映画監督の中島貞夫の著書『遊撃の美学 - 映画監督中島貞夫』では、渡が病気になると倉本は東京大学文学部の同級生で親友である中島に「時代劇を背負えるやつが誰かおらんか」と相談し[18]、中島はこの頃仕事に恵まれず、空いていた松方を倉本に推薦[18]。NHKへ行く松方に中島は付き添い、「じゃあ弘樹ちゃんでいこう」と代役が決まった[18]、中島は「帰ってくる時に(主演)映画を一本用意しておく」と松方に約束した、と書かれている[注釈 2]。 中島は著書で「この頃仕事に恵まれず、空いていた松方」と書いているが、松方は先述のようにこの頃忙しかったのであり、中島の記憶違いが見られる。当時の中島は1967年に東映を退社してフリーであった[19][20]。松方は東映専属の俳優ではなく岡田茂の個人預かりの俳優だった[21][22]。先の倉本の著書やインタビュー、『日本経済新聞』の連載、松方の手記、著書などにも中島は出てこない。
神経質でひ弱な海舟が出来あがり[5]、松方は放送終了後「NHKはモノをつくるところじゃない」などと発言して物議を醸した[23]。松方が仁科明子と恋仲になるのは、このドラマで共演したからであるが、松方は当時既婚者で、仁科の父である岩井半四郎が激怒し、マスコミを賑わせたものの、彼らの知名度が上がることにつながっている[23][24]。
松方の演じた勝海舟について、ディレクターの一人である伊豫田静弘は、「松方さんも、もちろん内心はいろいろあったと思います。でも、豪気な方ですし、東映で主役を張ってきた方だけあって―主役としての風格といいますか―間の捕まえ方というのはうまかったです。それから、俺は俺のやり方しかやりようがないみたいな開き直りというかね、そういうのは感じられました」と述べている[12]。
最高視聴率は30.9%、年間平均視聴率は24.2%(関東地区・ビデオリサーチ調べ)だった[25]。これは幕末を扱った大河ドラマとして当時最高の数字だった[26]。
特記がない限りウェブサイト「NHKクロニクル」の「NHK番組表ヒストリー」で確認[28]。
放送回 | 放送日 | 題 | 演出[27] |
---|---|---|---|
第1回 | 1月 6日 | 青年 | 中山三雄 |
第2回 | 1月13日 | 武州徳丸ヶ原 | 中山三雄 |
第3回 | 1月20日 | 禁足 | 勅使河原平八 |
第4回 | 1月27日 | 恋 | 伊予田静弘 |
第5回 | 2月 3日 | 転向 | 山中朝雄 |
第6回 | 2月10日 | 貧困 | 中山三雄 |
第7回 | 2月17日 | 虫けら | 中山三雄 |
第8回 | 2月24日 | 残り火 | 勅使河原平八 |
第9回 | 3月 3日 | 幕臣 | 伊予田静弘 |
第10回 | 3月10日 | 海鳴り | 中山三雄 |
第11回 | 3月17日 | 黒船渡来 | 中山三雄 |
第12回 | 3月24日 | 風浪 | 中山三雄 |
第13回 | 3月31日 | 巣立ち | 勅使河原平八 |
第14回 | 4月 7日 | 長崎海軍伝習所 | 伊予田静弘 |
第15回 | 4月14日 | 対岸 | 山中朝雄 |
第16回 | 4月21日 | 巨木果つ | 中山三雄 |
第17回 | 4月28日 | 黒い波濤 | 勅使河原平八 |
第18回 | 5月 5日 | 薩摩路 | 伊予田静弘 |
第19回 | 5月12日 | 大獄 | 山中朝雄 |
第20回 | 5月19日 | 出航 | 中山三雄 |
第21回 | 5月26日 | 咸臨丸渡航 | 山中朝雄 |
第22回 | 6月 2日 | 天誅 | 中山三雄 |
第23回 | 6月 9日 | 冬牡丹 | 中山三雄 |
第24回 | 6月16日 | 幽霊 | 勅使河原平八 |
第25回 | 6月23日 | 寒月 | 伊予田静弘 |
第26回 | 6月30日 | 攘夷 | 山中朝雄 |
第27回 | 7月 7日 | 捨て犬 | 三井章 |
第28回 | 7月14日 | 奔流 | 中山三雄 |
第29回 | 7月21日 | 海軍伝習生春山弁蔵 | 中山三雄 |
第30回 | 7月28日 | 以蔵無惨 | 勅使河原平八 |
第31回 | 8月 4日 | 別れ | 伊予田静弘 |
第32回 | 8月11日 | 池田屋 | 山中朝雄 |
第33回 | 8月18日 | 三条木屋町 | 中山三雄 |
第34回 | 8月25日 | 禁門の変 | 加藤郁雄 |
第35回 | 9月 1日 | 孤独 | 伊予田静弘 |
第36回 | 9月 8日 | 焦燥 | 山中朝雄 |
第37回 | 9月15日 | こぼれ花 | 中山三雄 |
第38回 | 9月22日 | 竜馬遭難 | 中山三雄 |
第39回 | 9月29日 | 慟哭 | 三井章 |
第40回 | 10月 | 6日特使 | 勅使河原平八 |
第41回 | 10月13日 | 足音 | 山中朝雄 |
第42回 | 10月20日 | ええじゃないか | 加藤郁雄 |
第43回 | 10月27日 | 大政奉還 | 高松良征 |
第44回 | 11月 | 3日竜馬死す | 伊予田静弘 |
第45回 | 11月10日 | 三田薩摩屋敷 | 勅使河原平八 |
第46回 | 11月17日 | 重荷 | 山中朝雄 |
第47回 | 11月24日 | 暴発 | 中山三雄 |
第48回 | 12月 | 1日壮士西へ | 東海林通 |
第49回 | 12月 | 8日赤心 | 三井章 |
第50回 | 12月15日 | 江戸焦土作戦 | 山中朝雄 |
第51回 | 12月22日 | 前夜 | 中山三雄 |
最終回 | 12月29日 | 無血開城 | 中山三雄 |
平均視聴率 24.2% (視聴率は関東地区・ビデオリサーチ社調べ[25]) |
※ 最終回は再放送されず。
第38回、第39回、総集編の保存が判明しているが、権利元より放送許諾を得られなかったために時代劇専門チャンネルで放映された大河ドラマアーカイブスでは未放映となった。各都道府県のNHKアーカイブスおよびNHKオンデマンドで総集編前後編として視聴可能。1978年6月に東京12チャンネルで再放送された後、2016年4月に時代劇専門チャンネル「大河ドラマ総集編劇場」でBS・CS初の放送がされ[29]、同年12月22日にNHKスクエアより総集編DVD全2枚が発売された。NHKでは番組関係者、一般視聴者にマスターテープが失われた映像の提供を呼びかけている[30]。
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